第一章
1
すべてはリズムなんだと思う。
料理も、生き方も、何もかも。
今年、三三歳になる鷹内冴子は、このあたりで生き方を変えるべきかもしれないと思った。しかし、生き方は、ジューサーのようにボタンひとつで変えられるわけでも、ホイップクリームのように、手首の力加減だけで変えられるわけでもなかった。生き方を変えるには、もっと強力な力が必要になる。
『鷹内さんは、ずっと横浜にお住まいなんですか?』
パソコンのモニターのなかにいる雑誌記者が冴子に質問していた。オンライン会議アプリのズームをとおしてのインタビューだ。この記者の名前はなんといっただろうか? 思いだせなかった。どこか関西の地名と同じで、珍しいなと思ったことは覚えているのだが。
「そうです。生まれたときからずっと横浜です。いろいろな場所に住みたいと思うんですけど、仕事をしているとなかなか動けなくて」
記者の質問には、いつでもオートマティックに答えることができた。これまで何度も答えてきたからだ。記者たちの質問は似たり寄ったりで、ほとんど考える必要はなかった。笑顔さえ忘れなければいい。
『お料理に興味を持ちはじめたのはいつごろのことですか?』
「幼稚園に入ったころですね。母が忙しい人だったので、祖母と一緒にいることが多かったんですけど、祖母が料理の好きな人で、いつもママゴトの代わりに本物の包丁を持って一緒に料理していました」
記者に話す自分の生い立ちは、まったく正確というわけではなかった。そもそも、自分の過去を正確に話せる人がいるだろうか? どうしてもそれは歪んでしまう。
冴子の場合は、料理研究家として相応しいように歪んでいた。意図してそうしたわけではなかったが、話すたびに知らず歪んでいったのだった。インタビュアーが料理研究家っぽいエピソードを聞きたがっているのを肌で感じるからかもしれない。
あるエピソードでは必要以上に誇張されたり、あるエピソードでは、その出来事自体まるごとなくなったりした。そのほうが簡単だし、理解してもらいやすい。
ニュートンだって、ほんとうにリンゴが木から落ちるのを見たのか疑わしく思っている。万有引力を発見したエピソードとして、それが相応しいことは間違いないけれど。
ただ、冴子が子供のころから料理が好きだったのは事実だ。それこそ、もう夢中だった。家族や友人たちに無理やり食べさせては感想を聞きまくったものだ。
同じ材料でもつくり方次第で味は変わる。味も食感も無数にあった。つくればつくるほど奥が深い。失敗と成功の繰り返し。どうして失敗し、どうして成功したのかを追求しても、いつも答えは謎めいていてなかなか秘密を明かしてくれない。同じようにつくっても、ときおり何かの偶然が重なってうまくいくこともあれば、原因がわからないまま、まったく失敗することもある。ひとつわかっていることは、追い続けなければ秘密は暴けないということだ。
好奇心旺盛だった冴子は、本を読むことも好きで、小説家になりたいと思った時期もあったけれど、料理への興味が勝った。インタビューでは小説家になりたかったことを話すことはなかった。話がややこしくなる。シンプル・イズ・ベスト。“子供のころから料理好き”のほうが断然わかりやすい。
記者が大きめなノートを捲って質問項目を確認していた。最近では、タブレットみたいな、もっと便利なものがあるだろうに、古風に、ノートを使っているところに好感が持てた。
画面越しに、記者が熱心にノートを捲るのを見て、ふいに、冴子の脳裏に過去の映像が蘇った。
あれは、冴子が小学五年生のときのことだ。
「これは、何?」
母が怖い顔をしてノートを持ち、冴子を睨んでいた。母の隣には父が立っていた。場所は、二階の廊下で冴子の部屋の前だ。冴子はピンク色のパジャマを着ていた。
「……お話を書いたの」冴子は声を震わせながら答えた。
母が低い声で問う。
「お話って嘘でしょ。ここに、『友子ちゃん復習計画』って、ちゃんと書いてあるじゃない。復讐の字が間違ってるけど、あなた、友子ちゃんに何かするつもりだったんでしょ」
冴子は黙って母を見つめた。
「違うよ」冴子は答えた。
しかし、母のいうことは正しかった。冴子は、友子ちゃんに復讐するつもりだった。実際には、それは逆恨みでしかなかったが、冴子は「復讐」と呼びたかった。たとえ漢字は間違えたとしても。
その日、学校で席替えがあって、冴子の席は教室の一番前で、翔君の隣になった。それなのに、友子ちゃんが先生に、黒板が見えないから一番前にしてほしい、なんていったものだから、冴子は友子ちゃんと席を交換するはめになって、これから数ヶ月、翔君の隣で過ごせるんだと思ってわくわくしていた気持ちが一瞬にして萎んでしまった。
