「那智の第一印象は極めて冷静な医療従事者だった。受け答えも慎重かつ丁寧で、病的な片鱗はどこにも窺えなかった。実はここだけの話、彼と接見する前は先入観を抱いていた」
「死体から子宮を抜き取るという行為の異常性ですね」
「常々、依頼人には先入観を持たぬよう心掛けているつもりだったが、やはり事件の態様が態様だっただけに知らず知らず腰が引けていたのだろう。最初はおっかなびっくりだったが、十分も話していると那智も今までの依頼人とあまり変わりないと思えるようになった」
氏家は吉田の人を見る目を評価している。だが氏家自身が一度も会っていない那智を無条件に信じることはできない。意地が悪いようだが、どうしても吉田の言葉を疑うような訊き方になってしまう。
「意思の疎通には問題なし。しかし弁護人に指名した人物に警戒されては公判を有利に闘えないので、猫を被っているのではありませんか。逮捕されるまでは支障なく日常を送ってきたのだろうし」
「もちろん、たかが十分やそこら会話をしただけで相手の正体や人となりが分かるなどと自惚れてはいない。長い公判を経るうち徐々に見えてくるものもある。しかし最初の顔合わせで最低限把握するべき性格や意思疎通能力は確認したつもりだ。那智貴彦という依頼人は、客観性を持ち合わせており、自らの犯罪について徒に美化したり責任逃れをするような素振りは見せなかった。もしやと予想していた起訴前鑑定をする必要もなさそうだ。彼は本来の人格の下で、冷静な判断をもって殺人に手を染めている」
「本人がそう言ったのですか」
「うん。自分は異常者かもしれないが、決して心神喪失や心神耗弱ではないと明言した。刑法第39条の適用で刑罰から逃れようとは考えていない。残忍な行為は許し難いが、被告人の態度としては真摯と評価できる。だからこそ弁護しようと決めた」
氏家は少し混乱する。話の流れからすると否認事件でなく、量刑を巡る自白事件になりそうだ。しかしこういう裁判の場合に最初の焦点となる被告人の責任能力を問うことについては、本人が否定している。起訴前鑑定の必要もなし。では、この案件のいったい何が難儀だというのか。加えて、鑑定人である自分を訪れた理由も分からない。
「お聞きする限りでは弁護人の手をわずらわせる被告人ではなさそうですね。では吉田先生が難儀がっていらっしゃる理由は何なんですか」
「那智は自分の犯行だと大筋で認めている。ただし一部否認している」
「どの部分ですか」
「三つの殺人事件のうち一件目の関戸亜美と二件目の藤津彩音については確かに自分の犯行だが、三件目の安達香里の殺害は全く与り知らないと言うんだ」
氏家の思考は再度混乱する。
「報道では現場に残留していた体液と那智のDNAが一致したと聞いていますが」
「まだ公判前整理手続にも入っていないから、向こうの捜査資料は確認できていない。しかし逮捕のきっかけが三件目の安達香里事件であるなら、当然市川市河原の河川敷からは那智の体液が採取されているとみて間違いない」
「それなら、まるで無駄な抗弁じゃありませんか」
氏家の頭に一つの可能性が浮かぶ。
「那智はひょっとして永山基準を念頭に置いているのではありませんか」
一九六八年、東京・京都・函館・名古屋の四都市で警備員など四人が連続して射殺される事件が発生した。犯人は当時十九歳だった永山則夫。その裁判において最高裁第二小法廷が傍論として示した死刑適用基準が世に言う永山基準だ。
永山基準は次の九項目によって構成されている。
(1)犯罪の罪質
(2)動機
(3)事件の態様、殊に殺害手段や方法の執拗性・残虐性
(4)結果の重大性、殊に殺害された被害者の数
(5)遺族の被害感情
(6)社会的影響
(7)犯人の年齢
(8)前科
(9)犯行後の情状
あくまでも判断基準なので、九項目を厳格に適用する訳ではない。社会的影響や残虐性などは裁判官の心証に頼るところも少なくない。
だが犯人の年齢や前科、被害者の数は客観的であり比較対照しやすい。一般には被害者の数が死刑適用基準として独り歩きしている感すらある。被害者が一人の場合には死刑を回避する傾向が強いのも、この基準が無関係ではない。
「三人を殺害すれば完全にアウト。しかし二人殺害なら、公判の流れ如何では極刑を免れる……そんな風に考えているのではありませんか」
「永山基準についてはわたしも頭を過った」
吉田は眉間に皺を寄せて言う。
「しかしいくら被害者の数に留意しようと、那智は死体から子宮を抜いている。その残虐性は客観性云々の問題ではない。だから余計に彼の意図が理解できない」
「確かに難儀と言えば難儀ですね」
