5
射矢は妻のつくった夕食を前にして考えていた。いつもどおり豪勢な夕食だ。和風の味付けのスペアリブ、ウナギの蒲焼を巻いた卵焼き、鯛のカルパッチョ、シラスと水菜のサラダ。
――しかし、何かがいつもと違う。
その何かはわからなかったが、射矢はこの雰囲気のどこかに違和感がある気がした。
とはいえ、妻が怒っているような様子はなかった。よくしゃべり、よく笑い、主宰している料理教室に来ていた生徒について、おもしろおかしく話している。
妻は何かを誤魔化そうとしているのだろうか? 以前、射矢の大切にしていたバイク――ドゥカティMH900eを傷つけたときに妻は三ヶ月黙っていたことがあった。そのときの雰囲気によく似ている。
それでも、射矢は箸を動かしながら、笑みを絶やさず妻の話を聞いていた。バイクはもう売ってしまったから傷つけられることはないし、ほかに傷つけられて困るものもない。
――気のせいか。
昔から人の話を聞くのは得意だった。絶妙のタイミングで頷き、いかにも興味ありげに相手を見つめ、笑うか真剣な顔をするか、あるいは同情的に悲しんで見せるか瞬時に判断して相手を興に乗せる。射矢の前では、常に皆が何かを話したがった。
「でね、その人ったら、おかしいのよ。星口金でクッキーを作ってたんだけどさ、トップにクリームを載せるときにね、すべっちゃってダラダラーってなってね。もうどうせ変になったから、これでわたしのサインを書きますって、クッキーの上に絞り袋でほんとうにサインを書いちゃったの。まあ、なんて書いてあるのか全然読めないんだけど、ある意味芸術的だなって思ったのね」
妻の話は続いていた。射矢は笑うタイミングを見逃さず、声を出して笑った。このとき、本気で笑うことが大切だ。たとえ、別のことを考えていたとしても。
「ね、おかしいでしょ」
「ほんとだね」射矢は、あまりに笑いすぎて、涙を拭きながら返事した。
「それでさ、話は変わるんだけど、あしたの夜、早く帰ってこられる?」
「あした? どうして?」射矢はいった。
「急なんだけど、桐谷洋子さんって知ってる? 料理研究家仲間なんだけど、フィンガーフードのパーティーをするから、ご夫婦でどうかって誘われたんだけど、どうかな」
――あしたか……。
「ちょっと待ってね」射矢はテーブルに置いていたスマートフォンをとり、画面をスワイプした。
目を細め、読むふりを一五秒。
「あ、あしたは、ゲイルソリューションズの重役とサウナに行く約束してたんだった。いまAIプラットフォームの共同事業を提案しててね。もうすぐ決まるかどうかって大事な時期なんだよね」
嘘だった。
ゲイルソリューションズと共同事業を進めているのは事実だったが、重役とサウナに行く約束などはしていない。会う約束をしていたのは、その会社の営業担当の女性とだった。ふたりでホテルの屋上レストランで食事をするためだ。食事のあとはどうなるかは未定だった。一応、ホテルの部屋は予約してあったが。
「だけど」射矢は、いった。
「もし君のほうの食事会が重要だったら、こっちの予定はキャンセルしてもいいよ」
射矢は妻を見つめながら、少し困ったような顔をつくった。得意な表情だった。「子犬の泣き顔」と自分で名付けている。この顔をして女性を見つめると、たいていのことは許される。
妻は、真顔になって、じっと射矢の顔を見つめていた。
何かがおかしいと射矢は感じたが、その何かはわからなかった。ともかく射矢は「子犬の泣き顔」を崩さなかった。
しばらく沈黙が続いてから、妻が低い声でいった。
「サウナ?」
射矢は妻の顔を見ながら、頷いた。
と同時に背筋が冷たくなるのを感じた。
深夜、射矢はビールを飲もうと思ってキッチンにいた。こんなことは滅多にしないのだが、今夜はどうしてだか、妻の隣で寝ていると寝苦しくなって起きだしたのだった。
タンブラーグラスを捜していると、キッチンの抽斗の奥に一冊のノートが入っているのを見つけた。
――これはなんだろう?
