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 射矢が浮気をはじめたのは二年前のことだった。ある経営セミナーに参加していたとき、突然、雷に打たれたように、いま自分のするべきことがわかったのだ。
 それが浮気だった。
 セミナーはいつものようにつまらなく退屈だった。仕事の一環で仕方なく参加しただけだ。
 こういうセミナーの講師は誰しも、どこかで聞いたことがあるようなことをまわりくどくのたまい、一昨日知ったばかりのような妙なカタカナ用語をこれ見よがしに使い、外国で――とくにアメリカで流行ったことが善なり、みたいな考え方をする者ばかりだった。
 休憩のあいだに、射矢は、参加していたひとりと仕事のアポイントをとりつけ、このセミナーに来た目的を果たしていた。こうなると、もはやこのセミナーに用はなかった。あとは時間が過ぎるのを待つばかりだ。
 目を開けたまま寝られるだろうか、と考えていたとき、ホワイトボードに、「マズローの欲求五段階説」という言葉が映しだされた。
 講師が説明している。これは、アメリカの心理学者、アブラハム・マズローなる人物が半世紀ほど前に提唱した理論なのだそうだ。
「皆さんは経営者の方ばかりだと思いますが、いまご自身がどの段階にいるか考えてみてください。しっかりと自分の位置を理解し、次の欲求を満たすように努力することで、より高次の自分を達成することができます」
 何が「高次の自分」だ、と思いながら、射矢はぼんやりとした目つきでスクリーンを眺めた。

 ●第一段階……生理的欲求
 ●第二段階……安全欲求
 ●第三段階……社会的欲求
 ●第四段階……承認欲求
 ●第五段階……自己実現欲求

 五つの段階を順番に見ていき、射矢は、自分はいまどの段階にいるだろうと考えた。スクリーンを見つめ、しばらく考え続けたが、答えは見つからなかった。
 どこにも自分はあてはまらないのだ。
 会社を興して一〇年、結婚して五年。仕事も家庭もどちらにも不満はない。むしろ、どちらも自分が想像したより、ずっとうまくいっている。子供はいなかったが、欲しいとも思わなかった。それは妻も同じだ。一度、夫婦でそういう話題になったとき、いまはふたりとも仕事が順調だから仕事に集中したいよね、という話になった。いつも気の合う妻だった。
 その妻とは大学時代に出会った。
 学生時代も常に女性から、いい寄られていた射矢だったが、妻ははじめてといっていいほど射矢に関心を示さない女性だった。
 就職活動をちょうどはじめたころだった。ひとりの女友達から大学で料理をつくるから試食してほしいと頼まれて、その教室へ行くと――料理サークルの教室だ――ひとりの生真面目そうな女性が熱心に料理している姿があった。
 射矢は試食役として何人かの料理を食べさせられたが、その生真面目そうな女性の料理だけは別格だった。味が細やかで細部にまで神経が行きわたり、かつ、ここぞというところには大胆な味付けが施され、想像力豊かで驚きのある料理だった。てっきりお遊び程度のサークルだと思っていたので、その料理の本格さに驚いた。
 射矢が料理の意見を述べると、生真面目そうな女性だけは真剣な表情で射矢の意見を聞いていた。ほかの女性たちは皆、射矢の連絡先を聞きたがったが、その生真面目そうな女性だけは、追求するようにさらに料理の意見を求めた。彼女は、これほど完璧な料理がつくれるにもかかわらず、現状に満足せず、さらに上を目指していたのだ。
 射矢は自分に一切の関心を寄せず、向上心豊かな、この女性を驚きとともに賞賛の目で見つめた。
 ――素晴らしい。
 彼女と一緒なら、彼女の向上心に刺激を受けつつ、自分の好きなことに集中できると思ったのだ。そのころの射矢はビジネスの世界で成功したいと願っていたが、いい寄ってくる数多くの女性たちの対応に悩ませられていた。彼女らを足蹴にするのは心苦しいし、かといって全員相手にできるはずもない。
 誰かと真剣に付き合っているとわかれば――たとえそれが偽装だとしても――いい寄ってくる女たちは減るのではないだろうかと考えたのだ。
 その次の日から射矢は彼女にアプローチをはじめた。最初はまるで相手にされなかったが――料理の味見役だけは何度もさせられた――三ヶ月後にようやくデートにこぎつけることができた。あるレストランの味を知るためという口実つきだったが気にしなかった。そこで射矢はいかに君が素晴らしいかということを熱弁した。そのときも彼女はあまり気乗りしない様子だったが、そういうことを何度か繰り返していくうちに少しずつ心が開きはじめ、その半年後に彼女と付き合うようになったのだった。
 付き合いはじめた直後に起こした仕事が成功し、結婚してからも、彼女は完璧だった。ベッドの上での相性もよく、性生活も申し分ない。
 というわけで、射矢は私生活にもビジネスにも順風満帆な生活を送っているのだった。
 しかし、五段階のどの欲求も感じていないとすると、はたして自分はこれから何を欲して生きればいいのだろうか?
 講師が話を続けていた。
「マズローは晩年、この五段階の欲求がすべて満たされると、今度は自己を超越した欲求を持つようになると語っています。自分の能力を理解し、惜しみなく使い、見返りを求めず、他者を喜ばせることを追求する欲求です。いいかえれば、自分がこの世界に生まれてきた意味を探求する行為とでもいいましょうか。この欲求を満たすことができれば最上の喜びを得ることができます。しかし、この欲求を感じるのは、人類の二パーセントにも満たないとされています。これが第六段階の欲求です」
 ――自分がこの世界に生まれてきた意味を探求する行為……。
 何かが心に響くのを感じた。
 自分の能力を理解し、惜しみなく使い……。
 射矢は、自分に、あまり人に誇れるような能力がないことを知っていた。あるとすれば、異常に女性に好かれることぐらいだ。だが、この能力を惜しみなく使おうと思ったことはない。
 しかし、このまま自分の能力を埋もれさせて、一生を終えてもいいものだろうか? 女性に好かれる能力も年々衰えていくに違いない。
 射矢には、好きなタイプの女性というものがないことも自覚していた。友人たちが、好きな女性のタイプについて話すのをいつも不思議に思いながら聞いていた。射矢は、どんな女性も等しく好きになれる。
 よく考えれば、結婚したからといって、どうしてほかの女性を愛してはいけないのだろうか?
 学生時代にはなかったが、いまの自分には時間的余裕も経済的余裕もある。
 会社は安定し、とくに昨年ヘッドハンティングで入社した、副社長の柿沢かきざわあきは、有能すぎるほど有能で射矢が何もせずとも会社の業績はあがり続けていた。
 ――自分の能力を惜しみなく使い、見返りを求めず、他者を喜ばせることを追求する欲求……。
 人類の二パーセント……。
 射矢は、ここ数年感じたことのない興奮が自分のなかに湧きあがっていることに気がついた。
 やるべきかもしれない。
 二年前の射矢はそう思った。




