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「あれ。秘書課の方じゃないですか」
 彼はホームで話しかけてきた。
「はあ」
 社長秘書はたとえ同じ会社でも近づいてくる人間には注意するようにと、厳しく教育されていた。美菜代は警戒して、短く応えた。
「今日、出していただいたお茶。なんか特別なものなんですかね。すごくおいしかった」
「普通ですけど。緑茶を濃いめにれて、氷に注いだだけです」
「君のお手製だからおいしいんだ」
 お世辞だと思っても、褒められたのは悪い気がしなかった。
「お茶の種類を教えてほしいなあ。母が緑茶に目がないんだ」
「ちょっと今はわかりません」
「イントラネットで連絡していいかな」
「どうぞ」
 社内専用のネットを使って連絡すると言われて、警戒が少し解けてしまった。話すうちに彼と家の方向が同じだということがわかり、途中まで一緒に帰宅した。
 のちにそれも嘘で、彼の家は反対方向だとわかるのだが、それも美菜代と帰りたかった一心からだと言われ、胸がきゅんとなった。
 陣内は快活で、話しやすかった。
 お茶の話からやがてランチをする仲になり、ついには飲みに行く約束をしてしまった。
 飲みに行った席で、陣内は社長室での失態を相談してきた。
「社長は、そんなに気にされていないと思いますよ。お忙しい方ですから。若い社員の一人一人を覚えていらっしゃるわけではないし」
「それなら助かるけど、本当に心配なのは、部長と課長なんだ。社長の前で失敗してしまったのだから。あれから僕は社長室に同行させてもらえなくなった」
「そんなことなら簡単ですよ」
「え」
「今度、営業部のなべ部長がいらした時、社長があなたのことを褒めていた、って言えばいいでしょ」
「そんなこと、できるの?」
「打ち合わせの際、少し早目にお呼びするので必然的に秘書課の部屋でお待ちいただくことになります。実際、よく雑談するんです。部長さんたちとは。社長が感じがいい若者だって褒めていたから、今度のゴルフに呼んでみたらどうですか、とか言ってみましょうか」
「そうしてもらえるとありがたい! ゴルフならちょっと自信ある」
「社長の方には、あなたのことを田辺部長が今一番有望な若手だと言っていたと話しておきます」
 陣内が学生時代、体育会ゴルフ部だったことは、すでに人事書類で調査済みだった。秘書の美菜代は、普通の社員が閲覧できない人事情報にアクセスできる権限を持っていた。岸川社長もゴルフの腕前は玄人くろうとはだしだから、気が合うかもしれない。
「だけど、次は失敗できませんよ。遅刻や軽口は厳禁です。気配りを利かせて、誰よりもフットワークよく動いてください」
 美菜代の尽力で、社長と部長のゴルフに彼が呼ばれることになった。事前に、社長が会員になっているゴルフクラブの資料を作った。地図と共に、何時に何をしなくてはならないか、どこでランチを食べるのか、ランチの時に社長はいつも何を飲むのか、など事細かなメモも作って陣内に渡した。
 ゴルフ場での気配りを認められた陣内は、それからたびたび社長が主催するゴルフコンペに呼ばれるようになり、立ち上げた企画も通すことができた。もちろん、それらにも美菜代が深くかかわっていたのは言うまでもない。打ち合わせのアポイントは優先的に入れたし、岸川社長がどんな口調やタイミングで説得されるのが好きなのかも、陣内に教授した。
 彼は顔がいいだけの一若手社員から、社長のお気に入りの営業部のエースとなった。
 あの頃は本当に幸せだった、と思う。
 二人で郊外をドライブしてラブホテルにも入ったし、一泊のあた温泉旅行にも行った。僕の給料ではこれが精一杯なんだ、結婚してくれ、と贈られたシルバーリングをそっと右手の薬指に着けて仕事をすると力がわいてきた。
 陣内が内線電話をかけてきた時に素知らぬふりで対応したり、社長室を訪れた彼とそっと目を合わせてほほんだり、彼が社長室を後にする時に小さくガッツポーズしたり……そういう瞬間が、息も止まりそうなほど幸福だった。それなのに。
「彼は突然、後輩の女の子との婚約を発表したんです」
「後輩?」
「彼と同じ課の女の子です。ミス大東って言われるほどきれいでかわいい子……まだ入社して一年にもならない子」
「君とは正反対のタイプだね」
「そんな言い方ないでしょ」
「失礼しました。彼がその人と付き合っているってこと、気がつかなかったんですか」
「ぜんぜん。頻繁に電話やメールはありましたし」
「ふーん」
「でも、彼が一番力を入れていた大きな企画が通った後から連絡がどんどん少なくなっていったんです。数日に一回、一週間に一回、一カ月に一回……そうして、あれ? と思った時に、婚約が発表されました」
