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 下車した藤津彩音が豊水橋を渡ろうとした瞬間、那智は背後から彼女の首を絞め、やがてぐったりとした彼女を河川敷まで運ぶ。
『あの時間帯、道路も河川敷も人通りが絶えるのは前回の尾行で確認済みでしたから。あそこは女性の一人歩きは危険です。いったい自治体と警察は何をしているのかと、本気で心配になりましたよ』
 河川敷で藤津彩音を死姦した後、那智はやはり子宮を切除する。
『二回目ということで解剖用のエプロンまで用意しましたけど、案に相違して返り血はさほど浴びませんでした。現場を下見したのがよかったんでしょう。終始落ち着いて行動することができました』
 藤津彩音の死体はそのまま放置し、子宮は前回と同様に川へ流した。
 捜査の進捗を考えると、那智の判断は正しいものだった。捜査本部は第二の事件では手掛かりらしい手掛かりを何一つ得られなかったようなのだ。
 那智にとっての陥穽かんせいは第一の事件に潜んでいた。
『取り調べの時に教えられたんですけど、関戸亜美さんを死姦する際、精液の一部が地面にこぼれてたらしいんです。ちゃんと死体の下に紙を敷いていたんですけど、暗がりだったのでつい見落としたんでしょうね。警察にしてみれば、精液から分析したDNAを持つ人物を捜し出しさえすればよかったんです。二件目の犯行を終えた段階ですっかり安心しきっていた僕は、完全に思い上がっていました』
 そして三件目、安達香里の殺害。これについて那智はほとんど供述していない。本人が犯行を否認しているから当然といえば当然なのだが、取り調べ担当の刑事が一方的に事実を述べるだけだった。
 本年、松が取れたばかりの一月八日、市川市河原の河川敷で安達香里の死体が発見される。捜査本部が那智を逮捕したのはそれからひと月後のことだが、本人は我が身に迫る危機について何ら感知し得なかった。
『だって当然でしょう。僕は二つの殺人を完璧にやりおおせたと信じていたのに、いきなり部屋にどどどどっと踏み込まれましたからね。警視庁に連行されて取調室に放り込まれて、いきなり口腔内に綿棒を突っ込まれた時には、ああどこかで髪の毛か体液を採取されたと観念しましたけど、三人目の犠牲者と言われても安達香里さんの顔なんて見たこともない。七日の午後十一時から深夜一時までどこで何をしていたかと訊かれたので、それが安達香里さんの死亡推定時刻だというのは見当がつきましたけど、何せ一人暮らしですからね。前の二件は僕の犯行だからアリバイがないのは当然としても、やっぱりその日のアリバイだって証明のしようがないんですよ。抗弁しても警察は三件とも僕の犯行だと決めつけているし、一件目の殺人については現場から採取された精液がDNA鑑定の結果、僕のものと一致するし、完全に退路を断たれたって感じですよ』
 吉田のメモは、最後にDNA鑑定を行った吏員の名前が走り書きされて終わっている。鑑定報告書を突き付けられた那智が、片隅に記された担当者名を憶えていたのだ。全てを読み終えた氏家は静かにノートを閉じ、吉田との会話を反芻はんすうしてみる。
 那智貴彦は終始理性的であり、思考の乱れも矛盾も見当たらない。少なくとも検事調書がこの供述内容通りだったとしたら、刑法第39条の適用は困難だろう。
 那智の正常性はネクロフィリアを性的こうの一つとして捉えている点だ。無論ネクロフィリアを異常性愛と断ずる向きもあるが、少なくとも己の性的嗜好を客観的に捉えられる時点で心神喪失も心神耗弱も有り得ない。
 ではやはり永山基準の『被害者の数』に鑑みて三件目の犯行を否認しているのか――いや、それにしては犯行態様に問題があり過ぎる。残虐性の解釈や線引きが明確でないにしても、死姦の後に証拠隠滅の目的で子宮を取り除いたのでは十人のうち九人までが眉を顰めるのではないか。
 自分一人で惑っていても仕方がない。氏家はドアを開け、研究室の隅に座る彼女に声を掛けた。
橘奈たちばなくん、来てくれないか」
 呼ばれた橘奈しようは作業中の手を止めて、こちらにやってきた。
 橘奈翔子は〈氏家鑑定センター〉でDNA鑑定を担当している。いずれは彼女のもとにいく案件なので、今から予告しておいた方がいいだろう。
 氏家は鑑定全般について知識も経験も十二分にあるが、可能な限り担当の研究員に作業を任せるようにしている。知識と経験値は作業の量に比例する。一人でも多くのオーソリティーを育てるためには丸投げも必要だ。進捗が遅いとつい仕事を奪いそうになるが、氏家はその度に自分を戒めている。
 吉田からの依頼内容を簡潔に伝えてからノートを差し出した。
「読んでください」
 ノートを受け取った翔子はPC用の眼鏡をくいと直して文面に視線を落とす。
 女性にとって間違いなく胸糞の悪くなる内容だ。普通なら数行読んだ段階で顔をしかめるだろうが、翔子に限ってそういうことはないと安心している。プライベートではともかく、仕事上は感情よりも論理を優先できる女だった。
