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「キスするんじゃないんだよ。ばか。目を開けろ」
 恐る恐る目を開くと、まだ同じ場所に顔があって、慌ててそむけた。
 成海は余裕の微笑みで、美菜代の顎に手をかけ、正面を向かせる。
「全財産をかけられないぐらいなら、やめた方がいい。あんたの復讐心はそうたいしたことはない。五十万円使って、海外リゾートでも行ってきなさい。最高級のホテルに泊まって、地元の男と遊べばいい。一週間後に日本に戻ってきたら、すっかり気が晴れている」
「そんなことじゃ、気なんて晴れません! あの人は私の命でした。人生で唯一の相手です。あんな恋は二度とできません。それなのに、あの人は私と私の人生をめちゃくちゃにした。絶対許せない!」
 大声で叫んだ美菜代を見て、成海は体を離し向かいのソファに戻った。
「やっと本性を現したな」
 成海はうっすらと笑った。
「どうして、他の人と付き合わないの? そんなくだらない男なんてやめて、他の男と結婚すればいいじゃない?」
「だって、誰も私のことなんか相手にしてくれないもの」
「どうして、相手にしてくれないの? 男はごまんといるのに。好きなのを選べばいい」
「そんなことできるわけないでしょ!」
「どうして、できないの? 僕なんて結婚してほしいっていう女の子がたくさんいるよ。セフレでもいいから付き合ってほしいっていう子もいる」
「男と女は違うのよ」
「どうして、違うの? 女の子だって男に不自由してない子はいくらでもいるでしょ」
「だって。だって……私は魅力的じゃないからよ」
「そう? 魅力的な声をしているよ。わりに胸も大きいしね」
 どうして、どうして、とたたみかけてくる成海の言葉に追い詰められていく。美菜代は、大きく息を吸った。
「地味人間だからよ!」
「わかってんだな」
「わかってるわよ! 五歳の時に幼稚園でむらゆう君に振られた時からわかってるわよ!」
 真面目にまっとうに生きてきた。人一倍、努力してきた。けれど、鼻が低い、目と目が離れている。眉毛がハの字に開いていて、愛嬌はあるかもしれないがしまらない顔立ちだった。
 成海は満足そうに笑った。
「よしよし。それでいい」
「あなたって、本当にむかつく」
 気がついたら、涙ぐんでいた。
「自分自身を見つめ直しなさい。それで、人生計画を立て直すといい」
「ひどいこと言う」
「だって、金も信用もないんじゃしょうがない」
「お願いします。なんとかなりませんか」
「僕の復讐は金持ちやセレブのものだ。金も名誉もうなるほどある人が、警察もやくざも通さないで、なんの証拠も残さずに復讐したい時に使うのが、僕みたいな男なの。悪いけど、ほか当たってくれる? ただ、そこらの業者を使うのはやめた方がいいよ。下手なところ使うと秘密だけ握られて、あとあと強請ゆすられたりするからね」
 そうだ、それが怖くて信用ある復讐屋の話にかけたのだった。
「……どうしてもだめですか」
「だーめ。さあ、いい子はおうちに帰りなさい」
 成海は、美菜代の肩をつかんでソファから立たせた。
「本当に、本当に、だめ? 私、あなた以外に頼れる人がいないの」
「そんなかわいい声出しても無駄」
 そして、ドアを開けて美菜代を追い出して、無情にバタンと閉めた。
 廊下に、美菜代だけが一人残された。

