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 事務所に顔を出すと、現場監督の徳永も監督代理の佐伯も当然ながら顔を揃えている。地震の影響を訊ねると、存置しているクレーンの点検程度で済みそうだと佐伯が言った。彼とは入社同期で気心も知れている。この小川町の現場はさほどの規模ではないが、古いビルが立て込んだ一画に細長いマンションを建てているので、設置した重機類が地震で傾いたり倒れでもすれば通行人や車、左右の建物に甚大な被害が出る可能性がある。

 今朝の揺れで真っ先に気になったのが、この現場だった。すぐそばに神田警察署もあるから、もし事故でも起こせばあっという間にテレビや新聞の記者たちに知られてしまう。派手に報道されれば会社の信用問題にも発展しかねない。

 ベテランの徳永と工事部のエースである佐伯が仕切っているだけにさすがに現場管理はしっかりしているようだ。まだ着工して間もないのだが、すでにぴりっとした雰囲気が現場全体に漂っている。彼らに任せておけば、よほどのことがない限り納期で悩まされることもない。そういう点では安心な現場だが、工事自体の難度は相当に高いから、地震や台風などの天災は一番の心配の種ではあった。

 一時間ほど佐伯たちと雑談をして現場事務所をあとにした。千葉では小さな余震が起きているようだが、都内は今のところ静かだった。

 次の現場は芝公園の近くで、そのあと東雲の現場、晴海の現場と回る予定だ。時間があるので神保町まで歩いて都営三田線を使うことにした。靖国通りに出て、向かって右側の歩道をのんびりと歩く。午前十時を過ぎて通り沿いの店舗は当たり前に店を開け始めている。地震の影響はほとんどなかったのだろう。

 百メートルほども行ったところで右脇の路地から若い二人連れが不意に目の前に姿をあらわした。地震の被害を確認したくて建物ばかり見ていたので、遼平は彼らと鉢合わせのような恰好になってしまった。

「あっ」

 と最初に声を出したのは隠善つくみの方だった。

 身体をかわしたあと振り返るような形で遼平は足を止めた。

「やあ、どうしたの?」

 ぼーっと歩いていたと思われたに違いない気まずさもあって、余計に張り切った声になった。

「こんにちは」

 つくみが笑みを浮かべてお辞儀をした。隣に立っている背の高い青年に、「私が働いている会社の松谷主任」と話しかける。

「はじめまして。財前と申します」

 なるほどという表情のあと、青年も丁寧に頭を下げてきた。大学生くらいだろうか。色白でなかなかの二枚目だ。身長も一七五センチの遼平よりかなり高い。

「松谷です」

 遼平も会釈を返し、

「こんな早くからどうしたの?」

 つくみの方に声をかける。つくみは横浜の実家住まいのはずだった。

「毎週、土曜日は手話を習ってるんです」

「手話?」

「はい。教室がすぐそこなんです」

「そうなんだ」

 そこで遼平は時計を見た。十時四十五分になろうとしている。

「あ、もう終わって、彼とお茶でもしようと思ってたところだったんです」

 つくみが先回りしてくれた。これから教室ならあまり引き止めるわけにもいかないと思って時間を確かめたのだ。

「松谷主任は現場回りですか?」

「ああ。今朝、かなり揺れたからね」

「お疲れさまです」

 ふだん会社で見るよりも断然打ち解けた感じで話しかけてくる。

「じゃあ、これから別の現場ですね」

「うん」

「そうですか……」

 つくみは含みのある口調になった。

「何か僕に話でもあるの?」

 この三週間余りずっと気になっていた相手だけに、こんなところで偶然に遭遇して、遼平は内心かなり動揺していた。「僕に話でもあるの?」などと踏み込んでしまったことを咄嗟に後悔する。

「実は、主任にちょっとご相談したいことがあって……」

 しかし、隠善つくみは本当に話したいことがあるようだった。

「そうなんだ」

 どんな相談にしろ、ちょっと嬉しい。

「じゃあ、月曜日にランチでもしようか」

「できれば仕事が終わってからの方が……。少し込み入った話なので」

 浮かない顔でもないが、真剣な瞳でつくみは遼平を見る。それにしても小顔だなあ、とあらためて感心してしまう。

「ごめん。来週は夜は全部埋まってるんだ」

 平日の夜は、このところすべて会合で潰れている。施主への接待、社内各部門のスタッフとの飲み会、それに救世会病院グループの堀切理事長に夜中に呼び出されることもしょっちゅうだった。

「そうですか」

 つくみは残念そうにして、

「いまからは駄目ですよね?」

 窺うような目線で訊いてきた。

「駄目じゃないけど、でも、彼もいるし」

 遼平が言うと、つくみは財前の方を向いて、

「財前君、お茶は今度でもいいよね」

 気安く持ちかけた。微妙な距離で遼平たちのやり取りを聞いていた財前は、

「うん、いいよ」

 あっさりと頷く。

「じゃあ、今日は、ここで解散」

 つくみが手を振ると、彼は「失礼しまーす」と言って、さっさと淡路町方向へと去っていったのだった。

 

3

 

