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14 四年前 夜

 星なんてまるで見えない夜だった。
 私はひとり、先輩の家へと急ぎ足で向かっていた。
 ちえみ先輩は駅から三分の距離にある、便利だけれど電車の音がどうしたってうるさい狭いワンルームに住んでいた。私がたずねていったとき、彼女はいつものように南向きの出窓に腰掛けて、駅へと向かうひとの往来をつまらなそうに眺めていた。七階の高さから見下ろすと、人間はちょうど巣の周りを右往左往する蟻くらいの大きさに見える。
「すごい経験しちゃいましたね」
 流しの前に突っ立ったままで、私は言った。
 もちろん、逮捕されたことを指していた。北原先輩のグループの中で、ちえみ先輩も私と同じ、勧誘やサクラとしての活動に手をかしていた。私たちは同じ朝に逮捕され、同じ日に不起訴となり釈放された。
 私はあえて、なんでもないような、平坦な態度を保とうと決めていた。きっとちえみ先輩もそうするだろうと思っていたからだ。昔から先輩はどんなできごとだって、芸の肥やし、演技の糧にする強さと図太さを持っているひとだった。大好きな彼氏と別れたときも、優しい祖母を亡くしたときも、これで喪失の痛みの表現に磨きがかかったはずだと、涙に濡れた目を強く輝かせていた。
 彼女はなんだって乗り越えられるひとだった。だからこんな、ちょっと逮捕されちゃったくらいのことはなんでもない、ただの人生の一幕にすぎない。彼女の前で、私だけが馬鹿みたいに動揺したり泣いたりするのは嫌だった。やれやれ、まったく大変なことになっちゃいましたね、と肩をすくめて、彼女と同じ視点に立っていたかった。
「お金がないんだよね」
 ちえみ先輩は言った。
「私もないです。ほんと参っちゃいますよ。北原先輩、あのひと最初から全部──」
「私、ほんとうにお金がない」
 ちえみ先輩は繰り返した。それはなんだか噛み合わない返事に聞こえた。
 私は部屋の中に一脚だけある椅子に座った、ちえみ先輩のドールに目をやった。艶やかな髪。ふっくらとした頬。可動する瞼に手足。繊細なレースがあしらわれたドレス。
 北原先輩に預けた──と思っていた──お金がビットコインのような魔法にかかると信じていたから、彼女は身銭を切ってこの小道具を作らせたのだ。頬に浮いた薔薇色のチークはいかにも活き活きとして見えて、最近の、女優としてのちえみ先輩よりも、大学時代のより若かりし彼女の姿を思い起こさせた。
 下界を見下ろしていたちえみ先輩が、ふいに振り返った。その顔を正面から見てぎょっとした。一瞬、知らない女に見えたのだ。目の下と口の周りに濃い影が落ちている。私のよく知る先輩は、出窓に座る生きた彼女より、むしろ──。
「ずっとお金のことを考えている」
 先輩は立てた膝の上に顎をのせて言った。
 先輩の部屋にある備え付けの天井照明は、ほんとうは棒電球が四本入る。でも彼女は節約のために電球を一本しか入れていないので、オレンジがかった明かりはどこか心もとない。
「そうですね」
 私はうなずいた。私だって同じだった。ずっとお金のことを考えてしまう。だからちえみ先輩に会いに来たのだ。彼女の強さにあやかるために。
「貧しい人々の演技にリアリティが出ちゃいますね」
 ちえみ先輩は、そこで初めて私と目を合わせた。鼻から息を洩らし、「うん」とうなずく。けれどすぐに目を逸らして、また下界の蟻の観察に戻る。開け放たれた窓からは、秋の夜風が吹き込んでいた。
「ドールの舞台は降りたんだけどね」
「え!」
 思わず大きな声が出た。「どうしてですか」と続けて疑問を口にしたけれど、よく考えてみれば答えは明白だった。私たちは、逮捕されたのだ。
「稽古に数日出られなかったでしょ。その間、連絡もできなかったし。逮捕のこと自体は隠しておけたかもしれないけど……でも私、他の団員にも、勧めちゃってたんだよね。北原の投資」
 さすがに黙ってらんないよね、と先輩は息をつく。私はなにも答えられず、ただ先輩の横顔を見つめる。
「でも正直、それはあんまりショックではなくて」と彼女は続ける。「そんなことよりお金がないからさ」と、再びそれを繰り返す。
「なんだかね、あらゆる感覚が、お金がないっていう事実の向こうに霞んでる感じ。本当はもっと、罪悪感とか、後悔や反省の気持ちだって持たなくちゃだめだよね。私たち、詐欺に加担してたんだから」
