「もしもし」と、藤原ふじわらときは受話器を取った。

 春のおわりの午後である。そろそろひいの韓国ドラマの続きを見ようか、それとも軽く午睡をとろうか、そんな時間に鳴った電話の向こうから聞こえてきたのは、知らない男の声だった。

「突然のお電話を失礼いたします。わたくし、××保険のホンダと申します。さきほど坂口さかぐちあいさんが四ツ葉駅近くの公道で自動車の人身事故を起こしまして」

「ええっ」

 時子はちいさく悲鳴を上げた。

 愛梨は時子のたった一人の孫で、現在大学一年生だ。七十九歳の時子が長男の和洋かずひろとふたりで暮らす自宅から、電車で一時間ほど揺られた先にある海に近い街で、長女の亮子りようことその夫の忠信ただのぶと暮らしている。

「奥様、愛梨さんはご無事ですのでご安心ください。ただ、高校生をはねてしまいまして、現在わたくしが対応させていただいているところです」

 受話器を持つ手がふるえだす。

「……被害者のほうは、命には別条はないものの負傷されておりまして、いろいろと現場の調査をしております」

「愛梨ちゃんは今、どうしているの」

 ぱくぱくと、口呼吸しながらようやく発した声は、ところどころ裏返ってかすれた。

「それが……実はだいぶショックを受けられて、今、泣いておられます」

 電話の向こうでホンダが言った。

 いてもたってもいられなくなった時子は、

「愛梨ちゃんに代わってちょうだい!」

 叫ぶように言った。

 ばあば、ばあば、と自分を呼ぶちいさな姿が浮かぶ。幼い頃、熱を出すたび呼び出され、共働きの娘夫婦を助けるために、時子は何度も愛梨の面倒を見に行った。遠い町まで行くのは大変だったが、頼られるのは幸せなことだったと今では思う。

 成長し、面倒を見る必要もなくなって、会う頻度は減ったけれど、愛おしさは変わらない。

「愛梨ちゃん! 愛梨ちゃん!」

 時子は必死に呼びかけた。

 すると時子の耳に、

「ごめん」

 と、かぼそい声が聞こえてきた。

「愛梨ちゃん、ばあばよ。だいじょうぶ!? だいじょうぶなの!?」

「あたし……」

 と言うなり、愛梨は泣き崩れた。

「愛梨ちゃん、怪我してない? 痛いところはないの? 病院に行かなくていいの?」

 くりかえし訊ねたが、愛梨は自分がやってしまったことに混乱しており、うまく答えることができないようだ。

「ばあば、ごめん……どうしよう……」

「亮子には連絡した? なんて言っているの?」

 愛梨は、ごめん、と繰り返す。そしてエッエッと泣き続ける。時子が世話していた頃と変わらない、甘ったれた泣き声だ。

「……お孫さんは今、お話しできる状況ではありませんので、わたくしが対応させていただきます」

 途中でホンダが、愛梨から代わった。

「現状を説明いたしますと、愛梨さんはご無事です。いくつか擦り傷が見られますが、応急処置はいたしました。大きな怪我もないようです。ただ、事故に遭われた高校生は意識が朦朧もうろうとされた状態で、さきほど病院に搬送されまして」

 そうだ、孫は高校生を車ではねてしまったのだ。現実が重くのしかかる。愛梨はどうなってしまうのか。

「これから一時間後に、被害者の保護者の方とわたくしが面談をいたします。ただ、その際、もし向こう様に通報されて警察に届けを出されてしまいますと、お孫さんは拘束される可能性があります」

「拘束ですって!?」

「はい。そして、そのまま逮捕されて起訴されてしまった場合は」

 逮捕……大変なことになってしまった。高校生の家族の身になれば、どんなに辛いことかとは思う。しかし、愛梨もまだ大学生だ。これで逮捕され、前科者となってしまうのか。

「その場合、お孫さんの将来に差し障りがありますので、こちらとしては、できましたら示談といいまして、起訴されない方向へのお話し合いを進めさせていただこうかと」

「お願いします!」とっさに叫んだ。

「はい。先方様のお怪我の具合と、こちらの持って行き方次第といったところではありますが」

「愛梨ちゃんは……、あの子はまだ十九歳の大学生なんですよ。だからどうか、どうかお力添えをお願いします」

「はい、勿論です。さきほど愛梨さんにお伺いしましたところ、まだ大学生ということで、将来を守ってさしあげないとなりません。しかし、成人年齢の引き下げにより、今の十九歳はすでに成人されてしまっておりますので、万が一起訴されますと、実名で報道されるおそれもあります。大学中退を余儀なくされる可能性も」

「そんな……」

「お孫さんの一生が決まる非常に重要な面談です。やや強引な方法にはなりますが、先方様と話し合いをして、警察には持ち込まないという念書を交わしたいと思っています」

「ええ、ええ、どうか」

 時子は受話器のこちら側で深く頭を下げた。

「あ、今、弊社顧問弁護士のナカイが到着しました。少し代わります」

「弁護士さんも来てくださったのですね」

「代わりました、わたくし弁護士のナカイと申します」

 落ち着いた低い声に、時子は少しほっとする。

「早速ですがこれからお話を進めさせていただきます。今、ホンダから話があったと思いますが、お孫さんの件を示談に持ち込むために、示談金の手付だけ先方にお渡ししようと思います。実はさきほど向こうの弁護士からは慰謝料として三百万円を提示されました。その金額でしたら、お孫さんの入っておられる保険でカバーできます。そのため、ご家族様からの持ち出しはありませんので、ご安心ください」

 それを聞いて時子はいくらか安堵した。しかしこれはお金の問題ではない。愛梨の将来がかかっているのだ。一刻も早く、愛梨を逮捕させないという念書を書いてもらわなければ安心できない。逮捕されてしまったら、報道され、前科がつき、あの子の将来が台無しになってしまう。

「ただ、先方のご家族がとりいそぎ治療費を支払ってほしいと要求されているそうで、勿論それものちのち保険金でカバーできますが、今すぐに支払いを受け持つことで、示談への話し合いを有利に進めたく考えております」

「いくらなんです、その、『支払い』は」

 時子は受話器を強く握る。

 弁護士のナカイが、ちいさく咳払いをし、おそらくは電話の向こうで一緒に聞いているのだろう保険会社のホンダに、「ホンダさん、資料を見せてください。ふむ、なるほど、手術もあるから、保険なしだと治療費だけで百万を超えてくるのか」などと小声で話すのが聞こえてくる。それからナカイは声を大きくした。

「今お調べしたところ、治療費が約百万、これに見舞金を足したほうが印象は良いでしょう。すべて保険金で対応できる金額なので、いずれ戻りますが、現場で誠意を見せることが、何より大切です」

「それはそうね」

「まあ、ぶっちゃけた話、現金を見せることで向こうの気持ちを動かす算段です。実はわたくしどもがよくやっていることですが、目の前に積まれた金額で、向こうの気持ちも変わるものなので、できれば三百か、もしもっと用意できれば……」

「三百万円ですね。わかりました。今、うちには現金が百七十万円くらいありますから、足らないぶんをこれから銀行におろしにいってきます。それに、この子の親たちも蓄えがあるでしょうから、今から電話をして」

「あー、いえ、少々お待ちください。……とりあえず今お持ちの百七十万円を急ぎでお持ちいただけますか、治療費は百万なのですから。あるだけの誠意を少しでも早く見せることが大切です。むしろできるだけ急いでください」

「百七十万円でいいの」

「大丈夫です」

 

 

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