美菜代はそっと二人を見つめる。彼は軽く身を乗り出して微笑んでいた。さあ、なんでも話しなさい、僕が解決しますよ、というように。
美菜代の時の態度とはずいぶん違う。
「あたくし、ついこの間まで、中部地方の県会議員の息子の宗方裕也という方と婚約しておりました」
「その方のお仕事は?」
「現在は大手広告代理店に勤めています。結婚したら、お父様の秘書と、ご実家の建設業の手伝いをすることになっていました」
「つまり将来は、父親の事業と地盤を継ぐということですか」
「ええ。たぶん」
「ほお。それはお似合いのお相手ですね」
「あたくしたち、セレブだけが集う婚活パーティで知り合いましたの」
「最近はあるようですね。医者限定とか、弁護士限定とか。テレビで観たことがあります」
「いいえ。そういうものではありません。そんな商業化したパーティでなく、本当に厳選された、良家の子女だけの小さな集まりですわ。紹介者がなくては入れませんし、身元のチェックも厳重です。最近の晩婚化を憂えた政財界のトップの方たちが作った、本当の秘密クラブですの」
「なるほど」
「会ってすぐ、あたくしたち恋に落ちました。彼はちょっと年下なんですが、とても頼りがいのある方でまったく歳の差を感じませんでした。彼の方も、あたくしのことを年下だと思っていたそうです。一目惚れでした。お互い」
「恋愛のほとんどは、愛している人物と愛されてもいいと思っている人物によってなされています。愛し合う、つまり相互愛ということ自体、偶然のたまもの、奇跡です。一目惚れはさらに希少種ですから、男女両者同時に一目惚れが起きる確率は天文学的な数字です。不可能に近い」
「そうですか? あたくし、恋のほとんどはお互いの一目惚れで始まりますけど?」
成海は、皮肉を言いたそうににやっと笑った。けれど、相手が少しうるんだ目で彼を見つめているのに気がついたのか、笑みを引っ込めた。
「―――が、まあ、あなたほど魅力的な方とならそういうこともあるんでしょう」
「ええ。それで、出会って三カ月で婚約しました。ところが」
貴美子の目から涙がはらりと落ちた。彼女はバッグを引き寄せて、中をかき回した。
いつまでたってもハンカチが出てこないので、成海が立ち上がって本棚まで歩いて行き、ティッシュを一枚取って彼女に渡した。
ハンカチを持っていない美女、と美菜代は心の中にメモした。意外とだらしない性格なのかもしれない。
「どうしました?」
「……彼が突然、婚約を破棄してきたんです! 本当に突然でした。あたくしたち、お互いの両親に紹介して、式の日取りの話し合いまでしてたんです。それなのに」
「どうしたんですか」
「彼は一方的に式を延期してほしいと言ってきたんです」
「その理由を改めてお話しいただけますか」
「ムナカタハナコのせいですわ」
「ムナカタハナコ? ムナカタハナコとは誰です? 先ほどの電話では、サルのせいだと伺ったようですが」
「ですから、サルがムナカタハナコです」
「ムナカタ、ハナコ」
「彼の家の姓が宗方、そして、サルの名前がハナコですから」
「なるほど」
「もともと、近所のペットショップで売れ残ったサルです。それが殺処分されることになると地方紙の記事になり、彼のお父さんが引き取りたいと申し出たそうなんですの」
「ほお」
「どうせ、選挙対策ですわ。田舎議員が考えそうなことじゃないですか。実際、とても優しいお方だと、評判になったそうですから。でも、買ってからは家族全員がサルをかわいがっていたそうです」
「あなたはどうですか?」
「え」
突然、聞かれて彼女は驚いたようだった。
「あなたはハナコについてはどう思っていましたか。お会いになったんでしょう」
「年取った貧弱なサルでした。でも、あたくしが世話をするんじゃないですからどうでもいいことですわ。ただ、サルのせいで家の中が臭いのには閉口しました」
「そうですか。それで、式の延期とはどう関係してくるんです」
「日取りを決めたあと、そのハナコが病気になったんです。命に係わるほど重い病気に……それで家族全員が悲しんでいるので、治るまでは結婚できないと言われたんです。でも、あたくし、どうしてもそれは呑めないって突っぱねたんです」
「なぜです? そのぐらい待ってあげたら」
「でも、そうしたら、あたくし、三十になってしまいます! どうしても二十代のうちにお嫁に行きたかったんです」
「なるほど、そうですか」
「ハナコが治らなかったらどうなるの? 死んだら結婚できるの? と彼に聞いても、わからないと言うんです。もし死んだら、一年ぐらいは喪に服したいとも。あたくし、頭にきちゃって」
「お気持ちはお察しします」
「式の延期はできないと言ったら、今度は結婚の話自体を白紙に戻したいと言われて」
「すぐに謝って、延期を呑めばよかったのに」
「もちろん、そうしました。でも、ハナコに優しくできない人とは家族になれないと言われました」
部屋の隅で聞いていた美菜代は小さくため息をついた。貴美子は虫の好く人間ではないが、急に破談にされた女の気持ちはよくわかった。ずっと夢想していた未来が足元から崩れ落ち、人生が根こそぎ奪われてしまった、その気持ち。同情せずにはいられなかった。
貴美子は、ティッシュを小さく握りしめていた。