 果たして読み終えた後、翔子は無表情のまま口を開いた。
「最悪ですね」
 予想していた言葉なので驚きはしなかった。
「連続通り魔事件はわたしもニュースで聞き知っていましたけど、那智の供述を読むと改めてむしが走ります」
「だろうなあ」
「那智は何をもくんでいるのでしょう。死刑回避が目的としても、被害者の数だけで争える案件ではないような気がします」
「同感だね。ただし吉田先生も受任したばかりだから、那智との距離感を掴めないみたいだ。現状は三件目の犯行を否認する弁護方針だけど、今後はどうなっていくのか分からない。分かっているのは、ウチにDNA鑑定の依頼が来るということくらいだ」
「つまり、わたしが那智の弁護の片棒を担ぐわけですね。稀代の殺人鬼というか、ネクロフィリアを自認しててんとして恥じない人殺しの」
 表情に変化はないものの、那智に対する嫌悪感が溢れ返らんばかりの口調だった。
「橘奈さんが気が進まないのなら、僕が担当しても」
「気が進む、進まないで仕事をするのはアマチュアに過ぎない。所長はいつもそうおつしやっているじゃありませんか」
 翔子はノートを突き返す。
「給料をもらっているプロの身分で、わたしに仕事の拒否権はありません」
「橘奈さんの、そういうところが好きだなあ」
「なるはやで那智の体液のサンプルが欲しいですね」
 言われるまでもない。公判が始まれば、検察側がサンプルの提供を渋る可能性が皆無ではない。
「吉田先生の帰り際に、ちゃんと唾液採取用の簡易キットを渡しておいた」
「所長の、そういう手際の良さは好きです」
 翔子はにこりともせず言う。
「このメモでは語られていませんが、捜査本部は三件全てから那智の遺留物を採取したのでしょうか」
「どうかな。連続通り魔事件は世間やマスコミにえらく騒がれて、捜査本部にも外部からの圧力があったように思う。二件目三件目と進むにつれて、捜査陣が焦っていったのは容易に想像できる」
「最初に採取できた精液のDNA鑑定だけで、残り二件についても一点突破を図った。そういう経緯なんでしょうか」
「事件を担当した専従班と指揮した管理官が誰だったか知りたいものだね。警視総監からのしつが入ったそうだけど、警視庁にも色んな人間がいる。鶴の一声におびえる者、従う者、過剰反応する者、耳が聞こえないふりをする者。処し方は様々です」
「所長は耳が聞こえないふりをしていた組ですか」
 どうも自分は研究員から、科捜研のはみだし者と決めつけられているきらいがある。間違いではないものの、はみだし者が鑑定センターの所長を名乗ることに疑問を抱く者もいるだろうから、その第一印象は早急に払拭したいものだ。
「世間の耳目を集める重大事件に限って、細部の捜査がおろそかになるケースがある。捜査本部の目が犯人ではなく、警察上層部や世間を見ている時がそうです。吉田先生はそれを疑っているかもしれません」
「疑ったところで、那智が最低でも二人を殺害したのは明らかじゃありませんか」
「あくまでも那智の供述を信用するならです。ひょっとしたら彼は最初の一人しか殺害していない可能性だってある」
 翔子は意外そうな顔を見せた。
「どうして那智がそんな偽証をする必要があるんですか」
「あくまでも可能性です。同様に彼が三件の殺人を実行したというのも可能性に過ぎません。だから橘奈さん」
 氏家は翔子を正面に捉える。
「あなたには一切の先入観を捨てて鑑定にのぞんでほしいんです」
「このノートを見せた上で、ですか」
「見せた上で、です」
 何も知らされずにサンプルを分析したのでは意味がない。サンプルの主が誰で、どれだけ卑劣で悪辣な容疑者なのかを知った上で尚、先入観を排除できるか。そこに鑑定人としての伸びしろが生まれる。
 翔子はこれ見よがしに短く嘆息してみせる。
「所長はいつも厳しい条件を押しつけてくるんですね」
「橘奈さんは甘やかされたいですか」
「いいえ。克服できない試練は与えられないといいますから」
 翔子は一礼して所長室を出ていった。見上げた心意気で、氏家は頼もしくなる。
 これで翔子への根回しは終了した。後は公判前整理手続で先方の捜査資料が提出されるのを待つ。
 いや、もう一つあった。
 吉田でもなく翔子でもなく、己に向けての注意喚起が残っている。
 氏家は再度吉田のノートを開き、末尾に走り書きされた科捜研の吏員の名前を凝視する。
 くろ康平こうへい
 年齢は四十四歳で氏家と同い年。おそらく検察側が提出する証拠物件の数々は黒木が中心になってまとめたものになるだろう。
 氏家のような独断専行さはじんもなく、絶えず周囲の空気を読み、己を殺し、個よりは和を尊び、職務にはとことん忠実な男だった。あらゆる面で氏家とは対照的で、だからこそ一時は科捜研を背負って立つ二本柱などとはやし立てられたものだ。
 黒木こそ氏家がしのぎを削りあう好敵手であり、同時に刎頸ふんけいの友だった。

 

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