 先輩の深く下がった肩と猫背の背中は老人のそれに見えた。先輩は一度社会に出てお金を貯めてから大学に入ったから、私よりも四つ年上だ。たった四つ。そんなものは彼女のみなぎる活力の前では、何の意味もなかったのに。
 先輩はお金の代わりに持ち前の生命力をじゃぶじゃぶ消費して、今、それも底を突いてしまったみたいだった。美味しいご飯を食べてぐっすり眠ってどこか遠くにでも行って気持ちを切り替えれば、気力なんていうものはあっという間に回復するのかもしれない。でも私たちにはそういうことをするお金がない。
「考えてみれば私、お金に余裕がある瞬間なんて、いちどもなかったな」
「……私もです」
「ずっとお金のことを考えている」
 お金のことを考えずにいるにはお金が必要だ。
「なんか苦しいよね」と先輩は言った。ずっと圧迫感がある。お金の無さが実態を伴って身体にまとわりつき首を締めあげている。そのひとつひとつの感覚に私は深く共感できる。眠れないし食べられないし休まらない。
「うちね、祖父母の代から信じてる宗教があるんだよね」
 先輩は唐突に言った。宗教? と私は首をかしげた。
「誰にも言ってなかったけど。あんまり皆、外のひととはそういう話ってしないもんね。でも、とにかく私、自殺ができないの」
 先輩は言った。出窓に乗せた尾てい骨を軸にくるりと向きを変え、七階の窓から両足を垂らして座る。
 この部屋でお酒を飲んでいるとき、ほろ酔いの先輩がよく窓辺でそういう座り方をするのが、私は怖かった。うっかり落ちたらどうするんですか、と注意したことは一度や二度ではない。そのたびに、先輩は「大丈夫よ」と笑った。実際、大丈夫だった。先輩の体幹は座っている姿勢からバランスを崩すほどやわじゃない。少なくとも、逮捕される前まではそうだった。
「自殺ができないんだよね」
 先輩は繰り返した。
 私は彼女の背中、肩甲骨の下のあたりを強く押した。
 目を閉じて、力いっぱい。
 それだけで充分だった。
 ほんの一瞬、先輩の、悲鳴のような声を聞いた気もした。
 部屋からちえみ先輩が消えて、私とちえみ先輩の人形だけが残った。
 その瞬間、私は、この世界の真実に気がついた。


15 四日目 朝

「私たちは皆、呪われている」
 話し終えた金子はそうつぶやいた。
「そのことに皆、気づいていない。気づけないようになっている」
 後藤は金子の目を見返し、「呪い?」とおうむ返しにたずねた。
「そう。あのね、死はすべての救済なの」
 そう言い切る金子の瞳の中に、ふざけたような色が一切浮かんでいないことを見て取って、後藤は動揺した。死は救済。それはあまりにも極端でありながら、あまりにもありふれた主張であるように思えた。宗教的な概念から、あるいは悲観主義者たちの価値観から、あるいは物語上の破滅的な悪役の目標から。どこからだって辿り着くことができるありふれた考えを、自分だけが発見した真新しい秘密のように語る金子が信じられなかった。
「死は救済。そんなことはないって思う? それとも、くだらないって思う?」
 またしても後藤の考えを見透かしたように、金子はたずねた。
「あのね、そんなふうに思ってしまうことが呪いなの。どんなに死にたいと思っても、結局のところは生きることが正しいと思ってしまうことが呪い。死に対する本能的な恐れ、痛み、すべてが呪い。死ぬことだけが救いだという言葉を聞いたときに浮かぶ、否定的な考えはすべて呪い。生きることは苦しみでしかなく、死こそがあらゆる苦痛を断ち切る救いなのに、生きたいと願う本能が呪い。人間の細胞に刻み込まれた呪いなの」
 金子は自分自身の言葉にうなずきながら、後藤を、そして不破を見た。難題を辛抱強く教える教師のような理性がそこにはあった。
「私は死の救いを信じている。心から信仰してる。誰にも話したことはなかったけど……信仰についての話って、私たち、あまりしないものね」
 金子はまたしみじみとうなずいた。後藤はそんな彼女を呆然と見下ろしながら、自分が金子をBFHに勧誘したときのことを思い出していた。あのとき金子はこれ見よがしに大きなため息をついて、呆れを隠そうともしていなかった。後藤くん、神様なんて信じていないくせに。宗教なんて、本気なの?