「田舎者のたかが県会議員のくせに、思い上がったあの家族をまとめて殺してやりたい」
「まあ、落ち着いて」
「いえ、落ち着けません。サルのムナカタハナコも一緒に殺してやったらどんなにすっきりするでしょうか」
成海は、今度ははっきりとにやりと笑った。
美菜代は彼が言いたいことが聞こえるような気がした。
―――やっと本性が現れたな。
「それでは、いくつか質問させてください。あなたの復讐を遂げるために大切なことですから、多少、失礼なことも伺うかもしれませんがご了承ください」
「ええ」
「先ほど、彼はあなたより少し年下だと伺いましたが、いったいおいくつ違うんですか」
「あたくしたち、本当に歳の差を感じませんでしたの。二人でいると、あたくしの方が年下に見られることも多くて、そして」
「そんなことどうでもいいんです。いくつ違うんですか、って聞いているんですよ」
貴美子は、小鼻を膨らませて息を吸い込んだ。
「三つだけです」
「あなたは三十でしたよね。彼は二十七なわけだ」
「彼と出会った時は、二十九でした。彼は二十六です」
「はいはい。つまり今は四つ違うと」
成海はメモを取っている。
「ムナカタハナコのこと以外で、その婚約破棄にいたるまでの間、何か変わったことはありませんでしたか」
「いいえ、特には」
「本当に? けんかなどは?」
「けんかなんかいたしません。彼は大らかな性格で、あたくしのわがままはなんでも聞いてくれました」
「彼のご両親とはいかがですか。良好な関係でしたか」
「ええ。もちろん。あたくしと婚約したことで、報告やら紹介やら、よく実家の方に帰ることになりましたから、ご両親も喜んでいました」
「そうですか」
「それまで彼は盆暮れ以外、実家に顔を出してなかったようでした。仕事もありましたし、東京の人間関係もありましたから。それが、時々戻るようになって、地元の友達とも交流が再開したようでした。いずれは地元に戻って、建設会社を経営し議員になるのですから、彼にとってもいいことだとあたくしも喜んでいました」
「あなたは彼が将来、実家の方に帰るのは、どう思っていたんですか」
「あたくしは彼の言う通りにするつもりでした。あたくしをそれを嫌がるような並の女だと思わないで欲しいですわ。政治家の妻として完璧に振る舞う自信もありました。田村のおじちゃまのところで選挙のお手伝いもしたことありますから」
「なるほど」
成海は手帳を閉じた。
「けれど、ひとつわからないことがあるんですが」
「なんでしょう」
「どうして、あなたは今まで独身だったんですか?」
「ま」
貴美子が息を呑んで、目を見開く。
「お話を伺いますと、それなりのお宅に育ったお嬢様だし、おきれいになさってますし、お上品でいらっしゃる。これまでも降るように縁談があったんじゃないですか。それがどうしてこの歳まで」
「それは……ご縁がなかったんですわ」
「ああ。いい人がいない、とか言って選り好みしているうちに行き遅れたクチですか」
「そんなことありません。素晴らしい人たちに出会ってきました」
「恋愛もたくさんなさってきたんでしょ。一目惚ればかりだと言われていましたね」
「そうですけど」
「なのにどうしてそのお相手とは結婚しなかったんですか?」
「それは……」
「あなた、本当に、今まで彼以外にプロポーズされたことあるんですか?」
「ありますよ。失礼な」
彼女の独身についての質問が始まると、美菜代は慌てて新しい飲み物を用意した。冷蔵庫の中にあったオレンジジュースをコップに注いで、お盆に載せる。
「だから、どうして、その人たちと結婚しなかったの?」
成海がさらに失礼な質問をしたところで、美菜代は飲み物を替えるのに間に合った。
「ずいぶん、熱心にお話しされたようですし、お疲れではありません? ちょっとお休みになったらいかがですか」
成海も貴美子も美菜代を見上げ、張りつめた空気が一瞬緩んだ。二人ともそろってジュースには口を付けなかったが、声をかけた効果はあったようだった。
美菜代が下がると、成海は咳払いした。
「まあ、田村先生というしっかりしたご紹介者もいらっしゃいますし、仕事は引き受けさせてもらいます」
「引き受けていただけますか」
貴美子がほっとした声を出した。
「では、彼と家族に制裁を加えてやってください。でも、彼が気持ちを入れ替える、って言うならよりを戻すことを考えてやってもいいですわ」
「え。殺してやりたいような相手とまだ結婚したいんですか」
「ですから、彼がどうしてもと言うなら、ということです」
言葉とは裏腹に、貴美子はまだ未練たっぷりのようだった。
「それは復讐というより復縁ですよね」
成海は自分のダジャレに気づいて嬉しそうだった。
「どっちでもいいです。ついでにサルのムナカタハナコも処分してくださったらすっきりします」
「田村先生からお聞きかと思いますが、手付は百万、現金です。別に経費を実費でいただくのと、成功報酬を百万いただく」
「もちろん、かまいません。ここに用意してきました」
貴美子はハンドバッグを開けると封筒を出し、銀行の帯のついた札束を見せた。
「確かに」
成海はざっと見て、スーツの内ポケットに入れた。
そして、にっこり笑った。
「あなたの復讐はもう成し遂げられたも同然です」
この続きは、書籍にてお楽しみください