冴子は、友子ちゃんがわざとそういったのがわかっていた。翔君やほかの子たちは視力がよくないから、前の席から移ることがなくて、視力のいい冴子が友子ちゃんと替わらなければならないことを知っていたのだ。友子は、そういう狡賢い子だった。
冴子は一番うしろの席で、翔君と楽しそうに話している友子ちゃんを睨みながら、復讐計画を練った。家に帰ると、真っ先にそれを学習ノートに書き留めた。
「ここに一〇個、書いてあるけど、ほんとうにこんなことをするつもりだったの?」母が尋ねた。
冴子は、大きく首を振った。
「ただのお話のつもりだったの」もう一度、同じ説明を試みる。
母が次の攻撃に入る前に、父が割って入った。
「まあ、もういいじゃないか。冗談だったんだろ。冴子だって、ただのお話だっていってるし」
母が、きつい顔になって父を睨んだ。
「もしも、ほんとうに、こんなことをしたら、大事になるのよ」
母が開いて持っているノートを父は覗き見して、
「給食に唾を入れるなんて、可愛いもんじゃないか」
「全然可愛くなんかないわよ。『椅子の上に画鋲を置く』とか、『階段から突き落とす』なんていうのもあるのよ。この子はこういうところがあるのよ」
「想像するだけなら、いいんじゃないかな。実際にするわけじゃないんだし」
それから冴子のほうを向いて、
「そうだろ、冴子? 想像してたんだよな。大きくなったら、お話を書く人になりたいっていってたもんな」
冴子はこくんと頷いた。目に涙を溜めて父を見つめる。
父が冴子の涙に弱いことはわかっていた。
「ほら、もういいって」父が少し怒気を含んだ声で母にいった。「冴子を信じてやろうって」
母は、まだ納得がいかない顔をしていたが、「冴子、言葉には言霊ってものがあるのよ。ほんとうにそうなるのかもしれないの。だから、こんなことを書くのも駄目。わかった?」ときつくいいおいてから、ノートを持ったまま、階段をおりていった。
ノートを持っていかれても、頭のなかに計画は残っているから意味はないと思ったが、冴子は黙っていた。
『それでは、これでインタビューを終わります。本日はありがとうございました』
記者がそういったとき、ふいにインタビュアーの名前を思いだした。姫路さんだ。
対面で話すときは、相手の名前を話している途中で忘れることはなかったが、リモートだと、どこかいい加減な気持ちで臨んでしまうのかもしれなかった。
冴子は微笑んで、礼を告げた。笑顔を保ったままズームを切る。
こんなふうにクリックひとつで簡単に切り替えることができればいいのにと思った。リズムよく、カチカチと。
だけど、人生はそんな簡単にはいかない。とくに結婚は。
しかし、何か手を打たなければならないことだけは確かだった。早急かつ速やかに。しかも、強力な手を。
「三桁の可能性もありますね」
一ヶ月前のことだった。
橋爪という探偵は、しかつめらしい顔をして書類を冴子に手渡してきた。頬に傷のある暗い顔の男だった。年齢は四〇代だろうか。白いワイシャツの下の胸筋が盛りあがり、探偵というよりは格闘家のように見えた。胸のボタンはいまにも弾け飛びそうなほどだ。
冴子が探偵の言葉の意味をわかりかねて戸惑っていると、橋爪がしわがれた声で補足した。
「ご主人の浮気の数ですよ。あくまで推計ですけどね。ですが、このペースで――まあ、これが、いつからはじまったのかわかりませんけど、もしも、結婚当初からこんな感じだったとしたら、結婚して五年ですよね、確実に三桁には達しているだろうと思います」
渡された写真と、夫の行動が細かく記されたA4の用紙を見つめて、冴子は固まった。衝撃の内容だった。
――まさか、二ヶ月で一二人と……。
友人から、夫が乗っている黄色い限定車のジープにあなたと違う女性と一緒に乗っているのを郊外で見た、と聞いたときは、きっと何かの見間違いだろうと思った。
その時間、夫は仕事中のはずだった。同い年の夫はIT企業〈コムバード〉を経営している。
友人は、一度調べてみたら、と、この探偵社を勧めてきた。いまキャンペーン中で調査料が半額になるからといって。
そもそも、探偵の調査料がどれくらいかかるのか相場も知らなかったから、半額という言葉に惹かれることはなかったが、友人が、「じつはね、いまこの探偵社の社長と付き合っていて、彼に仕事を紹介したいの。ね、協力して」と手を合わせて頼んできて、仕方なく調査を依頼しただけだった。
軽い気持ちだった。夫を疑っていたわけではない。その友人は、直前に男にひどいふられ方をして傷ついていて、彼女の新しい恋を応援したい気持ちのほうが強かった。
――それなのに……。
三桁?
