初夏の昼下がり、かん美菜代みなよは公園のベンチに座っていた。
 生気のない顔で傍らのコンビニ袋を開き、がさごそ音をたてながらパンを取り出した。シャーベットブルーの軽やかなスーツ姿のOLには似合わない大きなコッペパン。美菜代はしばらくその袋を指でいじっていたが、意を決してパンを取り出し、大口を開けてかぶりついた。
 その時、大きな笑い声が響いた。美菜代は自分が笑われたような気がして肩をびくっと震わせた。
 学生服を着た男子が数人、公園の奥の方にたむろしている。その中の一人がカバンから煙草たばこを出していた。笑い声はそのために起きたらしい。
 マジかよ、やばくねえ、やったじゃん、お前なかなかやるな。
 喜び、誇らしさ、おびえ、そんなものが入り混じっている声だった。
 美菜代はしばらく見ていたが、バッグからスマートフォンを取り出すと、迷いなく一一〇にかけた。
「あ、警察ですか。今、みなみほんちよう三丁目の児童公園にいるんですが。ええ、ペンキのげたパンダの遊具がある公園です。今、高校生ぐらいの男子が数人煙草を吸ってます。ええ。確かに高校生です。制服を着ていますから。ええ。すぐ来てください」
 その間もパンから手を離さなかった。電話を切って、今度はスマホのカメラで彼らの姿を撮った。一つ食べ終わると、コンビニ袋からまたパンを出した。今度はコロッケをはさんだパンだった。
「九百キロカロリー」
 どこからともなく声がして、美菜代はまたびくりと体を震わせた。
「それを、全部食べると、さっきのと合わせて九百キロカロリー以上になりますよ」
 そう言ったのは、美菜代の隣のベンチに座っている男だった。ぴったりと体に合った高級そうなスーツを着ている。柔らかそうな髪、大きな目、輝く白い歯。自分の整った容姿をよく知っているのか、自信たっぷりな態度だった。
「あなたに関係ないでしょう」
 気味が悪くて、美菜代にはそれだけ返すのがやっとだった。
「パンというのは、意外にカロリーが高いものです。さっきあなたが食べたあんことマーガリンがはさんであるパンだけで、ちょっとした定食ぐらいのカロリーはある」
「わかってます。そんなこと」
「でしょうね」
「でしょうね?」
「若い女性がパンのカロリーを知らないわけがない。あなたはずっとそれを気にしていたはずだ。標準体重を少し超えているようだから。だけど、なぜか今日は解禁した。しかもその袋の中にはまだパンがある。たっぷり砂糖衣のかかった菓子パンが。カロリーは五百五十キロ以上」
 美菜代は慌ててコンビニ袋を引き寄せた。
「ほっといてください」
「あなたがどれだけ食べてブクブクになろうと知ったこっちゃないが、さっきの通報の電話はいただけないな」
 美菜代は嫌な気持ちになったが、内心の動揺を隠して胸を張った。
「未成年の喫煙は重大な法律違反です。通報は市民の義務です。何か悪いことがあるんですか」
「彼らは常習犯じゃない。たぶん、これが初めてでしょう。吸い方でわかる。かわいそうに。警察に捕まったら停学処分だ。下手をすると退学になるかも。そうなったら、一生が変わってしまうかもしれない。あなたはそれに耐えられるんですか」
「……」
 彼は立ち上がった。
「何をするんですか」
「あなたのためですよ」
 彼は高校生たちに近づいて行った。そして、何事かをささやくと、彼らは慌てて煙草の火を消し、公園を出て行った。
 彼が戻ってきて美菜代と同じベンチに座ったので、体を離した。
「美しい晴れた日の午後だ。それなのに、あなたはカロリーの高い、ゲスなパンを一気食いして、子供を警察に突き出そうとしている」
「だから、あなたに関係ないでしょう」
「確かに。というか、関わりたくもないね。聞きたくもない。ぱっとしないOLが公園のベンチでいらいらしている理由。怖すぎるよ」
 もう耐えられなかった。
「失礼します」
 気持ち悪い男に会ってしまった……足早にそこを立ち去った。振り返ると、彼は何事もなかったかのように、すました顔でベンチに座っていた。イケメンなだけによけい気味が悪い。
 公園を出ると、美菜代は小型タブレットの地図を見ながらうろうろし、一つの雑居ビルにたどり着いた。入り口の案内板を確認して、小さなエレベーターに乗った。三階で降りてまっすぐ歩き、『成海事務所』と書かれたドアの前で立ち止まる。息を一つ吐いて、慎重にノックした。
「ご用ですか」
 その時また、横から男の声がして、美菜代は驚いてそちらを向いた。さっき、公園で話しかけてきた男だった。
「……ついてきたんですか! また警察呼びますよ!」
「いいえ。ついてきたも何も、ここが僕の職場ですから」
「え」
 美菜代の脇をすり抜けて、彼は『成海事務所』の中に入っていった。閉まったドアをしばらくぽかんと見つめる。けれど、ずっとここでこうしているわけにもいかない。ため息をつき、服のしわを直し、改めてドアを叩いた。