「いずれにしても現場から採取された体液のDNA鑑定について、氏家所長の鑑定が必要になる。その際はよろしく」
2
吉田が研究所を辞去した後、氏家は彼が参考のためにと置いていってくれたノートを開いた。未だ捜査資料はないものの、現時点で吉田が入手し得る詳細を那智本人から聴き取った覚書のような内容だ。那智は捜査本部から再三取り調べを受け、最終的に員面調書に署名・捺印している。記憶力の良さで取り調べ担当から質問されたことと答えをかなり再現しているらしい。
送検されると検事調べがあり同様に取り調べを受けるが、質問される内容は警察で訊かれることとほぼ同じだ。従って検事が作成する検事調書は員面調書が基になっている訳で、法廷での攻防を想定する参考になる。しかも警察の捜査の進捗と那智本人の行動が併記されているので、事件の全体像を俯瞰するには最適のテキストでもある。
那智貴彦(逮捕時の年齢は三十四歳)は埼玉県飯能市の生まれで、医大入学を機に都内江戸川区に転居した。物心つく頃から高校入学までは自分の性向はごく一般的だと思っていた。
『高二くらいですかね。女性に関心があるにはあるんですが、対象が別に生きていても死んでいても同じなんじゃないかと考えるようになって。自分にネクロフィリア(死体愛好)の性向があると自覚したのは、やはり医大に入ってからです。解剖実習で若い女性の検体を担当した時、ずっと勃起していましたからね。生きている女性の裸を前にした時よりもずっと興奮していたんです。いつか死んだ直後の女性を犯してみたいと思うようになりました』
第一の被害者関戸亜美の事件は昨年の八月四日に発生した。翌早朝、愛犬とともに千住の荒川河川敷を散歩していた老人が彼女の死体を発見したのだ。
既報の通り死体からは子宮が取り除かれているが、死因は失血性ショック死ではなく窒息死だった。
『絞殺に使用したのは市販のビニール紐です。首を絞めるのに手頃で、大量生産されているものなので足がつかないと考えたんです』
関戸亜美を最初の標的に定めたのは、帰りの電車内で彼女を見掛けたのがきっかけだったと言う。
『以前から獲物を漁っていたんですが、なかなかこれという女性に巡り合えなくて。でもビニール紐とメスはいつもカバンの中に入れていたので、標的さえ定まればいつでも行動に移すことができたんです』
関戸亜美を絞殺した後、那智は彼女の死姦に及んでいる。大抵の者は死姦と聞いて眉を顰めるだろうが、氏家は単なる性癖と捉えている。要点は死姦のために殺人を犯しているかどうかであり、厳密に言えば、単に静物となった死体をいくら凌辱しようが法律上は死体損壊罪にもならない。
『子宮を切除した理由は、単純に膣内に残存した精液を採取されたくなかったからです。初めての試みということも手伝い、切除には手間取りました。上着にも結構な血が付着したので、帰る時には丸めて小脇に抱える羽目になりました。切除した子宮は川に放り込みました。水中の腐敗速度が空気中の半分であるのは知っていましたが、あの辺りはウグイやオイカワといった雑食性の魚が群棲しているので、腐敗するより早く片付けてくれると計算したんです。実際、子宮は残骸すら見つからなかったでしょ』
関戸亜美を死姦した那智は、しかし得られたのが排尿程度の快感でしかなかったことに不満を覚える。
『何というか、もっとめくるめくような体験を夢見ていたんですよ。最初は緊張していて殺害も死姦も慌しかった。だから二回目はもっとリラックスした状態で愉しむべきだと考えました』
二人目の犠牲者藤津彩音に目をつけたのは同年十月下旬だった。同僚宅へ向かう西武池袋線の電車の中で、ひどく興味をそそられる対象に出くわした。それが藤津彩音だった。もっとも彼女の生活パターンが不定であったなら悲劇は起こらなかったに違いない。不運だったのは、まるで判で押したような生活を繰り返していたことだった。
藤津彩音が入間市駅で下車すると、那智は彼女の後を尾行し自宅までの帰路を覚える。都合のいいことに、彼女の住まいは入間川にかかる豊水橋を渡った場所に位置していた。
十一月六日、那智は前回と同じ時間帯・同じ車両で藤津彩音を目撃し、それが彼女の運命を決めた。
『最初に見た時から彼女に心惹かれました。理由ですか。もちろん体型ですよ。関戸亜美さんは華奢なモデル体型でしたけど、後から考えるとそれが満足できない原因だったんですね。動かなくなった膣にペニスを挿入したところ、あまり圧迫感がなかったんですね。彩音さんの安産型のヒップを見た瞬間、僕が理想としていたのは彼女の体型だったと気づいたんです』
『鑑定人 氏家京太郎』は全4回で連日公開予定