調査によると、夫はこの二ヶ月で一二人の女性と肉体関係を持っていたらしい。橋爪は、過去にいろいろな人の調査をしましたけど、これは新記録です、と感嘆の声を漏らした。
いまわかっている一二人の愛人のうち、四人は「継続」で、六人は「新規」、二人とは「解約」したとのことだ。まるでどこかの営業マンの今月の成績について話しているかのようにも聞こえたが、これはまぎれもなく、夫の不貞行為の話だった。書類には写真が添付されてあり、そこには夫と女性がしっかり写っていた。
冴子は、もう何がなんだかわからなくなってしまった。これはほんとうに現実の話なのだろうか? 知らないあいだに別世界に迷いこんでしまったかのようだ。
「身近な人でも気づかない裏の顔を持つ人はいるものです。巧妙にその姿を隠して生きているんです。それにしても、ご主人は、ある意味特異な方ですね」橋爪が話す。
「特異? それは、どういう意味ですか?」
「異常にモテる、といったらいいでしょうか。彼からではなく、まるで女性のほうから近づいていっているようにも見えましたね。男前だけど、少し頼りなさげな、あの垂れ目がいいんですかね。それに、彼は相手を選ばない。といいますか、女性の好みの幅が広いですよね。まさに、来る者は拒まずといった感じで、さすがに未成年に手を出すようなことはしていませんけど、それ以外は、女性ならば誰でも――」
そこから先は、橋爪の言葉がよく頭に入らなかった。
女性なら誰でも……。あの男は、妻である私のことをどう思っているのだろうか?
確かに、夫は学生時代、かなりモテるほうではあった。付き合っているあいだも何人かからアプローチを受けていたことは知っていた。結婚してからも、同じような話を耳にしたことがある。しかし、夫は、冴子の知っているかぎりすべて断っていた。むしろ真面目で一途な男だとばかり思っていたのだが……。
橋爪の話では、夫はほかの女と会っているときも結婚指輪を外していないらしかった。その点でも珍しいですね、と探偵は話していた。別れるときも、じつにあっさり友好的に別れるのだそうだ。まるで天気の話でもしているみたいに。
結婚していることを隠していないとすると、相手の女が悪いのか? いや、どちらも悪いに決まっている。
「これだけ多くの愛人がいても、誰ひとりあなたにそのことを告げたりしないのもすごいことですよ。どういう別れ方をすればそんなことができるのか。奥さんは、ほんとうにいままでまったく気づかなかったんですか?」
まるで、冴子が鈍感でもあるかのような口ぶりだったが、この状況ではそれも仕方ない気がした。三桁にも達する浮気をされながら、まったく気がつかなかったなんて、自分でも驚いてしまう。
だけど、ほんとうに、まったくそんな素振りはなかったのだ。
探偵は、偽装の仕方もじつに上手い、と語った。夫は何着も同じ服を会社に用意していて、浮気のたびに着替えるらしい。そして、かならず浮気をした日はサウナに寄って帰るとのこと。
「サウナに行った日は間違いないですね」探偵は断言した。
浮気相手は、クライアントの会社の受付に、自分の会社を清掃している女性に、行きつけの喫茶店のウェイトレスに、近所の主婦に、スポーツジムのインストラクターにと職業も年齢もバラバラだった。
橋爪の話を聞いていると、吐き気がしてきた。眩暈がして、動悸も激しくなってくる。いくら傷心の友人の頼みだからといって、こんな調査を依頼しなければよかったと思った。
が、すぐに思い直した。こんなことを知らないまま結婚生活を続けるよりはいいに決まっている。
この、悪魔のような浮気男の正体を知ることができたのだから。あの男は、けっしてしてはいけないことをしたのだ。
冴子は、浮気する男は最低最悪だ、と常々思ってきた。それが、まさか自分の身に起こるなんて予想もしていなかったが……。
「どうしますか? まだ調査を続けますか? もっと浮気相手の数は増えると思いますが」
冴子は、橋爪を見ながら答えた。
「ええ、ぜひお願いします」
声が震えているのが自分でもわかった。この震えは、夫の実態を知った衝撃からだけではなかった。どうやって夫にこの復讐をしてやろうかと考えて、武者震いをしたせいでもあった。
三桁の浮気なんて完全に妻を馬鹿にしている。どうして妻を裏切るような真似を平気でするのか? 相手が傷つくのがわからないのだろうか? 本能のままに生きているのだとしたら、それはもはや人間ではない。少なくとも人間として文明社会のなかで生きる資格はない。
怒りで全身が震えてくる。
――冴子、落ち着くんだ。
自分にいい聞かせる。
敬愛するアメリカの料理研究家、マーサ・モンゴメリーは自著でこう語っている。
『重要な行動を起こす前には、かならず一拍置くこと』
一拍。
わかっている。一拍置いたのちは、攻撃あるのみだ。
『妻が夫を完全犯罪で殺す方法(あるいはその逆)』は全4回で連日公開予定