一 弁護士と検事



「専門的な説明は後回しにしてまず結論を言うとこれはひつ、つまり被相続人の書いたものではありません」
 氏家うじいえが告げた途端、研究所に集っていたたわら家の何人かがひゅっと息をんだ。次いで次男の嫁が机の中央に置かれた遺言書に覆い被さり、長男の嫁は氏家をきっとにらみ据えて声を上げる。
「嘘ですっ」
 つかつかとこちらに歩み寄り、女だてらに氏家の胸倉を掴まんばかりの勢いだった。
「これは正真正銘、お義父とうさまが書かれたものです。わたしと主人がちゃんと見届けております」
「そうですよ、先生」
 虎の威を借る狐でもあるまいし、長男は半ば愛想笑い半ば迷惑げという器用な表情を作って抗議する。
「第一、親父が遺言書の末尾に署名したのを見ていたのは、わたしと家内だけじゃない。古参のお弟子さんが四人も同席していましたからねえ」
 おっとりしたしやべり方だが、言葉の端々に焦りが聞き取れる。
「でもお義兄にいさん、同席していたお弟子さんは四人が四人ともお義兄さんと縁の深い方ばかりじゃありませんか。そういう人たちの証言が本当に当てになるのかどうか」
佐知子さちこさんは黙っていなさい。これは次男の嫁ごときが口を出していい問題じゃありませんっ」
「お義姉ねえさんこそ。後継者問題に嫁が首を突っ込むなんて、俵屋流のいい恥さらしじゃありませんこと」
 次男の嫁もここぞとばかりに食って掛かる。第三者である氏家の前でこれなのだから、さぞかし家の中では嫁同士のれつな争いが繰り広げられているのだろう。
 しかし、それも無理はないと氏家は思う。
 俵屋といえば歴史ある華道の流派の一つだ。習い事になど一ミリも興味のない氏家ですら名前を知っている。日本全国どころか海外にも多くの生徒を擁している。年間収入はそこいらの企業が霞んでしまうほどだ。その家元である俵屋仁階じんかいが逝去したのが先々週。告別式を終えて次期家元襲名の段になって降って湧いたのが遺言書の偽造疑惑だった。
 発表された遺言書では家督の全てを長男に譲るとの内容だったが、これに次男の嫁が疑義を唱えた。生前から仁階は次男を寵愛しており、翻って長男は家元として力不足と公言していたのだという。お定まりの派閥抗争が勃発し、マスコミがお家騒動とあおるものだから争いは更に過熱し、とうとう裁判沙汰にまで発展した。
 ここで駆り出されたのが、氏家きようろうが代表を務める〈氏家鑑定センター〉だ。民事裁判での証拠調べとして遺言書の筆跡鑑定を依頼された。本日がその報告日だったのだが、氏家が危惧した通りの展開になったという訳だ。
 あなた、と長男の嫁が氏家の額に人差し指を突き付ける。
「いったい、いくらもらって嘘の報告をこしらえたの」
 いちいち言いがかりに反応するつもりはないが、ここは最低限の説明が必要だろう。氏家は遺言書の隣に俵屋流の昇段証書を並べる。
「遺言書の筆跡と比較対象にさせていただいたのは、こちらの昇段証書です。亡くなった俵屋仁階さんがこうした証書を直筆していたからこそ可能でした。さて、一見すれば二つの書体は全く同じであり、止めや払いに着目しても同筆どうひつと思えます」
 氏家の指が、遺言書に記された一字一字をなぞっていく。
「遺言書の中で一番頻出しているのが、やはり『俵』と『屋』の二文字なのですが、この二字だけ比較しても全く同一の筆跡に見えます。こうした筆跡鑑定の場合、止めや払いだけではなく、字間やバランスにも着目するのですが、その点でも遺言書の筆跡は真筆しんぴつと非常に似ています」
「似ているのは当然ですよ。お義父さまの自筆に間違いないんですから」
「それが変なんですよ」
 氏家は事もなげに答える。
「仁階さんが昇段証書を書いていたのは十五年前まででした。還暦を機に証書の作成はお弟子さんに任せたのですね。さすがに生徒さん一人一人の証書を作成する暇がなくなったからだと聞きました。しかし遺言書の作成はつい先月。つまりこの昇段証書と遺言書の間には十五年という歳月が横たわっていることになります。ところが双方に記された文字は寸分変わっていない」
「何が変なのよ。同じ人間が書いているのだから同じ字になるのは当たり前じゃないの」
「ところが同じ人間の書いた文字がいつも同じとは限らないのです。個人内変動と言いまして、高齢になればなるほど筆跡は乱れ字形も崩れてくるんですね。しかし、亡くなる直前に書かれたにもかかわらず、遺言書の筆跡はどこも乱れておらず、また字形の崩れもありません。そこで筆順を確認することにしました。これです」
 次に氏家が取り出したのは『俵屋仁階』の署名を大写しにした写真だ。一字が二十センチ四方まで拡大され、しかも全方向からライトを当てられているので墨の濃淡までがくっきりと表れている。
「ライトを当てることによって筆圧と筆順が可視化できます。さて、遺言書の末尾に記された署名を鑑定すると『俵』のつくりの『表』の部分、正しい筆順なら四画目になるはずの線が六画目になっているんです。一方、十五年前に書かれた昇段証書では正しい筆順になっている」
 みるみるうちに長男と嫁の顔色が変わっていく。
「個人内変動で筆跡や字形が変化することがあっても、一度身についてしまった筆順が変わることはありません。従って遺言書の筆跡は異筆と判断せざるを得ませんでした」
 筆跡鑑定の要は筆跡個性の特定であり、字形の鑑定ではない。多くの偽筆はその点を見誤ってしつを出す。今回の件もその例外ではなかった。
「遺言書に記された文字は合計八百六十四文字。おそらく手本となる仁階さんの真筆を横に置いて、一文字一文字を丁寧に書いていったのでしょう。その慎重さと根気強さは大いに称賛されるものですが、如何いかんせん筆順を間違えてしまった訳ですね。ところで当鑑定センターに依頼いただいた際、依頼書にはご長男の署名がありました。この署名の『俵』の字が、やはり同じ箇所で筆順を間違えています」
 いよいよ長男夫婦は狼狽ろうばいし、顔を青くしたり赤くしたりしている。まるで信号機だなと、氏家は益体やくたいもないことを考える。
「それからですね、筆跡は昇段証書の真筆を参考に真似まねたのでしょうけど、文章は高齢者相応のものなので異筆以前、仁階さん自筆の遺言書も存在していると思われます。ご存じありませんか」

