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「どっちにするの?」
 小学三年生の鷹内いりは、ふたりの女の子を前にして戸惑っていた。
「はっきり決めて!」
 気の強いゆうちゃんが射矢を睨みつけていた。その隣にいる明日菜あすなちゃんは、何もいわずに射矢を見つめていた。両手をきつく胸の前で握り合わせ、目には涙さえ浮かべて懇願するかのように。
「どっちでもいい」射矢は、ふたりを見ながら、うんざりするように呟いた。
 小学校からの帰り道、どっちの子と帰るかなんて、正直どうでもよかった。どうしてふたりが、そんなことにこだわるのかもよくわからなかった。
 これまで小学校から帰るとき、優香ちゃんと帰るときは明日菜ちゃんはおらず、明日菜ちゃんと帰るときは優香ちゃんがいなかった。そういう謎の決まりでもあるのだろうかとずっと不思議に思っていた。それで、きょうは三人で一緒に帰ろうというと、どっちと一緒に帰るのか、きょうこそは、はっきり決めてほしいと、ふたりに詰め寄られたのだった。
「三人で一緒に帰ろうよ」射矢はいった。
「だから、それは駄目なんだって」優香ちゃんが足を地面に叩きつけるように一歩踏みだした。
「どうして?」
「男と女は、そういうものなの!」
「そういうものって?」射矢は小首を傾げた。
 理由もなく、「そういうもの」といわれても、わけがわからなかった。三人は近所で、帰る方向も同じなのだから、バラバラに帰る理由がない。
 優香ちゃんはさらに目を吊りあげて射矢を見ていた。これはよくない兆候だと射矢は思った。母が怒るときは、いつもこういう顔をしていたからだ。こんなときは、近くにいないほうがいい。
「じゃあ、僕はほかの女の子と一緒に帰るからいい」
 射矢は女の子と一緒に帰るのが好きだった。姉と妹がいるせいか、男の友達よりも女の子と話すほうが楽しいし気分がよくなる。
 射矢がふたりに背を向けてスキップしながら歩きだした瞬間、ふたりのうちどちらかに思いきり背中を蹴られた――。

「社長、大丈夫ですか?」
 運転席に座っている部下の吉崎よしざきがバックミラー越しに射矢に尋ねた。
 射矢は後部座席で寝てしまっていて、急ブレーキで身体がつんのめって、助手席のシートに頭をぶつけたのだった。
 ふたりは取引先の病院に向かっているところだった。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと疲れが溜まっててね」射矢は髪を手櫛で直しながら答えた。
 悪い夢を見ていたようだった。あれは、小学三年生のころのことだったろうか。
「きのうもサウナに行ってたんですか?」と吉崎。
「そうだな。きょうで四日続けて行くことになるかな」
「サウナに行くと疲れるんですか?」
「まあ、長く入っているとね」
「てっきり、サウナって疲れをとるために行ってるのかと思ってましたけど」
「仕事の付き合いで行ってるから、気疲れもあるんだよ」
「なるほど」
 吉崎は、生真面目な顔をして答えた。
 しばらく吉崎は運転を続け、
「着きました」といった。
〈コムバード〉の創業当時からシステム管理を請け負っている総合病院の前だった。
 社長である射矢は、仕事でこの病院に来たのではなく、愛人のひとりに会うために訪れたのだった。もちろん、その理由は吉崎には話さない。契約のことで院長と話がある、とだけ伝えてあった。
「ありがとう」と吉崎に告げ、射矢は車を降りた。

 計画は、あくまで計画であって、予定どおりに進むとはかぎらない。
 むしろ、予定外で進行させなければならないことのほうが遥かに多かった。それは仕事でも私生活でも同じだった。
 射矢は、ひとつの組織、あるいは団体で愛人はひとりだけと決めていたが、この病院ではその原則を破っていた。予定の枠を超過していたのだ。しかもふたりも。
 最初は院長だけだった。
 愛人関係になったのは三ヶ月ほど前のことだ。その日、別のIT企業の経営者が主催するパーティーがあり、そこでこの病院の院長と懇意になった。
 以前からこの女性院長のことは知っていた。自分の会社と契約している病院で、美人の院長がいると評判だったからだ。
 そのパーティーで院長と話していると、
「ここから抜けだして飲みなおしませんか?」と誘われた。
 射矢に異存はなく、むしろ望むところだった。
 子供のころから、異常に女性から好かれた。どうしてそうなるのかはわからなかったが、自分には、何かしら女性を惹きつけるフェロモンでも出ているのかもしれないとぼんやり考えていた。ほんとうにそうなのか本格的に調べるならどこかの研究所で検査してもらうしかないだろうが――検査してわかることでもない気もするが――そこまでして原因を知りたいとも思わなかった。ただ結果さえわかっていればよかった。父親も祖父もよく女性にモテたらしいから遺伝の可能性もある。
 それでも、結婚してからはどれだけ女性に誘われようともすべて断っていた。倫理的によくないと思っていたからだ。
 しかし、二年前、ある出来事が起こってから、その制限を解除することにした。いまは来る者は拒まない。
 その日、射矢と女性院長はバーで、互いの会社のことを少し話し、趣味と政治のことも少し話し、それからホテルへ向かった。ふたりとも早くそういう関係になりたかったが――彼女はベッドの上でそう語った――バーで時間を潰したのは、相手に対しあまりにも性急だと思われたくないための儀式に過ぎなかった。
 その数日後、院長を迎えに行くために病院を訪れて、院内システムエンジニアの女性と知り合った。射矢としては、院長という愛人のいる病院で、ほかの女性と親しくなるような状況にはなりたくなかったが、その小柄な女性は、射矢の信念を揺るがせるほどに魅力的だった。
 このときは射矢のほうから女性を食事に誘った。「来る者は拒まず」と合わせて、「チャンスは逃さない」も射矢のモットーだった。
 その小柄な女性と肉体関係になったのは、三度目のデートのときだった。
 その病院に勤める看護師と愛人関係になったのは、さらにその一ヶ月後のことだ。友人の紹介で知り合った女性だった。射矢は自身のネットワークを使って愛人になりそうな女性を紹介してほしいと友人に伝えていたのだが、まさか、その女性がその病院に勤めているとは思ってもみなかった。ホテルでそういう関係になったあとで、その病院の看護師だとわかったのだった。
 こうして、この病院に、院長、システムエンジニア、看護師の三人の愛人がいることになった。
 平和裏にことを進めるためにも、この関係がバレないようにしなければならない。
 足早に廊下を進んでいく。
 射矢は、いつもベッドの上では、自分のことは二の次におき、相手を喜ばせることに全力を尽くした。もちろん、射矢もその場の官能に酔いしれる。普段はクールな表情を装っているが、自分が喜んでいる姿を見せることで、相手が喜ぶことを知っているからだ。射矢は相手が喜ぶことならベッドの上ではなんでもした。女たちの相談に乗ることもあれば愚痴を聞くこともある。その際、けっしてアドバイスや忠告はしない。完璧な聞き役に徹する。その分、ベッドの上で献身的になるだけだ。射矢は、できるかぎり多くの女性を喜ばせることこそが自分の使命だと信じていた。
 ――女性たちが喜んでくれさえすればいい。
 女性との情事は、射矢にとってただの欲望の行為ではなかった。
 院内図を頭に思い浮かべながら、残りのふたりに出会わないように慎重に経路を確認しつつ進んだ。

 

『妻が夫を完全犯罪で殺す方法(あるいはその逆)』は全4回で連日公開予定