 あのときの彼女はすでに、ちえみ先輩を殺し、死への信仰心を募らせていた?
「どうして」
 後藤は掠れた声でつぶやく。
「そんな信仰を持っていたなら、どうして俺たちに加わったんだよ。俺らのことなんて、放っておいて、関わらないでくれたらよかったじゃないか」
「最初はそう思ったよ。でも、可哀そうになったの。後藤くん、もしもBFHが上手くいってしまったら、また生きることに希望を見出してしまうでしょ」
 金子は心から気の毒そうな表情を浮かべて言った。
「後藤くんってそういうところがあるよね。皮肉っぽくて、冷めてるみたいな、達観したような姿勢を取りたがるくせに、本当はいつだって期待を捨てられないひと。自分自身ではそうじゃないって信じているのかもしれないけど、君の心の奥には、自分は特別な存在で生きることは素晴らしいことだっていう価値観が根付いてる」
 その呪いから解き放ってあげたいと思った、と金子は語った。
「私は皆を救いたかった。だから今回のことは、復讐なんかじゃぜんぜんないの。私はこのツアーに備えて一生懸命準備して、皆をこの呪いから解放したかった。参加者のことを調べるうち、皆が善いひとだってわかったから」
 金子は言った。
「この呪いは、善いひとにとっては特に苦しいものなの。反対に、悪人にはとっては大して苦痛じゃない。そんなところも最悪だよね。思いやりがあって、他者の痛みに対する想像力があって、聡明で慈悲深いひとほど、常に苦痛が共にある。利己的で暴力的で卑怯で、自己愛まみれの妄想に生きる悪人たちからの脅威にさらされもすれば、風が吹いただけで起こるような不条理な悲劇に深く傷ついたりもする。それでも脳は、生きることは善であり、与えられた生をまっとうすることは無条件に正しいと考えてしまう。そんな考えが呪いにより生じているなんて、気づけない。実際、ひとは死に近づくと強い拒否反応を覚える。この国ではピストル自殺する自由さえ与えられていないのは、ある種の人権の侵害だと思わない? 私たちが自死を強く望んだら、野性的で野蛮な方法、強い恐怖や苦痛を伴うような方法から選ばなくちゃならないんだよ。引き金を引くだけでこの呪いを終わりにできる方法があるというのに。私たちには、それを使うことが許されていない」
 後藤は金子の話に耳を傾けるポーズを取りながら、横目で不破を見た。斧は自分の手の中にある。不破とふたりなら、金子を取り押さえることは容易いはずだ。金子の主張を最後まで聞いてやるつもりなど毛頭なかった。
 ただ──ただ、訥々と語る金子を見つめる、不破の真剣な眼差しが気にかかった。まさか、金子のあんな荒唐無稽な主張を、聞き入れ始めているんじゃないだろうな。
「だから私、皆のことをちゃんと解放してあげられますようにって、ここに来る船の上でも祈ってたんだ。そしたら、ちょうどその場面を塙さんに撮られてしまって」
 金子は両手を組みあわせ、祈りを再現するように瞼を伏せた。
「その映像、後藤くんや天羽くんに見られるわけにはいかないなって思ったの。私が神を信じていないことは、ふたりには当然知られていたから。私が心の底から祈る対象を持っているってこと、それが死だってこと、知られたら、計画の妨げになるかもしれないと思ったから」
「それで塙さんの首を切ったのか。スマホの顔認証をされないために」
「ああ、そう。そっか、それに気づいたんだ。じゃあ、私のことも疑った?」
「いや……金子は、グロテスクなものが苦手だった。首を切ったりなんて、とてもできないと思った」
 後藤は大学時代、先輩たちに見せられたスプラッタ映画で青い顔をしていた金子を思い出す。金子も同じ記憶に辿り着いたらしい。死への信仰心を語っていたときの目の輝きがすっと引いた。
