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 東京都ぶんきようしま一丁目。この界隈には東京医科歯科大附属病院、近隣に順天堂医院と東大附属病院があるためか医療機器関連の企業が集中している。
 氏家がこの地を〈氏家鑑定センター〉の本拠地に選んだのは、こうした医療機器の充実ぶりと無関係ではない。筆跡鑑定に限らず研究所に持ち込まれる依頼のほとんどは医療機器や各種検査機器が不可欠であり、機器の入手が容易な場所に研究所を設立するのは理の当然だった。
 民間の科学捜査鑑定所が人々に認知されて久しい。以前は警視庁および各道府県警察本部に設置される科学捜査研究所、または警察庁に附属する科学警察研究所が知られていたが、これらはいずれも捜査側に有利な鑑定結果を利用する傾向が皆無ではなかった。一方に振りきった振り子はやがて振り戻る。冤罪えんざい事件が目立ち始めた時期に、次々と民間の鑑定所が設立されたのは決して偶然ではなかった。
 氏家自身も警視庁科学捜査研究所のOBだった。ある事情で退官した後、退職金と実家からの援助で鑑定センターを立ち上げた。幸い、科捜研時代の部下からセンター設立に賛同する者が現れて、人材の確保には困らなかった。血液・薬品・指紋その他の分野でオーソリティーを名乗れるメンバーが集まり、噂を聞きつけた鑑定のプロたちが興味を示して更に集まった。
 これは氏家の個人的な印象だが、鑑定を生業なりわいとしている者には所謂いわゆる職人肌の人間が少なくない。好きな鑑定作業をしてなおつ警察よりも給料がいいとなれば、優秀な人材が集まるのはむしろ当然だった。
 もっとも優秀な人材を集めた弊害も出ており、その一つが警視庁との確執だった。折角手塩に掛けて育てたというのに、一人前になった途端に民間へ引き抜かれては堪らないという理屈だ。氏家もその理屈は分からないではないが、職業選択の自由は憲法にも定められている権利なので如何ともし難い。
 かくて〈氏家鑑定センター〉は警視庁に睨まれながら、順調に業績を伸ばしていた。

