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13 四日目 朝

 不破翔は身体を低くし、茂みの中を這っていた。
 朝露に濡れた葉を両手でかき分け、ふいに現れる尖った枝に頬を擦られながら、できるだけ音をたてないようにと神経をとがらせながら進む。木々の合間から覗いていた、燃えるような朝焼けはいつしか薄れ、今はひたすらに澄んだ水色の空が少しずつ明るさを増している。雲一つない、美しい朝だった。
 突然、近くの低木で聞き慣れない声の鳥が鳴いた。不破はびくりと身体を跳ね上げ、うっかりしりもちをつく。途端に後頭部で痛みが跳ねた。そっと手を伸ばし、二日前から巻かれたままの包帯に触れる。痛みが引くのを待ってから、再び移動を始めた。
 姿勢を低く保っているのは、頭の怪我に響かないように──という理由ももちろんあった。しかしそれ以上に、彼は怯えていた。せっかく取り留めたこの命が、再びあの恐ろしい人間の──犯人の目に晒されることを。
 昨夜までは、ヴィラの自室のバスルームに身を潜め、息を殺してじっとしていた。頭の痛みと空腹と疲れに朦朧としながら、鎮痛剤を飲んで途切れ途切れに眠った。夜中、ひとの気配がなくなってから一度寝室に出て、欠けていく月を窓から眺めた。もう一度眠り、日の出前に目覚めたとき、じりじりと移動を始めた。朝一番にやって来る、迎えの船に乗るためだ。
 帰りたい、と強く思った。
 絶対に、生きて帰りたい。
 船に乗り遅れてしまったら、永遠にこの島から出られない。そんな恐怖が背中を押した。不破はずり落ちたリュックを背負い直し、周囲の物音に気を配りながらも重い足を交互に前に出す。先ほど、グランピングドームの近くを通りかかった。遠目に覗いたドームの中に、ひとが一人倒れている様子がうかがえたが、不破は近づきもしなかった。今この島に、いったい何人の人間が生き残っているのか、彼は知らない。昨日までは感じられたひとの気配、足音や話し声も夜にはすっかり聞こえなくなった。あるいはもう、自分しか残っていないのかもしれない。ひとりきりで地面を這っていると、世界にはもう自分しかいないのではと思わせるような孤独がたびたび訪れた。
 記憶の中の地図を頼りに、不破は移動を続けた。耳を澄ませ、ざわざわという葉擦れの音の中に、穏やかな波の音を聞き分ける。ゆるやかな下り坂を進んだ数メートル先に、木々が途切れているのを見て取った。そろそろと首を伸ばすと、朝日に白く煌めく海が覗けて、不破は足を速めた。
 舗装された歩道が開けている数歩手前まで来た。見覚えのある景色に胸が高鳴る。この急な勾配の坂道を、最初の日に皆で連れ立って登ったのだ。視線を下げると、入り江の中に造られた桟橋が見えた。あそこだ。船がやって来るのが見えたら、すぐにあそこまで駆け下りて助けを求める。島を出て、二度と戻らない。今はとにかく、安全な自室でぐっすり眠りたい。眠る前に、もちろん母親に連絡を取る。それから病院に行って、美味しくて量のある食事をとって、無害な人々の往来を眺め、時間を気にせずのんびり動画でも眺める。
 そういう日常のあれこれのために、お金が欲しかった。
 安全で快適で、誰からも傷つけられることのない毎日のために。
 そんな幸福を、自分の大切なひとにも分け与えるために。
「不破くん」
 びくりと肩が跳ね、息が止まった。
 包帯を巻いた自分の白い頭が、藪から完全に突き出していることに気づいた。
 ゆっくりと振り返る。
 桟橋へと下る舗装路の上、金子千香が立っていた。
「不破くん、無事だったんだ」
 そう口にしながら、彼女は軽い足取りで坂を下りてくる。
 不破は軽いショック状態に陥り、リュックのサイドポケットからサバイバルナイフを取り出し、身体の前で構えた。島に来るにあたり持ってきていた私物だった。刃渡りはほんの七センチほど。
 金子は口元に小さく笑みを浮かべて、「落ち着いて」と足を止めた。
「私も君と同じだよ。死んだふりをして逃げ延びたの」
「死んだ……ふりを?」
「そう。あのまま皆と一緒にいたら殺されちゃうと思ったから。それで正解だったよ。今この島で生き残っているのは、私と君のふたりだけ」
 ヴィラの自室で息を潜めていたとき、動揺したように金子の名前を呼ぶ後藤や天羽の声を聞いた。少しして、なにか諍い合うような険のある声でのやり取りが下階から響いてきた。その後、金子が死んだという確かな一報を聞いた。しかし、生き延びていた? 今こうして、目の前にいる。他のひとたちは……皆死んだ?