「でも……こんなことを申し上げたらなんですが、そういう……なんと言いますか、失恋、というのは若い時にはよくあることではないでしょうか。あなたはまだ若い。前を向いて、新しい恋愛に歩み出す、というのはいけませんかね?」
「私もそう思いました。だけど」
「だけど?」
「私、お金を貸してました。彼に」
「ほほう」
「デート代は最初の数回をのぞいて私持ちでした。いつも彼はお金がないんです。駐車違反で罰金を払わなくてはいけないとか、車の修理費とか、次のカードの支払いに現金が足りないとか言ってはお金を借りていきました。でも、まだ一円も返済されていません」
「二人の女と付き合っていれば、金がかかりますからね」
「何度か返して欲しいとメールしたんです。婚約を発表した後、電話には出てくれなくなりましたから。そしたら、彼の妻になる女が、私のことを社内であることないこと言いふらし始めたんです」
「どんなことを?」
「彼と結婚できると思い込んでストーカーみたいに付きまとってる気持ち悪い女だって」
「それはひどい」
「でも、皆、彼らの方を信じました。華やかできれいなカップルですからね。皆、幸せな人の方が好きなんです。私は会社にいられなくなりました」
「なるほど、わかりました」
「また、なるほど、ですか。なるほど、というのがあなたの口癖なんですね」
 嫌味のつもりで言ったのだが、成海は顔色も変えない。
「ええ。そうなんです。さすがに一流企業で秘書の仕事をしていた方だ。人を見る目がするどくていらっしゃる」
 喜んでいいのかわからない。
「それで、最初にお聞きし忘れましたが、郷田会長からの紹介状をお持ちですか」
「え」
「紹介状です。こちらもむずかしい仕事を請け負うからにはお互いの信用が大切ですからね。それ相応の御身分がある方や、ご紹介がある方しか仕事の依頼は受け付けないんです」
「……そんなもの、ありません」
「そうですか。では、郷田会長に電話で確認してもいいですか。これこれこういう人が来ているけど、信用していいのかどうか」
「やめてください。こんな恥ずかしいこと、会長にお話しできません」
「なら、どうやって自分の身分を証明するおつもりですか」
「ですから、私は大東商事の社長秘書で」
「元、でしょ。百歩譲ってあなたが大東の社員だった時ならまだいいです。でも、今はただの失業したアラサーだ」
「なんて」
 ひどいことを言うんですか、と言い返したかったけど、成海の言うことはすべて本当だった。
「あなたが言っていることの裏付けがどこにあるんです?」
「じゃあ、秘書課に電話して確認してください」
「元社員でこんな人いましたか、って? だめだめ。今のあなたには失うものが何もない。それじゃ、信用できないね。復讐が終わったとたん、警察に行って僕を詐欺で訴えるかもしれないしね」
「そんなことしませんよ」
 しかし、成海は美菜代の言葉を聞いてもいなかった。
「だいたい、僕の話を本当はどこで聞いたんです。郷田会長とはどういうご関係なんですか?」
 美菜代は答えられなかった。郷田会長と岸川社長は交流がある。けれど、美菜代とはほとんど面識がない。
「おおかた、パーティかなんかで会長がしていた話を盗み聞きしたんだろう」
 成海の口調が急に変わった。じっと見つめてくる目が冷たい。
「そんなんじゃありません」
「じゃあ、どうなんだよ? 正直に言いなさい」
「……以前、うちの社長も出席した会合の末席に座っていた時、郷田会長が話しているのを聞いたんです」
「ふーん。貯金はいくらある?」
「え」
 とっさのことで答えられなかった。そんな美菜代に成海はずばりと言った。
「八十万」
「は?」
「八十万。今、銀行口座にある金額。そんなものだろう? ブランド品を買ったり、ホストクラブに行くタイプでもないが、株や副業で儲ける力量もない。貯金は都銀か良くてMMFに預けているだけ。仕事柄、スーツや靴には金をかけなければならないし、男に貢いでいたから、実家から通っていてもあまり残らない」
 驚いた。実際に銀行には八十万ちょっとの貯金がある。けれど、それは美菜代が結婚資金として貯めてきたものだった。現在無職の美菜代の虎の子だ。
「どうして実家ってわかるんですか」
「言葉になまりがないし、実家から通っている女子じゃなけりゃ大東商事の秘書課には入れないだろ」
「でも、それは私の大切な貯金です。もうこれからはそれしか頼るものがないんです」
「八十万を手付金で払ってくれ。これでも安い方だよ。普通なら百万からだから。あ、あと、復讐がなされたらプラス百万と経費をもらう。そちらは分割で結構だ」
「そんなの無理です」
「じゃあ、やめた方がいい」
 成海は立ち上がり美菜代の方に来て、ソファの背に手をついた。彼の端正な顔が近づいてきて、思わず目をつぶってしまった。瞳でロックオンされたように動けなかった。

 

『その復讐、お預かりします』は全4回で連日公開予定