「正式な鑑定書は明日にでもご郵送します」
 氏家が告げると、次男夫婦は深々と頭を下げた。特に嫁の方は感極まった様子で、氏家の両手をきつく握り締めた。
「先生のご恩は一生忘れません。本当に、本当に有難うございました」
 少し大袈裟だと思ったが、よくよく考えれば目の前に立つ次男坊がこれからの俵屋流を担っていくのだ。当事者にしてみればまさに一生を激変させる出来事に違いない。
「襲名式には必ず招待させていただきますので、是非足をお運びくださいまし」
 嫁は喜び勇んで研究所のドアから出ていく。後に残ったかたちの次男は何故か肩を落としていた。
「どうかしましたか」
「いや、先生のご尽力には感謝しています。結果はどうあれ、これで跡目争いには決着が付きますからね」
「それにしては、あまりうれしくなさそうですね」
「嬉しいはずがないじゃないですか」
 次男は初めていらちを見せた。
「僕は決して兄さんが嫌いじゃないんです。むしろ好きです。子どもの頃は一緒に遊んでくれたし、気も遣ってくれました。僕は子どもの頃から女々しいとか色々言われてコンプレックスがありましてね、俵屋流一門を背負って立つなんて妄想に近いものだったんです。おっとりしているようで、それでいて万事にそつがない兄さんの方がどれだけ次期家元に相応ふさわしいか」
「でも、遺言書を偽造したのですよ」
「俵屋流を存続させるなら、とても僕には任せられないと考えたんでしょう。その判断は間違っていないと思います」
「俵屋仁階さんがあなたを寵愛した理由が今、分かったような気がします」
 氏家は次男の気を鎮めるようにほほみかける。自分を排除しようとした者まで受け容れるほどの度量があれば、歴史ある一門を率いていける。少なくとも先代はそう考え、次男に期待したのではないだろうか。
「地位や立場が人を作るというのは、あながち間違いでも幻想でもないのですよ。相応しい資質は必ず開花します。それにわたしの拙い経験則上ですけど、自己評価の高くない人は概して伸びしろが大きいものです。あなたは、きっと大丈夫ですよ」
 次男はしばらく氏家を見つめていたが、やがて観念したように笑ってみせた。

 

『鑑定人 氏家京太郎』は全4回で連日公開予定