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15 四日目 朝(承前)


 後藤は息を呑んで足を止め、それが本物なのかどうか考える。これまで自分が生きて来た常識に照らし合わせ、本物であるはずがないと考える。金子だってつい先ほど、この国でのピストル自殺の困難さについて嘆いていたではないか。
 しかし世界にはインターネットがある。インターネットはあらゆることを可能にした。それが呪いなのか、祝福なのか、そのどちらでもないただの事象なのかどうかはわからない。
「そんなもの持っていたなら」
 後藤はどうにか口を開いた。
「最初の日に、皆で集まったときに全員殺せたはずじゃないか。テーブルについて自己紹介をしてる端から、順番に撃っていけばよかったんだ。そうしなかったということは、それは本物じゃない」
「私は、皆が呪いから解き放たれるに値する人間かどうか知りたかったの」
 黒い銃身を両手で包むように構え、金子は言った。
「それに弾には限りがある。あんまり練習もできなかったから、最初の誰かが撃たれて走って逃げていくひとに当てるのは難しいと思って」
 金子は安全装置を外し、引き金に指をかけた。一連の操作を、後藤は幻を見るような気分で眺めた。気づいたときには銃口が、後藤の胸の位置にまっすぐ向けられている。「でもこの距離なら外さない」という金子の声が、やたら遠くに聞こえる。
 先ほどの不破と同じように、後藤の視野も急速に狭まりつつあった。銃を持つ金子の姿しか見えない。それでも、もしも下方にいる不破がその銃を取り上げようと試みたところで、到底間に合わない距離にいるだろうことは気配でわかった。不破が銃身を掴むより先に、金子は引き金を引くだろう。
「後藤くんが脅威だからとか、憎いから撃つわけじゃないよ」
 金子は言った。
「この呪われた世界から救うために撃つの。そうしなかったら、君はこれから喪失の痛みに苦しむことになるでしょ。大好きな恋人を失った痛みに」
 ミア。

 彼女は言った。
 自分に兄はいない、と。
「私なの」と、涙の溜まった目でつぶやいた。
「同性愛者であることを打ち明けて、両親に勘当されたのは、私」
 理解するのに数秒かかった。
 彼女に兄はいない。
 兄は、愛する両親との別離という過去の痛みを後藤に伝えるために作り出した、架空の人物。
 彼女の兄は存在しない。
 田中と同じだ。
「そ……」
 そんなわけない、という言葉は、喉の奥に張り付いた。仰向けになった彼女の目からこぼれた涙が、すっと横に流れてそのこめかみを濡らした。
「でも、ミアは、俺を──」
「愛していると思った」
 彼女は言った。
「さっき話したことはぜんぶ本当。初めて会った時から、ずっと惹かれてた。望くんなら愛せると思った。私……そしたら、もしそうなれたら、両親とも、また一緒に過ごせるんじゃないかと思って」
 我が子よりも教えを選んだ両親。見限ったつもりでいた両親。それでも、愛していたころの記憶を消すことはできず、希望を持ってしまった。
「望くんのこと、愛している」
 涙の軌跡を、また新たな水滴が通る。
「でもそれが、望くんが私に対して抱いているのと同じ気持ちなのかどうか、わからない。ずっとわからなくて……きちんとわかるときがきたら、打ち明けようと思ったの。でも、もしかしたら……ずっとわからないままなんじゃないかって思えてきて。わからないということは……そういうことだったのかなって、思えてしまって」
「ミア」
「隠すつもりじゃなかったの。騙すつもりじゃなかった。でも、両親のことを望くんに話すとき、どうしても言えなくて。私、嘘をついてしまった」
 後藤は痺れたような頭で、彼女の告白について、自分がどう感じているのか考えた。考え、考え続け、しかし答えは出なかった。彼女の目の横をさらに何滴かの涙が流れ落ちた後で、後藤は身体を起こした。自分の気持ちがわからなかった。彼女を嘘つきと罵りたいのか、それでも愛していると抱きしめたいのか、それすらも判別がつかなかった。ただひとつ、はっきりしていることがあった。
「俺は別の場所で寝るよ」
 彼女と同じ場所では眠れない。今は彼女の隣にいたくない。
 立ち上がった後藤を追うように、ミアが上体を起こして後藤を見上げた。「望くん」と呼ぶ声を背中に聞きながら、後藤はふたりで積み上げたバリケードをひとつひとつ降ろした。
「俺が出て行ったら、また同じように積むんだ。明日の朝まで、誰も入ってこられないように」
「望くんはどうするの? だって、外には田中さんがいるのに」
 田中。先ほどまで強く信じられていたその存在が、急にこの世から消えてしまったように感じた。ミアに愛されているという気持ちと共に。
「俺は、もうひとつ残ったドームに行くよ」
「望くん」
「明日……迎えの船が来る。そのときにまた話そう」
 後藤は彼女の鼻先で扉を閉めた。
 一度も振り返らずにその場を離れた。
 新藤の死んでいるドームの横を戻り、唯一空いているドームの中にひとり、灯りもつけずに横たわった。満点の星空を見上げながら、ここは宇宙船のなかでも世界の果てにひとつ残された最後の孤島でもなく、岩手県沖に位置する、リゾート開発が断念されて放置された無人島なのだと思い知った。