 不破は掠れた声で、「犯人は……」と呟いた。
「犯人? 犯人は自殺したよ。葛西さん。すべてが彼女の計画だったの。皆を殺して、自分も死んだ。彼女はなにか、私たちには理解できない妄想にでも取りつかれていたんだと思う」
 不破は答えなかった。
 金子の両手が不自然に背中に回されていることに気づいていた。
 ふたりの距離は五メートルほど。向こうの方が高い位置を取り、いつでも攻撃に入れる直立の姿勢だった。自分は膝立ちで、重いリュックを背負っている。頭の怪我もあり、立ち上がるのにも数秒を要するだろう。逃げ切れるか? 船が来るまでの間、逃げ続けることができる? しかしどのみち、船に乗るためには入り江に向かう必要がある──。
 じっと睨みつける不破の視線を受けて、金子は肩をすくめた。
「信じてもらえない?」
 そして彼女は、あっさりと両手を前に出した。
 その手には、乾いた血のこびりついた小ぶりな斧が握られていた。
「天羽くんは信じてくれたんだけど……。私が用意してた言い訳を披露する間もなく、すぐに扉を開けてくれて。逆にこっちがびっくりしちゃったよね。あの子はほんとに、いい後輩。私と後藤くんのこと、まるで疑いもしていないんだから」
 金子の話を、不破はほとんど聞いていなかった。赤黒く染まった斧の刃に、目が釘付けになっていた。首を切断されていた塙の死体が脳内にフラッシュバックする。本能的な恐怖に、両足から力が抜けた。
「だから天羽くんは、わけがわからないまま死ねたと思う。ごめんね、君もそういうふうにしたかったんだけど。君が今までどこにいて、なにをどこまで知ってるのかぜんぜんわかんないから……嘘つくのも難しくて」
 金子は再び坂を下り始めた。不破は手にしたナイフを持ち上げてみるものの、その手にまったく力が入らないことを自覚した。立ち上がろうにも、萎えた足は一ミリも動かせない。そんな彼の様子を見て、金子はいかにも気の毒そうに息をついた。
「そもそも君が生きてるなんて。びっくりしちゃったよ。死体が消えたって聞いて」
 金子は左耳を指さした。そちら側の耳にだけ、白いイヤホンが差さっている。なにをどう聞いたのか、そのしぐさだけでは不破にはさっぱり理解できなかった。
「最初は本当に、私以外の誰かが死体を移動させたのかなって思っちゃった。そんな意味わかんないこと誰がしたんだろうって、ちょっと混乱しちゃったよ。でも、新藤さん、あのひと、本当にヤブ医者だったんだね。死亡の確認もまともにできないレベルだなんて思わなかった」
 新藤、の名前に、パニックに陥りかけていた不破の頭が反応した。手足には依然として力が入らないまま、それでも「違います」とはっきり答える。
「新藤さんは、わざと」
「わざと?」
「嘘をついたんです。僕が死んだって」
 二日前の夜。経験したことのない激しい頭痛に苛まれながら目を開いた瞬間、新藤と目が合った。自分は仰向けに倒れ、頭のすぐそばに新藤が膝をついていた。状況が呑み込めず動揺する不破の目を、新藤は真っすぐに覗き込んだ。止血を施した包帯の端を丁寧に留めた後、不破の顔に一瞬だけ手を触れて、言った。
「駄目だ、死んでる」、と。
 自分は死んでなどいない。
 そう口にしかけた不破の肩を、新藤がぐっと掴んだ。そして声には出さず、口の動きだけで何事かを伝えてきた。はっきりと二回。同じ言葉を繰り返す。
 逃げろ。
 不破がそう理解した瞬間、新藤はすっと立ち上がり、掃き出し窓を開けて不破の身体をサンルームへと足で押しやった。増田の死体の隣に並べられることに生理的な恐怖を覚えたが、頭の痛みで指一本動かすことができなかった。窓はすぐに閉じられた。それでも、ガラス越しに中でのやり取りははっきりと聞き取れた。彼らの話を聞き、不破は少しずつ思い出した。
 自分は殴られたのだ。
 照明が消え、ヴィラ全体が暗闇に包まれたあの瞬間。不破はとっさに床にしゃがみこみ、掃き出し窓の方へと手探りで移動した。暗闇の恐怖の中、考えるより先に、目の前に座っていた天羽から距離を取ることを選択していた。不破は彼に対しても、ある種の恐れを抱いていた。投資目的でツアーに参加した自分に信仰心が無いことは、新藤によってばらされてしまっていたからだ。自分が彼を信じる者ではないと、知られている。
 しかし襲撃者は、移動した不破を追ってその頭を的確に殴りつけた。自分が誰に殴られたのか、不破にはまるで見当がついていなかった。