 氏家がよし弁護士の訪問を受けたのは、俵屋仁階の遺言書の真贋しんがん鑑定に決着が付いた二日後のことだった。
「やあ、吉田先生。いらっしゃい」
 氏家が出迎えた際、吉田は軽く一礼するとぜわしく研究所の中に入ってきた。挨拶もそこそこに話を急ぎたがるのは、吉田にとってもよほどの重要事である証拠だ。氏家は奥の所長室へと吉田を誘う。
「当分は電話も取り次がないでくださいね」
 研究員たちに断りを入れてから、ようやく吉田と向き合った。
 吉田どう弁護士。第一東京弁護士会に所属しているが前職は検察官。つまり退官後に弁護士に転職した所謂ヤメ検だ。過去に何度も氏家に協力を要請したことがあり、言わば常連客であり無下には扱えない。
 常連客という条件を抜きにしても、吉田は放っておけない種類の人間だった。普段は紳士的で決して礼節を忘れないのに、いったん厄介な事件に首を突っ込むと他のことが目に入らなくなる。仕事熱心といえば聞こえはいいが、要領よく立ち回れない初老の弁護士につい手を貸したくなる。ここまでくれば人徳のようなものだった。
「その様子だと、また難儀な案件を抱え込んじゃったみたいですね」
「否定はしませんが、またという決めつけはどういう意味なんでしょう」
「難儀な案件に限って、吉田先生にお鉢が回ってくるような印象があります」
 吉田は認めるように短く嘆息する。
「……前世のたたりか何かかねえ」
「現世の人徳ですよ。で、どういった案件ですか」
「氏家さん、連続通り魔事件の那智なち貴彦たかひこを知っていますか」
 名前を聞いただけで案件の難儀さが納得できた。弁護士は依頼人の利益を守るのが仕事だが、その伝で言えば那智貴彦の利益を守ることは湖の水を飲み干す行為に近いものがある。
「吉田先生が彼の弁護人になられたのですか」
「本人から直々に指名された。指名されたからには受けるしかない」
 弁護士にも選択の自由がある。無茶な依頼は当然断ることもできる。だが、吉田は基本的に断らない弁護士だった。物的証拠が揃っている殺人事件なのに無罪にしろとか、前科のあるヤクザの覚醒剤取締法違反なのに執行猶予をつけさせろとか、およそ無理難題の依頼にも真摯に応えてしまう。そのため、吉田本人の思惑とは別に人権派弁護士と呼ばれるようになってしまった。
 本人を前にすると、吉田は断らない男ではなく、断れない男ではないかと思う時がある。
「それにしても依頼人が那智貴彦とは。吉田先生も大変な相手に見初みそめられたものですね」
「わたし自身は彼と面識がなかった。きっと誰かからろくでもない噂を聞きつけたのだろう。無理難題を聞いてくれる弁護士は他にもいるが、アレは基本的に高い報酬が望める富裕層しか相手にしない弁護士だからな」
「確かに那智は富裕層に属する人間ではなさそうですね」
 吉田は物憂げに首を振ってみせる。
 那智の弁護を受けるのが難儀なのは、その犯行態様によるものだった。ただの通り魔殺人ではない。那智の場合、犯行のあまりの残酷さからたいの殺人鬼という称号すら得ているのだ。
 最初の死体は昨年の八月、だち千住せんじゆ荒川あらかわ河川敷で発見された。被害者は都内の会社に勤めるせき亜美あみ二十四歳。帰宅途中に拉致された挙句に殺されたのだが、発見された死体の状況がさんを極めた。
 彼女の腹は真っ二つに切り開かれ、膣口から子宮までがごっそりと摘出されていたのだ。河川敷には肉片と大量の流血が残り、凄惨な死体に慣れているはずの捜査員さえもおうを堪えきれなかったという。新聞とテレビは死体の詳細な報道を避けたものの、ネットと週刊誌は遠慮なく残酷な事実を公にした。やがてテレビのワイドショーが追随するかたちで続報を流し、子宮奪取の殺人事件は全国に喧伝けんでんされた。
 二つ目の死体はそれから三カ月後、いる川の河原で発見された。被害者は市内の大学に通う、ふじあや二十一歳。やはり子宮を摘出された状態で放置されていた。管轄のやま警察署は死体の状況から関戸亜美事件との関連を認め、警視庁との合同捜査本部が開設される。
 二件目の子宮奪取事件が報じられると、報道はより過熱した。ネットでは犯人のみならず連続犯行を許した捜査本部へのぼう中傷が飛び交い、ワイドショーでは警察OBや精神科医が毎日のように招かれ、一般視聴者にもそれと分かる的外れなコメントを垂れ流して時間を埋めた。
 一方捜査本部はまれに見る猟奇連続殺人に異例の捜査態勢を敷く。延べ二千人に及ぶ捜査員を投入したのは早期解決を迫る世論を鑑みてのことだったが、それ以上に警視総監からの叱責が捜査本部に活を入れた。
 切開痕が医療の現場では常識となっているY字になっていることから、捜査本部は医療関係者を中心に捜査を進めていく。首都圏の精神科医に犯罪性向の顕著な患者について情報収集も怠らなかった。
 ところがそのさなか、第三の事件が発生してしまった。被害者は千葉市内の医大に通うだちかお二十一歳。市川いちかわ河原かわらのやはり河川敷で発見された。パターンどおり子宮が根こそぎ持ち去られ、捜査本部は世間の非難を真っ向から浴びることとなった。
『あれだけ捜査員を増員しても三件目の犯行を許したのか』
『いったい何のための合同捜査だったのか。船頭多くして船山に上っているだけではないのか』
『既に首都圏の水と治安はタダではない』
『このままでは自警団の結成すら促しかねない。警察は猛省すべきだ』
 次第に世論は落ち着きをなくし、感情的な声が殺到した。警視庁刑事部を中心とした捜査本部はいよいよ追い詰められ、これ以上事件解決が遅れれば責任者の首がいくつか飛びかねない事態にまで発展する。
 だが、この悪夢は二月十日に大転回を迎えることになる。捜査本部がどうやって絞り込んだのか氏家は知らなかったが、都内医療機関に勤める三十四歳の那智貴彦が逮捕されたのだ。決め手は現場に残留していた体液が那智のDNAと一致、捜査員が那智の部屋を家宅捜索すると犯行に使用されたとおぼしきメスが発見された。
 こうして半年にわたなまぐさい事件はようやく幕を閉じ、首都圏には束の間の平穏がよみがえった。人々の関心は稀代の殺人鬼のプロフィールと裁判の行方に移り、那智貴彦の過去と現在、そして彼の肉親へと取材の手が伸びていった。
 以上が昨年八月から首都圏を襲った連続通り魔事件のあらましだった。氏家の知識は新聞とテレビのニュースから得た範囲のものでしかなく、初公判の日取りも弁護人に誰が選任されたのかも関知するところではなかった。
 しかし那智の弁護に吉田が立つとなれば、俄然興味が湧いてくる。もちろん野次馬根性などではなく、純粋に事件の実相に踏み込む必要があるからだった。
「もう那智への接見は済まされたんですよね」
「接見の際、選任届にサインをもらったからね。一部報道には稀代の殺人鬼とか、異常性癖のシリアルキラーとか仰々しい二つ名が並んでいたが、弁護士にしてみれば一人の依頼人に過ぎない」
「日常で殺人鬼の顔をさらして生活するなんて有り得ませんからね。犯行に及ぶ直前までは、どこにでもいるいち市民のはずです」
 氏家に限らず犯罪捜査に関わっていると、犯罪に手を染める者と染めない者、猟奇的な人間とそうでない人間には明確な境界線など存在しないことを思い知らされる。血に飢えた殺人者も日頃は虫も殺さぬような顔でコンビニエンスストアに立ち寄り、ひいの野球チームに声援を送り、お気に入りの曲があり、酒席で政権批判をする。
 だが一般人は自分と殺人者の間には歴然とした相違点があると信じてやまない。願望から醸成される偏見でしかないのだが、どうあっても自分と彼らが同じ人間であるのを認めたくないようなのだ。

 

『鑑定人 氏家京太郎』は全4回で連日公開予定