 ミア。
 あれが最後の別れになった。
 罵ることも、受け止めることももうできない。
 しかし、死後の世界というものがあるのだろうか?
 自分も死ねば、再び彼女の美しい声を聞き、笑顔を見ることが叶うだろうか?
 金子の言う救済を受け入れれば。
 視野はどんどん狭くなる。
 後藤の目には、銃を構えた金子の手、そして銃口の果てしなく暗い穴しか映らなくなる。
 自分は死ぬ。
 それでいいのか?
 わからない。
 でも、死にたくない。
 俺はもういちど──父さんに会いたい。
 その確かな望みが体中を駆け抜けた瞬間、後藤は口の中でつぶやいた。

「神様」

 金子の眉尻が憐れむように下がった。人差し指に力を込める筋肉の動きが、はっきりと見て取れた。
 そのとき、上空からひとつの影が降りた。
 金子の持つ銃の背をしっかりと掴んだのは、鋭いかぎ爪だった。
 灰色の翼が広がる。
 するどく短い、高い鳴き声が上がる。
 それは一羽の鳥だった。
 カラスほどの大きさの、しかしカラスよりも長い翼を持ち、羽の色は灰色で、くちばしは白い。初めて見る鳥だった。なぜ鳥が突然この場に舞い降りたのか、その理由はわからない。カラスのように、光るものを集めるよう細胞に記憶を持つ生き物だったのかもしれない。陽光を浴びて、銃身は鈍い光を放っていた。
 パン、と軽い破裂音が響いた。
 鳥に驚いた金子が、はずみで引き金を引いたのだった。
 後藤は右耳のあたりに熱と衝撃を感じ、しかしそれでも一歩前に足を踏み出し、斧を振り上げた。
 鳥は銃声に反応し、素早く空へと飛び去った。
 あっけにとられた顔をしていた金子が、再び後藤に狙いを定める。
 しかしそのときにはもう、後藤は斧を振り下ろしていた。銃を持った金子の右手。骨の折れる音がした。
 血しぶきが上がった。金子は銃を取り落とし、叫びとも呻きともつかない声を上げた。左手で右手首を強くつかむ。右手は切断されてはいなかった。しかし、手首とひじの間、関節ではあり得ないはずの箇所が曲がり、手の先がぶらりと垂れ下がっている。あっという間に両手が赤に染まる。
 後藤は取り落とされた銃を足で蹴った。銃は地面をすべり、不破の足元で止まった。後藤は自分の靴にも血が滴り落ちるのを見て、血の出どころが金子の右手だけではないと悟った。右耳が燃えるように熱い。頬やあごを伝った血がシャツの襟を濡らしているのがわかった。耳がどうなっているのか、こめかみや、頭蓋骨は無事なのか、触れて確かめる勇気はなかった。
 頭上で再び鳥が鳴いた。
 姿は見えない。
 ただその鳴き声は、いつか天羽がひばりと呼んだ、名前のわからない鳥のものだった。
 後藤はアドレナリンの駆け巡る脳内で、神様、とつぶやく。
 視線を戻すと、不破が金子に銃口を向けていた。
「撃って」と金子は言った。
「撃つな」と後藤は言った。
「撃たなくても、きっと出血で死ぬ。そうじゃなくても、もうなにもできない。君が手を汚すことなんてない」
 不破は荒い息を吐きながら、銃を下ろした。「痛い」と金子が呻いた。
「どうしてこんなに痛い必要があるの? この身体もやっぱり呪いだよ。怪我や病を知覚するのに、痛覚がこんなに鋭敏である必要はないのに。こんなの、私たちを、苦しめるための機能としか思えない。私たちは生まれながらにして、拷問を受ける機能の備わった肉体を押し付けられてる」
 金子は力ない声でわめき続けていた。不破はぐらりとよろめき、地面に膝をついた。その頭の包帯には、再び血が滲み始めている。傷口が開いたのだろう。後藤もその場に尻をついて座り込んだ。右耳からの出血は止まらない。
 三人が全員、血を流していた。
 全員が血にまみれ、血だまりの中に座り込んでいる。
 不破は蒼白で、目だけが異様に血走っている。金子はまだぶつぶつと、ひたすらに苦痛を訴え死への渇望をつぶやいている。
 地獄のようだな、と後藤は思った。
 空は晴れ渡り、鳥が鳴いている。心地いい海風が吹いている。
 天国のようだな、とも思った。
 そのどちらでもない、あるいはどちらでもある島で、三人は荒い呼吸を繰り返した。
 後藤は遠く水平線の方を見やり、煌めく海を眺めた。
 その上に、小さな船が一隻。
 白い航跡波を描きながら、ゆっくりとこちらに向かっていた。

(了)