学生が使うような大学ノートだ。
妻がレシピを書いているノートだろうか。
射矢がキッチンに入ることは滅多にない。ここは妻の聖域だった。妻は家では、おもにキッチンで仕事をする。ここで新しいレシピを考えたりするのだ。
妻が何かを書くとき、スマートフォンやパソコンではなく、ノートを使うことは知っていた。彼女は電子機器を嫌っている。一度、書き溜めていたレシピのデータがパソコンのなかで消えてしまったことがあり、それからパソコンを信用しなくなったのだ。ある意味、憎んでいるといってもいい。仕事のため、必要最低限なことにはパソコンを使っているようだったが。
その妻は、いま二階のベッドで寝ている。
射矢は、缶ビールのプルトップを開けると、一口飲んで――結局タンブラーグラスは見つからなかった――普段はそんなことをしないのに何気なく妻のノートを開いてみた。
ノートの最初のページを開けて身体が凍りついた。
〈妻が夫を完全犯罪で殺す方法〉
一行目の文だ。
――なんだ、これ?
続いて、いくつもの殺人の方法が列挙されたあと、データが載っていた。
「三〇代の不慮の事故の死亡割合トップ5」
第一位 交通事故死
第二位 転倒・転落死
第三位 中毒死
第四位 溺死
第五位 窒息死
第二位の「転倒・転落死」のところに丸がつけてあった。その次に、「転倒・転落死」の発生場所のトップ5が書かれていた。
第一位 街路
第二位 スポーツ施設
第三位 公共の地域
第四位 工業用地域
第五位 商業等施設
ここには丸がついていない。
そのあと、
〈三〇代の死因のトップは自殺だが、これを偽装するのは難しい。夫は自殺をするような人間ではない〉
とある。
それから、急に小説風の書きこみが続いていた。夫らしき男が、妻に浮気を弁解している場面だった。いくつものパターンがあり、どの場面でも、夫が必死に命乞いをしている。夫が殺される場面もあった。殺され方も様々だ。
夫の名前は、「イーサン」で、妻のほうは「サーシャ」となっていたが、これは自分たち夫婦のことではないかと思った。人物の描写からすると間違いないように思える。
同じような場面が、繰り返し繰り返し、執拗に書かれていた。
妻が昔、小説家になりたかったことは知っていた。大学時代にはホラー小説を何作か書いたと聞いたことがある。
だが、これは小説なのか?
確かに、ホラーではある。
射矢は手が震えているのに気がついた。
体裁は一応小説だ。しかし、文面からは激しい憎しみが伝わってくる。
――まずいことになった……。
温子、詠美、果歩、琴葉……。
射矢は頭を振った。
浮気相手を「あいうえお順」に並べてみても、誰との浮気が見つかったのかわかるはずもなかった。とにかく浮気がバレていることだけは間違いない。そうでなければ、妻がこんなノートを書いたりするわけがなかった。
射矢はノートを掴んだまま、しばらく震えていた。缶ビールにはほとんど口をつけていなかった。
6
「残念なお知らせが、ふたつあります」
橋爪は深刻そうな顔をして冴子に告げた。この探偵は、いつもシリアスな雰囲気を醸しだしている。この仕事で身につけたものだろうか?
冴子は探偵事務所に来ていた。低い合板のテーブルに資料が置かれていて、デスクの前の硬い椅子に座っていた。
「残念なお知らせって、なんですか?」
橋爪が身体を乗りだして、
「まずひとつ目ですが、射矢さんは我々の存在に気づいている可能性があります」
「というと?」
「急に浮気をやめました。女たちに会わなくなったんです。すべての女性関係を清算しようとしているのかもしれません。最後に会った女には、『もうこんなことはやめよう』と話していました」
――浮気をやめた……?