 結局、歩いてすぐの「レストラン京極」に入った。

「どうせなら昼飯でも食べようか」

 遼平が言うと、つくみはすぐに賛成した。そして、「だったら京極に行きませんか? 私、あのお店大好きなんです」と言ってきたのだ。

 京極は開店したばかりで、遼平たちが最初の客のようだった。

 洋子ママが出て来て、「あら」と意外そうにする。部会以外で遼平がここに来ることは滅多にないが、しばしば幹事役をやっているので顔はおぼえてくれていた。

 小田部長のいつぞやの言葉が頭に浮かんで、遼平はとんかつ定食を、つくみはシーフードフライ定食を頼んだ。

 びっくりだったのは、ママと彼女がとても親しそうにしていることだった。

「隠善さん、ここ、よく来てるの?」

 届いた水を一口飲んで遼平が訊くと、

「たまにですけど。私、洋子ママが大好きなんです」

 と言う。会社では無口でおとなしい人だが、本当の彼女はそれとはだいぶ違うようだと遼平は感じていた。

「どうして?」

 突っ込むと、

「そんなのママを一目見れば分かるじゃないですか」

 つくみはおもしろそうに笑った。「そりゃ、お前、ぴんときたんだよ」という小田部長の言葉がふたたび脳裏によみがえってくる。

「だけど、どうして手話を?」

 話題を変える。

 相談事のときは相手が切り出すのを待つのが鉄則だ。

「これっていう理由はないんです。なんか別の言葉が学びたいなって……」

「別の言葉って、英語とかじゃなくて?」

「はい。言葉っていうか、別の声を、かな」

「別の声?」

「はい。手話って言葉であると同時に声のような気がするから」

「そうかなあ……」

 遼平にはいまひとつぴんとこなかった。つくみの方もそれ以上は喋らない。

「今朝の地震、大丈夫だった?」

 さらに話題を変えながら、そういえばこの店はどうだったのだろうと見回す。何も変わった気配はない。

「はい。電車も止まってなかったし」

 つくみはさらっと言う。

 なかなか話の接ぎ穂が見つからなかった。自分が常になく緊張しているせいだろうか、と遼平は思う。彼女の方は淡々とした様子だ。

「東日本大震災のときは隠善さんはどこにいたの?」

「あの日は、大学にいて、ちょうど木に登っていて……」

 つくみは天井を見るような目つきになった。細い目がますます細くなる。鼻は小さくて鼻筋が通っていた。顎から頬にかけてのラインもすっきりしている。肌は白く、ほぼノーメイクなのだろうがつやつやしていた。これで目が大きければたいそうな美人だろう。

「木に登る?」

 そんなことを思いながら、遼平は訊く。

「はい。木登り研究会に入っていたんで、よくキャンパスの木に登ってたんです」

「木登り研究会って、そんなのあるの」

「はい。木登りってれっきとしたスポーツなんですよ」

「そうなの?」

「欧米ではツリーイングとかツリークライミングとかいって、結構盛んなんですよ」

「へぇー」

 ちょうどそこへ料理が届いた。大きな皿にたくさんのフライと山盛りのキャベツ、それにナポリタンが添えられている。かきたまのコンソメとどんぶりのご飯がついて、シーフードフライ定食が八百八十円、とんかつ定食が九百円はやっぱり安い。

 つくみは嬉しそうな顔になって「いただきます」と手を合わせたあと箸をつかむ。

 遼平も手を合わせてから自分の箸をとった。

「で、木に登ってて、それでどうしたの?」

 肉汁たっぷりのロースカツを頬張りながら訊ねた。

 エビフライにタルタルソースをつけていたつくみが、顔を上げる。

「すっごい揺れて、振り落とされそうになって、必死で木にしがみついてました」

「それはめちゃ怖いね」

 遼平が言うと、

「うーん。地面にいた人の方が怖かったかも」

「だけど木の上の方が揺れたと思うよ」

「でも、私、木に登ってると安心できるんですよ」

「え、なんで?」

 するとつくみは、エビフライにかぶりついたあと、

「うーん、どうしてだろう。全体的にそんな感じなんで、理由は別にないんですけど」

 と言い、「おいしーい」と満面に笑みを浮かべた。

 二人とも食べ終わったところで、洋子ママがやってきた。

「いらっしゃい。つくみちゃん、いつもありがとうね」

「こちらこそ」

 洋子ママはいかにも嬉しそうに頷く。するとアルバイトの男の子がプリンを持ってきた。

「これ、サービスよ」

 ママはプリンを遼平とつくみの前に置いてくれ、

「ゆっくりしていってね」

 と背中を向けようとした。そこへつくみが「洋子ママ」と声をかける。ママがつくみを見た。

「ママ、小田部長とはどうやって知り合ったんですか?」

 つくみは訊いた。

 さきほどまで、その話を二人でしていたのだった。「ママを一目見た瞬間にぴんときたって部長は言ってたけど、なんかはぐらかされた感じだったんだよね」と遼平は語ったのだが、まさかこんなにあっさり本人に確かめるとは思わなかった。

「小田さんとは、神田駅前のスナックで知り合ったのよ。私も彼もその店の常連だったの。もうなくなっちゃったけど」

「へぇー」

 遼平とつくみが同時に声を出す。

「ママの彼氏なの?」

 いともたやすくつくみは言った。遼平は内心ぎょっとする。

「さあ、どうだったかしら」

 ママは面白そうに笑みを浮かべる。

「じゃあ、むかしのよしみって感じ?」

 するとママはちょっと考えるようにして、

「そうねえ、そういう感じかな」

 と言った。そして、

「でも、あの小田洋祐って男はひとかどの男だと、私は思ってるよ」

 と付け加えたのだった。

 プリンを食べ終えたあともつくみは何も言わないので、

「ところで相談したいことって何なの?」

 さすがに遼平の方から問いかけた。すると、彼女は、

「主任とこうやってご飯食べたら何だかすっきりしたんで、もういいんです。そんなにたいしたことでもなかったし……」

 と言った。

「そうなんだ」

 何だか肩透かしを食った気分だったが、別に不愉快ではなかった。

「次の現場はどこですか?」

 と訊かれ、

「次は芝公園の近く」

 答えると、

「仕事の途中にお引き止めしちゃって、今日はすみませんでした」

 隠善つくみは丁寧にお辞儀をして、自分から席を立った。

 

つくみの記憶」は全4回で連日公開予定