「後藤くん、あれはもう十年近く前の話だよ」
 金子は悲し気に言った。
「私たち、誰も、何も同じじゃないでしょ、あの頃とは。十年もあったら、苦手だったものや嫌いだったものにも、なにも感じなくなるよ」
 その逆もたくさんあるけどね、と金子はつぶやく。
「塙さんの首は」
「湖に捨てた」
「礼拝堂の扉に張っていた蜘蛛の巣は、コブスプレー?」
「あ、そう、それ。よく覚えてたね」
「野々村さんの周りの花は」
「ああ、あれはね、野々村さんに自分で集めてもらったの。天羽くんとの面談を待っているとき、皆にお茶を出すついでに彼にメモを渡して──花を集めて屋外キッチンで待つように伝えた。天羽くんから野々村さんだけに宛てた、特別な秘密のメッセージだって念を押したら、素直に聞いてくれたよね」
「第一発見者のふりで、取り乱していたのも芝居か」
「うん、そう。でも、うっかり足を捻っちゃったのは本当。だから後藤くんと天羽くんが、また礼拝堂まで行ってみるって言ったときは焦った。礼拝堂には電波妨害機を置いていないから、私から離れられたらスマホが圏外から外れちゃうと思って。ふたりとも、素直にスマホを預けて行ってくれたからほっとしたけど」
 電波が入るとしたらヴィラの方だから、スマホを置いて行ってくれと金子が言ったのだ。思い出して、後藤は眉間にしわを寄せた。疑いもせず素直に従った自分が、今となっては信じられない。
「増田さんが飲んだ毒は」
「あれは皆が予想した通り。朝のうちに、新藤さんのジンのボトルに入れておいたの。増田さんはひと違いで殺されたんだって桃木さんは騒いでたけど、私は別に、誰でもよかった」
「それで──」
「それで、不破くんを殴ったのはさっき説明した通り。その次は……私。私というか、ちえみ先輩の人形」
 金子は伏せていた瞼を開いた。
「スーツケースに入れて持ってきたんだ。夜中に、崖の下に降ろした。避難用のはしごを人形の足と頭に引っ掛けて、バランスを取りながらね。顔がちゃんと海面に沈んで、でも死体だと思ってもらえる程度には水から出ているように」
 後藤は脳裏に再び崖下の人影を思い浮かべる。どんなに鮮明に記憶を呼び起こしてみても、それはもう死体には見えない。
「本当は、夜中のうちにヴィラから出て身を隠すつもりだったの。でも、思っていたよりもその偽装作業に時間がかかってしまって……新藤さんがものすごく朝早くにリビングルームに降りて来たから、焦っちゃった。それでしょうがなく、私、自分の部屋に隠れてたんだけど」
「隠れて──」
「後藤くんたちが隣の部屋のベランダから呼ぶの、聞こえてたよ。天羽くんがベランダを飛び越えて来ようとしたときもすごく焦った。あれが最高に焦ったかな。いや、でも、部屋に隠れるのにドアチェーンを掛けちゃった時点で、たぶん私、だいぶ動揺してたのね。あんなの、中にひとがいるって教えてるようなものだもの。だから皆が下に降りて行った後、チェーンを外して荷物で扉を押さえておいた。そっちの方が、外からの細工で開かなくしたように見えるかと思って。下で皆が話し合うのを聞きながら、どうか誰も気づきませんようにって祈ってた」
 金子は左耳のイヤホンを指さして笑った。
「それから新藤さんも、さっき話した通り。桃木さんは、私がちょうど湖の方に斧を取りに行ったときにやって来たから、そこで死なせた。天羽くんは、昨日部屋にたずねて行って、ドアを開けてくれたところをナイフで刺した。葛西さんと後藤くんがドームに向かったのを見て、新藤さんと同じ手口で殺したつもりだった。私はツアーの最初の予定通り、屋上に上がって月蝕を見た。本当ならそれでぜんぶ終わりのはずだったんだけど、ひとつだけ気がかりなことがあった」