「どうしてバレたんでしょうか?」冴子は尋ねた。
橋爪はむっつりとした顔のまま、首を振った。
「わかりません」
あなたたちの尾行が見つかったのでは、とすぐに頭に浮かんだが黙っていた。少なくとも、冴子の側からは気づかれていないように思う。
「それで、もうひとつの残念なお知らせとは?」冴子は尋ねた。
「その最後に会っていた女性ですが、あなたの妹さんでした」
――イモウト……。
その言葉の意味が頭に沁みこむまでに時間がかかった。
「え? 温子、ですか? まさか」
神妙な顔をして、橋爪は頷いた。
「そのまさかです。浮気していた期間はそれほど長くはないでしょう。妹さんは半年前、アメリカから帰ってきたばかりですから」
「それは知っています……」
温子は、アメリカの大学に行ったあと、大学院に進み、半年前までアメリカで過ごしていた。夫とは結婚式で会っていたが、それ以外にふたりに接点はないはずだが……。
まさか、という思いと妹ならあり得るかも、という思いが頭のなかで交錯した。妹は、夫の写真を見ながら、「こんな旦那さん、わたしも欲しい」といったことがある。姉に気を使って、いっているのだとばかりに思っていたが、本気だったのかもしれない。
もしも、これがほんとうのことだとすると、かなりショックだった。
それにしても……。いったい、夫は帰国したばかりの妹と、どうやったらそんな関係になれるのだろうか? まったく想像ができなかった。
「ふたりがご主人の車のなかで会話した内容を盗聴していますが、お聞きになりたいですか?」
「盗聴したんですか? それって違法じゃないんですか?」
「現行法では、盗聴すること自体は法に触れません。ただし、盗聴した内容を使って相手を脅したり、盗聴器を仕込む際に住居に不法に侵入したりすれば罪に問われますが、今回は指向性マイクを使っていますから大丈夫です。裁判の資料としては使えませんが」
「ぜひ聞かせてください」
橋爪が立ちあがってノートパソコンを机に置き、操作をはじめた。声がよく聞こえるように冴子のほうにノートパソコンを向ける。
〈もうこんなことはやめようか?〉最初に聞こえてきたのは、夫の声だ。
〈……そうだね。お姉ちゃんに悪いしね〉これは……間違いなく温子の声だ。
〈今夜を最後にしよう〉と夫。
〈そうだね〉
〈そのかわり、今夜は楽しもう。二時間だけ、だけど〉
〈そうだね〉
それから車のドアが開く音が聞こえた。
橋爪が手を伸ばして、キーボードに触って録音の音声を止めた。
ノートパソコンを自分のほうに向けて、またしても神妙な顔つきで冴子を見た。
「ふたりは、このあと車を降りて、ラブホテルに入っていきました」
冴子は呆然としていた。まだ妹の言葉が頭に響いていた。
――そうだね……。
探偵が話している。
「わたしの立場から、こんなことをいうのは、あれですけど、もう離婚なさってはどうでしょうか? ご主人が合計二六人と浮気をした証拠はすでに揃っていますし」
冴子は考えていた。
――いや、まだ何かある。
妹とまで浮気をしていたことがわかったいま、夫にはまだ何か重大な秘密があるような気がしてならなかった。
きっと、何かあるに違いない。冴子が考えもしなかった恐ろしい秘密が……。
「もう少し調べられませんか?」冴子はいった。
橋爪が驚いた様子で、
「しかし、ご主人は警戒していますから、もう何も掴めない可能性もありますよ」
確かに、その可能性はある。しかし、夫の秘密をひとつ残らず暴きたい気持ちのほうが強かった。その秘密のなかに、夫に復讐するチャンスが見つかるかもしれない。
冴子が黙っていると、橋爪はこんな提案をしてきた。
「それでは、こういうのはどうでしょうか? 以前、別の夫婦を調査したときに聞いた話ですが、カップルセラピーというものをご存じですか?」
「夫婦とか恋人同士で一緒に受けるもの、ですよね。離婚危機にある夫婦が行くような」
橋爪が頷く。
「ええ、普通は離婚を回避したいときに行くものですが、パートナーに関して、これまで知らなかった発見ができることがあるんです。ずっと黙ってたけど、犬を飼いたかった、とか、毎日、同じベッドで一緒に寝るのはいやだったとか」
冴子は眉を顰めた。
「そんな些細なことを聞いて何か役に立ちますか?」
「ある人は、普段ご主人が仕事でどこへ行っているのかよくわからなかったんですけど、ご主人がいろいろ話しているうちに、昼間によく行く場所がわかったそうです。そこから浮気相手が見つかりました」
「……自分から情報を与えるなんて、ずいぶん間の抜けた夫ですね」
「セラピストにいろいろ訊かれて、つい話してしまうんでしょうね。奥さんからの質問なら身構えますが、違う角度から飛んでくる矢は意外と避けにくいものですよ」
「はあ……」
「ほかにも隠れて買っていたヨットのことがバレた人もいましたね。奥さんのほうの秘密がバレたという話は聞きませんけど、ご主人の秘密がわかったという人は意外に多いんです。男性は、そういった場所だと、サービス精神なのかわかりませんけど、何か話さなきゃいけないと思って、つい話し過ぎてボロが出るものなんです」
「……男って馬鹿ですね」冴子は低い声でいった。
橋爪はぎこちない笑みを浮かべて冴子を見た。
この続きは、書籍にてお楽しみください