「どうぞ」
 今聞いたばかりの男の声がした。美菜代は酸っぱいものを食べた顔になる。
「先ほどは失礼しました」
 ドアを入ったところで、とにかく頭を下げることにした。
「いえいえ、どうということはありません。高校生たちは喫煙をしていたわけだし、あなたは正義です」
 大げさに腕を広げるしぐさが、妙に気に障った。
「あの、こちら、なる慶介けいすけさんの事務所ですか……」
「はい。僕が成海ですが」
 美菜代は事務所の中を見まわした。十二畳ほどの部屋に、デスク、ソファセット、本棚が一つ。どれも事務用の簡素なものだった。壁やデスクの上を飾るものもない。
「本当に成海さんですか?」
「本物の成海です」
 にこにこと笑ったまま、相手は答える。
「私、神戸美菜代と申します」
「なるほど」
 名前を言っただけなのに、なるほど、というあいづちは適切ではないんじゃないだろうか、と美菜代は思った。それにもったいぶった口調がいちいちかんに障る。
「で、ご用件はなんですか」
「座ってもよろしいでしょうか」
「ええ。どうぞ」
 成海は部屋の中央に置かれているソファセットを指さした。その奥に彼のデスクと大きな黒い金庫があった。美菜代が座ると、彼は向かいに腰かけた。お茶を出す気はないらしい。
「私、あの、噂を聞いて来たんです」
「噂」
「成海さんの噂……こちらは、あの……」
「なんです?」
 美菜代は改めて目の前の成海慶介という男を見つめる。ライトグレーのスーツ。柔らかくセットされた髪。口臭スプレーのポスターに出てくるモデルのように爽やかな笑顔。テーブルの下の靴はピカピカに磨き上げられているのだろう。
 そのくっきりとした二重の目に視線を合わせると、吸い込まれそうになる。すてきな男子だからイケメンだから吸い込まれそうになるのではない。どこか、不穏で不安な吸引力。すべてを見抜かれそうな眼力の強さ。
 美菜代は慌てて視線を外す。怖かった。この男でいいのだろうか。信用していいのだろうか。目の大きな男は実がない。昔、祖母が言っていた言葉だ。確かに、形の良すぎる目からは感情が読み取れない。
 けれど、今はこの男に頼るしかないのだ。
「私、聞いたんです。成海さんはすごい復讐屋だって」
「復讐……復讐とは、穏やかでないですね。どこでそんな話を?」
「サトダインターナショナルのさと会長から。あなたはプロの復讐屋で、セレブやお金持ちしか顧客にしない。でも最高の腕前を持っているって。依頼料は高額だが満足度は百パーセント。しかも、決して誰にもばれないように復讐を成し遂げてくれるって。日本で最高の復讐屋だと……」
「郷田会長のご紹介ですか。日本で最高。光栄な響きだ。でも、自分では世界で最高と思っています」
「じゃあ、本当に復讐屋なんですね」
「ええ」
「ぜひ、お願いしたいんです。私、とてもひどい目に遭ったんです。毎日毎日悔しくて、夜も眠れないんです」
「なるほど」
 成海は美菜代の顔を見ながら深くうなずく。
「なるほど?」
「それであなたは、ゲスなパンをがっついて、高校生たちに当たってたわけだ。謎が解けましたよ」
「当たってたって」
「いえいえ、非難しているわけではありません。さっきも言ったでしょ。当然の報いです。あなたは正義だから」
 なんだかやっぱり癇に障る。けれど、細かいことを気にしてはいられない。
「私、大東だいとう商事で秘書をしていたんです」
「いたんです、とは」
「もうやめたんです。というか、やめざるを得なかったんです」
 美菜代は都内の有名女子大学を卒業後、東証一部上場企業の大東商事に採用され、秘書課に配属された。それから五年、秘書として地道に取り組んできた。
 他の先輩は皆、華やかな才色兼備なのに、自分だけがぱっとしない容姿なのがコンプレックスで、人一倍努力した。誰よりも早く出社し、アフターファイブの誘いも断って先輩の仕事も引き受けた。その甲斐あって、二年前には社長秘書の地位に登りつめた。
 しかし、そうして懸命に働いてきたOL生活のすべてを奪い去ったのが、陣内じんない俊彦としひことの出会いだった。
 陣内は二十九歳、美菜代の二つ年上で営業部所属だった。本来なら秘書課や役員室に出入りするようなレベルの社員ではない。たまたま部長のお供で会議についてきた。
 彼の端正な顔立ちや高い身長はよく目立った。けれど、美菜代が会議の前にお茶を社長室に運んだ際、ウィキペディアをそのままコピペして資料を作成したことがばれて、部長に厳しく叱責されていた。社長の岸川きしかわは無表情でその様子を見ていたが、いつもにこやかな人だから気分を害していることは一目でわかった。
 その日の帰宅時、会社の最寄駅で陣内とばったり会った。ずっと運命だと思い込んでいたが、今となると彼の策略だった。

 

『その復讐、お預かりします』は全4回で連日公開予定