1
あれから三週間余り。
隠善さんに対して抱いた奇妙な感情は、一過性どころか遼平の中でどんどん大きく膨らんできていた。もちろん、だからといって目立った行動に出たわけではない。表向きはいままで通りで、隠善さんとも別に親しくなってはいないし、会話の量が増えたということもなかった。
それでも、気づいたら彼女の姿をいつも目で追っている。
遼平は毎日七時きっかりに会社に着く。もう五年近く住んでいる清澄の1LDKのマンションから丸の内の八馬建設東京本社までは、東京メトロ半蔵門線を使って約二十五分。六時半に自室を出れば余裕だった。
七時半には部長の小田が出てくる。三々五々、部員たちが出社してくる八時過ぎまでの三十分間は小田と二人きりでいろんな話をする。八時を回ると担当役員や他部門のスタッフのあいだを回って各案件について調整作業を行ない、九時ちょうどには客先へと出発する。
「営業の仕事には土日も祝日もない。ヒマができたら本を読もう、映画を観ようなんて言ってたら年間五冊、映画三本って体たらくにすぐになる。結婚して子供でもできたら、それさえままならない。一度そうなったら、もう人間の幅も何もあったもんじゃない」
四十歳になるまでの十五年間、小田は毎日、最低一時間の読書は欠かしたことがなかったと言っていた。
通勤時間が長ければ電車の中での読書も可能だが、清澄白河―大手町の所要時間はわずか七分。となれば別の時間を設定するしかない。
遼平の場合、営業先への移動時間はすべて読書にあてているし、休日や帰宅後もタブレットにダウンロードしておいた映画やテレビドラマをできるだけ観るようにしていた。一日に均して最低一時間は純然たるプライベートのために使う――という小田の教えを遼平はこれまで忠実に守ってきた。
ところが、その貴重な一時間が最近はどうもはかばかしくなかった。
活字を追っても、イヤホンをはめてタブレットの画面に見入っても、ついつい心はそこから離れていってしまう。
オフィスにいるときと同様、いつの間にか隠善つくみのことを考えているのだった。
ちょっとどうかしているな、と自分でも思う。
いわゆるストーカー行為というのはこんなふうにして始まるのだろうか? 別世界の話だと思っていたものが不意に自らに降りかかってきたような薄気味悪さもあった。
この半年間、意識の端にのぼったこともなく、何かのきっかけで興味関心がにわかに高まったのでもなく、突然、物狂おしい気持ちが胸中から溢れ出てきたというのでもない。にもかかわらず、遼平は隠善つくみという女性のことが気になってどうしようもない。
恋い焦がれるとかそういった感情ではなかった。
彼女とはこれまでずっと付き合っていて、同棲したこともあったし、いまでもどこかに彼女と一緒に借りた部屋がそのままある――なぜだか、そんな気がするのだ。自分はそういった彼女とのもろもろの記憶をあるときすっぽり失くしてしまい、あの日、その事実にはたと気づいてしまった……。
いまの遼平の心の中にはそういう確固としたストーリーが出来上がっていた。
もちろんそれが丸ごと妄想だとは重々承知しているつもりだ。
人生のどこをどう切り取っても、八歳も年下の隠善さんと付き合った事実はないし、まして同棲なんてあり得なかった。彼女とは半年前、正真正銘初めて出会ったのだし、深い関係など現在まで一切ない。失われた記憶を取り戻しただなんて単なる思い込みに過ぎなかった。
遼平は決して夢見がちな男ではない。どちらかといえば現実派だと思っている。惚れっぽい性格でもなかった。若い頃からアイドルや女優に入れ込んだおぼえもないし、恋多き男とは正反対の人生を送ってきた。
恋人の板倉友莉とはもう二十数年来の付き合いだ。というのも、友莉は三つ下の幼馴染みで、正式に付き合い始めたのは彼女が高校生になって以降だが、その前から半ばきょうだいのような間柄だった。学生時代に同じ剣道サークルの女の子に告白されて、何度かデートしたことはあったが、友莉に後ろめたくてその先までは行けなかった。
遼平の交際経験は後にも先にもその二人きりだ。
五つ下の弟の耕平からは、「兄貴は人間として嘘くさい」といつも批判されていた。そのあまりに貧弱な女性関係が、耕平のように平気でおんなを食い物にできる男には却って信用ならなく見えるのだろう。遼平だって、たとえば小田部長と早紀子さんの馴れそめなどを耳にすると、胸の奥の深い部分が小さく疼いたりはする。
ただ、ドラマに出てくるような恋愛を心から欲したことは一度もなかった。
できればずっと無病息災で暮らしたいとか、お金でほとほと困るような事態は避けたいとか、会社で重きを置かれる存在になりたいとか、そういうさまざまな望みと似たようなレベルで、感動的な恋をしたいという希望は彼にだってある。しかし、それを是が非でも手にしたいとは思わないし、「健康」と「燃えるような恋」のどちらかを選べと言われたら即座に「健康」と答えると思う。彼はそういう点ですこぶる現実派だった。