 翌日。
 美菜代はまた、『成海事務所』のドアを開けて、そっと中をのぞいた。
 デスクの前に座っていた成海が顔を上げた。
「なんだ。お前か」
 君からあんたになり、今日はお前になっている。
「お願いがあります」
「だめ。なんど頼まれても。時間の無駄だからやめなさい」
「話だけでも聞いてください」
「だから、時間と労力の無駄」
 成海は立ち上がって近くまで歩いてきた。また美菜代の肩をつかんで、ドアから出そうとする。細身なのに、男だから力は強い。美菜代は渾身の力を込めてドアノブをつかんだ。
「働かせてください!」
「え」
 美菜代は昨日、家に帰ってから考えた。
 やっぱり陣内には復讐したい。どうしても彼とあの女を許せない。けれど、方法がわからない。
「働きながら、あなたの復讐を学ばせてください! お金はいりません」
「お前なんかいらないよ。助手は採ってない。女なんて足手まといになるだけだ」
「秘書としては? 私は一流企業の秘書でした。電話番としては最高の技術を持っています。あなたも昨日、声だけはいいって褒めてくれたでしょ」
「いらん。留守番電話で十分だ」
「英語もできます!」
「おれもできる」
 一人称まで、僕からおれに変わってる。
 その時、成海のデスクの電話が鳴った。美菜代は彼を押しのけて電話に走る。
「触るな!」
「はい。『成海事務所』でございます」
 美菜代はそれまでと打って変わった、静かで艶のある声を出した。その声だけで百万ドルの価値があると、アメリカの大手保険会社CEOにも絶賛された美声だ。与党の大物議員から、君の声を聞くと寿命が延びるような気がするとも言われた。
 これまで、何度も声だけで美人だと勘違いされてきた。そのことで傷ついたこともあった。でも、今こそ磨き上げたこの声を使う時だ。
「おい」
 美菜代から受話器を奪い取ろうとした成海の手首をつかみ、体を海老ぞりにしてこらえた。
「はい。お仕事のご依頼のお電話でございますか。ありがとうございます。あいにく、成海は外出中でございまして。ご用件をお伺いいたしますが」
 勝手に出るな。押し殺した声で抗議する成海を手で押しのける。
 私に任せておいて、と目で言った。
「わたくし、秘書の神戸と申します。お差し支えない範囲でご依頼の内容をお伺いできますでしょうか」
 成海はもう止めなかった。諦めたのか黙って見ている。
「ええ。ええ。それから、畏れ入りますが、お客様のご紹介はどなた様からでしょうか」
 美菜代はデスクの上のメモ帳に記入した。
「今日の午後四時でございますね。わたくしの手元では空いておりますが、成海に確認いたしまして、折り返しお電話を差し上げます。お電話いただきありがとうございました」
 静かに電話を切った。
「お前なあ」
「秘書がいる一番いい点は、上品に居留守が使える、ということです」
「……なるほど」
「事前に話を聞いて、依頼を取捨選択することもできます」
 成海は仏頂面のまま、デスクの前に座った。
「ね。なかなか便利なものでしょ」
「……それで、依頼はどういう話なんだ」
「サルに負けた女らしいです」
「サル……?」

 依頼人が事務所に入ってくると、部屋の中にはいい香りが充満した。かなり高級な香水をふんだんに使っているに違いない。身長約百七十センチ、細身、整った顔立ち。スーツ、バッグ、靴……一分の隙もない一流ブランド品だ。爪はきれいにネイルしてあるし、髪の毛先もくるりと巻いている。ハイヒールのつま先も艶やかに磨かれている。
 完璧だ、と美菜代は思った。爪、毛先、つま先。体の先端に女子の価値は表れる。彼女は自分を丁寧に扱っている。そういう育ちをしてきたのだ。
 ただ、ブランドがどれも一目でどこかわかるのと、スーツが華やかなピンクなのがちょっとやぼったい。二十五、六にも見えなくはないが、三十代だろうと踏んだ。
 彼女は、デスクの前に座る成海と、その横に立つ美菜代の顔を交互に見た。
「どちらが成海さん?」
 美菜代は笑い出しそうになった。成海が明らかに気分を害した表情をしたからだ。
「こっちの、インテリジェンスやデリカシーのかけらもない女が、あなたの復讐を遂げてくれるとお思いですか」
 美女はちょっと眉をひそめた。
「失礼ですけど?」
 意味がわからなかったのかもしれない。ただ、自分が非難されたのは感じたようだ。
「あなたが成海さんですの?」
「ですから、こんな女に復讐してもらいたいのか、と聞いているんですよ」
 成海はまだこだわっている。
「所長」
 美菜代は口をはさんだ。彼の言葉にはむかついていたが、客の前で表情を変えない訓練はできている。成海を所長と呼ぶというのは、彼女が来る少し前に決めたことだ。
「お客様におかけになっていただいたらいかがでしょうか」
「ああ」
 成海はやっと我に返った。
「ご案内して。神戸君」
 ご案内するもなにもない。目の前にあるソファに座らせるだけなのだから。
「こちらにどうぞ。お茶は冷たいものと温かいものとどちらがよろしいですか」
「温かいハーブティーをいただきます」
「すみません。あいにくハーブティーはないんです。緑茶ですがよろしいですか」
「結構です」
 美女は座って、そろえた脚を斜めに伸ばした。
「あたくし、おぎ貴美子きみこと申します」
「成海慶介です」
 貴美子は、美菜代が淹れた茶を一口含んだが、それ以上口を付けなかった。
 やはりすぐにでも新しい茶葉を買ってこなくては、と美菜代は思った。ここの茶葉は茶色に湿気たものしかない。
 美菜代は部屋の隅の小さなキッチンに戻り、置いてあった丸椅子に腰かけた。わびしいけれど、他に座るところはないのだからしょうがない。
「お電話で秘書がお聞きしたところでは、代議士のむらまこと氏のご紹介だとか」
「ええ。父が同郷の親友で、有力な支持者の一人ですの。田村のおじちゃまには子供の頃からかわいがっていただいて」
「僕もよく存じ上げていますよ。田村先生とは何度かお仕事をさせていただきましたので」
「それで……」
 美女は口ごもった。
「復讐したい相手がいるのですね」
 成海がはっきり口にした。

 

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