 マーサ・モンゴメリー曰く、『願望は紙に書きだすこと』。
 冴子は図書館に来ていた。隣の市の図書館だ。中学生や高校生たちが熱心に自習するなかに交じって、ノートを広げた。
 どうやって夫に罪を償わせようか考えていたのだ。殺してやりたい、というのが正直な気持ちだったが、はたしてそんなことが実現可能なのか考えるためにここへ来たのだった。それでまずはノートの上で書いてみることにした。子供のころから、ノートに計画を書くのが癖だった。
 ノートの題名は、
〈妻が夫を完全犯罪で殺す方法〉
 小説のていで、シミュレーションしてみるのだ。
 さて、いかにして、あの前代未聞の浮気男を殺すべきか。
 物語のなかでは、妻は刑を免れなくてはならなかった。これは絶対条件だ。無差別不倫夫を殺害して、貞淑な妻が刑に服するのでは割に合わない。妻は完全犯罪で夫を殺害する。そのあと、別の素敵な男性――けっして浮気をしない――と結ばれ幸せに暮らしましたとさ。END。
 こうなるべきだ。
 しかし、現代のような科学捜査の進んだ社会で完全犯罪の殺人を成功させることは、はたして可能だろうか?
 しばし、図書館の静寂のなかで考えた。
 実際には発覚していないだけで、じつは相当な数の完全犯罪の殺人があるのではないだろうか? 完全犯罪はけっして統計に表れることはないのだから。
 殺人事件ではなく、事故、自殺、失踪と思われているなかに完全犯罪で殺された者がいる可能性はありそうだ。ということは、事故、自殺、失踪と思われるような殺し方ができればいいということになる。
 ノートに向かうと、頭に浮かぶ言葉を次々とメモしていった。交通事故死、窒息死、転落死、溺死、中毒死……。事故死のデータが載っている文献も探して読んだ。
 いまは、計画を練っている段階だ。思いついたことをすべて書いていこう。殺害方法はまだ思いつかなかったが、夫が苦悶の表情で妻を見あげる最後の場面だけは容易に想像できた。
 ノートにペンを走らせる。

「す、すまない……君という素晴らしい妻がありながら、僕はほんとうに馬鹿だった。馬鹿のなかの馬鹿だ。いや、僕の存在をいい表すのに馬鹿では足りない。僕はクズだ。クズちゅうのクズだ」
 イーサンはサーシャを見あげて、呻くように言葉を吐いた。
 サーシャは、汚らわしいものでも見るように、両手両足を縛られた夫を見おろし、その顔に唾を吐きかけた。
「そうね。あなたは、クズちゅうのクズね。あるいは、それ以下ね。アメーバみたいな単細胞生物よ。いや、アメーバでももったいないくらい。存在さえ許されないゴミよ」
 サーシャはもう一度、イーサンの顔にぺっと唾を吐きつけた。
 イーサンが、情けない顔をして泣きはじめた。
「うっ、うっ……すまない。だけど、僕は病気なんだ。ほら、プロゴルファーのタイガー・ウッズがいるだろ。彼と同じなんだ。セックス依存症なんだよ。それで苦しんでるんだ」
「病気? 急に都合のいいことを持ちださないでよね。ほんとうにそういう病気で苦しんでる人がいるのかもしれないけど、あなたの場合は違うでしょ。自分の欲望のままに妻を裏切ってるだけじゃないの。手当たり次第に次から次へと女に手を出して」
 イーサンがぶるぶると顔を振った。顔についたネバネバした唾も揺れている。
「違う。僕はほんとうに病気なんだ。だから、殺さないでくれ」
「こんなことになる前に、よく考えればよかったわね」
 イーサンは少し真面目な顔つきになって、いった。
「だけど、人って、最悪の事態にならないと学べないものじゃないか。そうだろ?」
「想像力があれば、わかるでしょ」
「僕にはないんだ。クズだから。でも、君だって、殺人罪で捕まるぞ。この日本で殺人を犯して、本気で逃げ切れるとでも思ってるのか? 想像力があるなら、それぐらいわかるだろ」

 冴子はペンを止めた。
 確かに。物語のなかのイーサンのいうとおりかもしれなかった。よほど上手く行動しなければ、夫を殺しても警察に捕まってしまう。
 まだ時間はある。じっくりとこの計画について考えよう。
 それからもしばらく、冴子は思いつくままノートに書きつけていった。

 

『妻が夫を完全犯罪で殺す方法(あるいはその逆)』は全4回で連日公開予定