だからこそ今回の奇妙な心の乱れは意想外であった。
せめて一目惚れしたとかであれば多少の納得もできるのだが、そうではなくて、隠善つくみを見るたびに「俺は、この人と深い関係にあったはずだ」という奇妙な確信をおぼえてしまうのだ。幾らその〝幻の記憶〟を振り払おうとしても、あの懇親会の日に起き上がった意識はどうしても彼の頭から消え去ってはくれないのだった。
2
五月十八日土曜日。
大きな地震で目を覚ました。深く寝入っていたはずだが、ベッドが揺さぶられる直前、ゴーッという地鳴りのような音を聞いた気がする。直後に激しい揺れが来て、遼平は飛び起きた。
遼平の部屋は十階だが、下の階から突き上げてくるような縦揺れだった。一瞬、階下の部屋でガス爆発でも起きたのかと思ったくらいだ。揺れは一分ほど続いた。
書棚の棚板にはみ出すように載せていた本や雑誌が床に落ち、キッチンの方で食器か何かが割れる音がした。このマンションは八馬建設が手掛けた建物で、五年ほど前、竣工と同時に入居した。十一階建ての全戸1LDKの独身者向けのマンションだったが、制震には優れた設計になっている。それがこれだけ揺れたとなるとかなりの地震に違いない。
ベッドから降り、部屋の明かりを灯して、テレビをつけた。
時刻は六時五分。NHKの画面の地図にはすでに各地の震度が表示され、関東・東北地域にはびっしり数字が並んでいた。東京の震度は「5強」となっている。
震度5強は、東日本大震災以来の大きさではないだろうか?
五月の半ばを過ぎて、四時を回ると日がのぼる。カーテンの向こうはすでに明るかった。遼平はベランダの方へと近づいてカーテンを引く。このマンションは清澄公園に隣接しているので、公園や清澄庭園の緑を眼下に見下ろせる。その緑の向こうには門前仲町の街並み、さらに遠くには越中島、豊洲の風景が広がっていた。
土曜日早朝の街は静かだった。どこからも煙は上がっていないし、東日本大震災のときのように通りが人で溢れているわけでもない。消防車や救急車のサイレンも聞こえなかった。
震源は千葉県北東部とアナウンサーが伝えている。「津波の心配はありません」と繰り返していた。
五月晴れのすっきりした空だ。雲の姿はほとんどない。
遼平は窓を開けて、外の空気を招き入れる。新緑の甘い匂いが流れ込んできた。
二年前の東日本大震災の日は、晴海の現場にいた。冷凍倉庫の新築工事で、基礎が終わって鉄骨を組み始めたところだったが、ものすごい揺れにその場にいた人たちはわらわらと現場横の空き地へと飛び出した。フックで釣り上げていた鉄骨が大きく揺れ、そのせいでクレーンのブームがミシミシと音を立てて左右に振られていた。さいわい破壊や故障には至らなかったが、あれはいま思い出してもぞっとするような光景だった。
いつもながら「余震に警戒して下さい」とアナウンサーが言っている。震源に近い銚子や神栖では震度6弱の揺れを観測したらしい。
リビングに戻ってテレビを注視すると、銚子市内の崩れたブロック塀やひび割れた路面などの映像が次々に画面に映し出され始めた。
遼平はまずキッチンに行って、割れたグラスを片づけた。昨夜、ビールを飲んだあとそのまま調理台に置いておいたグラスが床に落ちてしまったのだ。他には破損したものはないようだった。
それから書棚の整理をした。要らない本や雑誌を選り分けて荷造り紐で結束し、棚から何もはみ出さないように本を揃え直す。
一段落したところでパンを焼き、コーヒーを淹れて簡単な朝食をとった。
最近はもっぱらジャムトーストだった。友莉がバレンタインデーにくれたセゾンファクトリーのいちごジャムが美味しくて気に入り、せっせとネット通販で買い足していた。こんがり焼いた食パンにたっぷりマーガリンを塗って、その上にこれまたたっぷりのいちごジャムを載せて大口で頬張る。もう三ヵ月余りつづけていたが、ちっとも飽きがこない。
洗い物を済ませると七時を回っていた。
急いで身支度をする。今日はめったにない休日だったが、事情が変わってしまった。
七時半にマンションを出て、まずは会社に行った。土曜日とあって小田もまだ出て来ていない。というより彼は椎名町の自宅から作業所や関係部署に連絡を入れ、まずは情報の共有に努めているのだろう。被害状況によっては本社内に対策本部を起ち上げる必要がある。
遼平はチェックしていた何本かのメールに返事を書き、地図でこれから回る場所の順番を吟味した。一番気になる神田小川町の現場を皮切りにルートを決めて、九時ちょうどに会社を出る。
今日は夕方から友莉と久々に食事をする約束になっていた。それまでは掃除や洗濯、買い物などでたまの休日をのんびり過ごすつもりだったのだが、まあ、仕方がない。
途中で差し入れのあずき最中を買って、小川町の現場に着いたのは九時半だった。
「つくみの記憶」は全4回で連日公開予定