 金子は不破に顔を向けた。
「不破くんの死体が消えた理由がわからなかった。まさか新藤さんが嘘をついていたなんて……犯人以外が嘘をつくなんて、ルール違反だよね。まあ、それを言ったら後藤くんが田中さんの存在を作り出したことだってそう。皆こっちの計画とは無関係に、平気で嘘をつくんだから……」
 金子は笑みを深くした後、「でもよかった」と言った。
「新藤さんも善いひとだってわかって、安心した。死なせたのは間違いじゃなかった。この島に集まっていたのは、善良で、か弱くて、呪いに苦しんでいるひとたち。塙さんもそう。自分の身体を傷つけてまで甥っ子を助けようなんて、そんな気持ちになってしまうのは呪い以外のなにものでもない。野々村さんも、周りに認めてもらいたい、受け入れてもらいたいと願う、強い社会性を持ったひとだった。大いなる存在に認められるためにその言葉に従ってしまうのは間違いなく呪い。増田さんはとてもメジャーな呪いだよね。愛する家族をいつか喪失するという定められた恐怖から逃れられないでいた。不破くんは、かつての私と同じ。才能もなく、無力なくせに、たくさんのお金を稼いで家族を助けてあげたいという呪い。新藤さんのことは、正直私、ちょっと迷ったんだけど。でも、彼がか弱いひとだというのは疑いようがなかった。弟への劣等感に苦しんでいたのは明らかだった。だから、不破くんを逃がしてあげちゃうような善いひとだったと知れて嬉しい。桃木さんも、生きるうえで逃れられない大きな苦痛である老いに苛まれていた。それでいて彼女は、偶然知り合っただけの他人に強い好意を抱いてしまう善いひとで、その喪失の苦しみにさっそく襲われていた。葛西さんは──」
 ミアの名前を出され、後藤の手がぴくりと動いた。斧が金子に切りかかろうとするのを、意思の力で押し止める。
「彼女はとても善い子だった。後藤くんもさっき言っていたよね。彼女が苦しめられていたって。それは、彼女が善い子だったから。強い呪いに苛まれていたから。違う?」
 後藤は唇を引き結び、答えなかった。
「後藤くんもそうでしょ」金子は言った。
「君も呪われた善いひとでしょ、後藤くん。君は人生のどん底に沈んでなお、また立ち上がって、苦しむために社会に戻って来た。経理を任されて気づいたよ。君がBFHを作って、またそういう馬鹿みたいな方法でお金を稼ごうとしているのは、北原先輩の事件の被害者に弁済したいからだって」
「……俺は」
「そんなこと望まなければいいのに。他人のことなんて気にしなければ、もっと楽に生きられるのに。罪悪感って、ほんとわかりやすい呪いだよね。善いことをしないと苦しいようになってる」
「……天羽は?」
 後藤はたずねた。
「あいつはただ気の向くままにへらへら楽しく自由に生きていただけだ。天羽には、お前の言う救済なんて必要なかったよ」
「そう感じるのは後藤くんが天羽くんを羨ましいと思っていたからだよ。憧れで目が曇っていたから」
 天羽くんは優しい子だよ。それにかわいそうな子、と金子は言った。
「彼は自分自身に苦しんでた。時間を守れなかったり、大人なら誰もしないようなうっかりミスが多かったり。そんなのどうでもいいだろって思えるような身勝手な人間だったらよかったけど、そうじゃなかった。いちいち落ち込んで、悩んでた。天羽くんって、いつも最初は人気者なのに、どんどんひとが離れて行っちゃうんだよね。学生時代から彼と一緒にいるのって、もう、私と後藤くんだけだよ」
 だから私たちのこと、あんなに信じてくれてたんだろうね、という金子の言葉に、後藤は罪悪感の波に襲われる。手足が強張り、舌先が痺れる。それでも言った。