 今の今まで。
「どうして新藤さんがそんな嘘をつくの?」
 金子は足を止め、心底不思議そうな顔で首をひねった。
「僕を逃がすため、だと」
 不破は答える。
「うん? うーん、そうなの? でも、なんで新藤さんが君を逃がそうなんて思ったの? 君が逃げ延びられたところで、新藤さんにはなんの得もないよね」
「それは──」
 不破をサンルームに残し、皆が引き上げていった深夜。ショックと恐怖と痛みにより動けずにいた彼のもとに、新藤が戻って来た。頭の傷をチェックし、消毒を施した後で包帯を巻きなおし、簡単な問診をされた。自分の名前はわかるか、自分が今どこにいるかわかるか、手足は動かせるか。不破がいずれも正しく答え、頭の痛みをこらえつつ両手足を動かして見せると、新藤は「血は止まってる」とうなずいた。
「検査ができないからこれ以上はどうしようもない。吐き気は? ない? じゃああとはとにかく安静にして、運に任せるしかないな。でもなあ……、ここであと丸一日、死んだふりを続けるのは無理があるよな」
 新藤は少し考え、迎えが来る日の朝まで新藤の部屋に身を隠すよう指示した。彼の肩を借り、不破は三階の個室までなんとか階段を上り、そこに落ち着いた。
「俺も君も、また襲われるかもしれない」新藤は言った。
「善意を持たない人間だからだ。ふざけてるよな。こんなところでそんなわけのわからないしょうもない理由で殺されてたまるかよ。なあ? 絶対に生きて帰ってやる。帰ったらまず、最初に見かけた募金箱に有り金ぜんぶ募金してやるよ。寄付だってする。善意を示すならなにより金だろ。つまり、この島で一番善意を持ってるのは俺なんだよ」
 新藤が延々とぼやくのを朦朧とする頭で聞きながら、不破は貰った鎮痛剤を飲み眠りについた。
「でも翌朝、あなたが死んだと」
「うん」
「新藤さんはかなり取り乱した様子で戻ってきて……自分はドームに籠城する、と。自分がいなくなればこの個室は他の人たちに調べられてしまうかもしれないから、君は自室に移動しろと言われて」
「そっか……なるほど。夜中は私、死んだふりの準備で忙しかったから、下の階の会話を聞いてなかったんだよね。個室にはマイクを仕掛けてなかったし」
 金子はわずかに唇を尖らせて、左耳に差したイヤホンに触れた。それで不破にも、彼女がヴィラのリビングルームに隠しマイクかなにかを仕掛けていたのだとわかった。そうやって、皆の会話を聞いていたのだ。
「でも、君は一緒にドームに行こうと思わなかったの?」
 金子はたずねる。
「僕は、他のひとたちに見つからずにヴィラを出ることは難しかったから……」
「ああそうか。それでずっと、自室に隠れていたわけね。……うん、どうして君が生きているのかはわかった。でもそれって、私の最初の質問の答えにはなっていないよね。どうして新藤さんは、君を逃がそうなんて思ったんだろう」
「それは」
 不破はもう一度、昨夜の新藤とのやり取りを思い出す。
「新藤さんは、理由は、なにも言いませんでした」
 彼はただ、犯人への憤りと生き延びることへの渇望について語っていた。目の前の不破を治療し、かくまうことについては、語るべきことなどなにも無いようだった。
「ただ助けてくれたんだと思います。理由はなく」
「……そっか」
 金子はそうつぶやくと、胸の前で持った斧を握る手に、ぎゅっと力を込めた。
「若い命を、ただ当然に、助けようと思ったのかな。新藤さんは……善いひとだったんだ。ちゃんとお医者さんだった。本人はそうじゃないって信じていたのかもしれないけど」
 しみじみと語る金子の顔には、なぜか笑顔が浮かんでいた。心から嬉しそうな彼女の反応を見て、不破はその不可解さにぞっとした。
「あの、彼は、新藤さんは……」
「ドームの中で死んだよ。増田さんと同じ毒で」
「そんな……」
「苦しんだのはほんの一瞬だよ。いや、一瞬っていうのは言い過ぎかもだけど。でも、そんなに長い時間じゃない」
 金子はその死を悼むかのように、そっと目を閉じた。不破はその隙に、意思の力でなんとか右ひざを持ち上げた。立ち上がろうと中腰になったところで、金子は瞼を開いた。握りしめた斧を肩まで持ち上げ、最後の数メートルを降りてくる。
「君はもっとすんなり死ねるから」
 目の前に立った金子が、斧を振り上げた。

(つづく)