「呪いなんかじゃない。金子が今言ったことぜんぶ、祝福だよ」
 金子は笑い声をあげた。
「それ、BFHの教え? 望くん、もうここには信者なんてひとりもいないんだから、そんな思ってもいないこと言わなくてもいいんだよ」
 後藤は金子の言葉を無視して続けた。
「塙さんはサービス精神が旺盛だったんだよ。野々村さんは野心家で、増田さんは愛する家族がいた。新藤さんは弱いものを当然に助ける医者だった。桃木さんは人間が好きだった。それに……お前は知らないだろうけど、彼女はロビンソン・クルーソーに憧れてたんだよ。お前が知らないことなんて、他にもいくらでもある。他のひとたちの善い所も悪い所も、お前はなにも知らない。皆がどんなに祝福されていたか知らない」
 金子は大きくため息をついて、肩を落とした。「だから、そんなふうに思うことが呪いなんだって」と呆れたようにつぶやく。後藤はそれも無視した。
「それに、天羽は教祖に向いてた。あいつに向いてることなんてごまんとあった。俺や、お前が支えていけばよかっただけだ」
 後藤はそれから、口に出すか迷っていた言葉を発した。
「呪いであってほしいだけだろ」
 金子がはっと息を呑み、後藤を睨んだ。後藤はその目を睨み返して続けた。
「生きたいと思う本能が呪いで、死は祝福。そうであってほしいだけだろ。そうじゃないと、ちえみ先輩を殺したことを正当化できないから。ほんとは後悔してるんだろ」
「後悔なんてしてるわけない。私は正しいことをしたんだから」
「そう思うために善悪の逆張りをしてるだけだろ。苦しくても生きることは祝福なんだよ。俺らの細胞に刻み込まれている」
「だからそれが呪いなんだってば! そうやって生に縛り付けられているから苦しみが終わらないの」
「これが呪いだって言うなら、俺はこの呪いが好きなんだよ。放っておいてくれよ」
「後藤くん、さっきから本気で言ってる? BFHの客引き用の教えに自分で染まっちゃってるんじゃない? 自分で作り出した宗教に自分ではまっちゃうなんて──」
 ざり、という音が大きく響いて、後藤と金子は揃って道の下方に目を向けた。彼らが話している間、木に手を付いてなんとか立ち上がろうとしていた不破の靴が、砂利に滑った音だった。
 ふたりの視線を受け、不破は恐れと怯えの表情を顔に浮かべつつも、「いい加減にしてください」と言った。後藤は、それは自分と金子のどちらに発せられたものなのか考えた。このいかにも気弱な若者は、生への本能を呪いとする金子の主張に、あっさり傾倒してしまうのでは──。
 しかし不破は、ふたりを同じように睨みながら言った。
「生きることは別に呪いでもないし祝福でもない。神様なんていないし、悪魔もいない。魂なんてないし、宇宙のエネルギーだってないし、占いはぜんぶインチキだ。人間は超自然的なものに守られてもいなければ害されてもいない。この世界には僕らしかいないんだ」
 不破はようやく両足を地面につけた。
「だから僕が、母さんを助けるんだ。絶対に生きて帰る」
 三人はまるで信じるものが違った。しかし後藤と不破の利害は一致した。後藤は斧を肩まで上げ、じりじりと金子に近づく。下方からはおぼつかない足取りながら、不破が両手を広げ上がってくる。
 後藤が一メートルの距離まで迫ったとき、金子は大きく息をつき、うんざりしたように空を仰いだ。すべてを観念した、降参の姿勢であるように見えた。しかし彼女は、膝の前に置いたままのリュックサックに手を突っ込むと、なにか黒い塊を取り出して後藤に向けた。一度の瞬きで焦点が合い、すぐにわかった。銃だ。

(つづく)