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11 三日目 夕刻

 短い午睡に落ちていた。
 捉えどころのないぶつ切りの夢を、いくつも見た気がする。
 BFHを立ち上げてからの日々、留置所にいた頃、北原のもとにいた頃、大学時代、中学高校時代、もっと子供の頃、現記憶にも近い情景。脈絡なく、時系列もばらばらに、様々なビジョンを見た。時間の感覚が伸び縮みして、何年にも、何十年にもわたる時を圧縮して過ごしたような、妙な疲労感を覚えた。眠る前よりも重い身体を起こし、開いたままの窓をぼんやりと見つめる。
 父のことが頭に浮かんだ。
 きっと夢の中に出てきていたのだろう。
 いつの父で、どんな夢に登場したのかは、さっぱり思い出せない。
 ただうっすらと、悲しい気持ちと罪悪感だけが残っている。
 水の匂いがした。雨が過ぎ去ったようだった。橙に暮れつつある空が、部屋の中にまでその色を映し、空気を淡く染めていた。意識の半分を夢に残したままベッドを降り、後藤は室内を見渡す。
 途端に、ゾッと冷たいなにかが背中を走り抜けた。一瞬で覚醒し、息が上がる。
 扉の前、バリケードとしていた机が脇にどかされていた。確かにかけていたはずのドアチェーンも外れている。
「ミア」と呼びかけるが、当然のように返事はなかった。バスルームの扉をノックもせずに開け、やはり無人であることを確認する。後藤は靴を履く手間も惜しんで、机の脇をすり抜けドアノブを掴んだ。廊下に出る。しん、と静まり返った館内には誰の気配もない。「ミア」と呼ぶ声だけが虚しく響く。
 なぜ彼女は外に出たんだ? 明日まで部屋にこもろうと話していたのに。
 水を取りに出ただけかもしれない。空腹に耐えかね、安全そうな食べ物を見繕いに降りて行っただけかもしれない。そう考えてみるものの、嫌な予感がぬぐえなかった。つい先ほど──あるいは何十年も前に感じられる──のぞき込んだ彼女の瞳の中の憂いが、頭をちらつき離れない。
 後藤は階段へと足を向けた。一段一段、慎重に降りる。互いの部屋には近づかない、と約束はしたものの、天羽の個室は、二階の階段に近い角部屋にある。キッチンのある一階に降りようと思ったら、どうしてもその側を通りかかる。
 はだしの足は少しの足音も立てず、後藤は意に反して、自分が天羽の部屋へ忍び寄ろうとでもしているような気分になった。二階の踊り場に立ち、すぐにさらに下へ降りようと廊下を素通りしかけたところで、彼の部屋の扉が目に入った。
 開いている。
 内側に、ほんの五センチほど。
 再び、背中の毛がぞくりと逆立った。
 開いた扉のすぐ外に、百合が一輪落ちている。
 そこにミアがいるような気がした。理屈より先に、なぜだかそう感じた。
 彼女は天羽をまるで警戒なんてしていなかったのだ。天羽の方も、ミアを疑い恐れているようなそぶりを見せたのは、自分が犯人ではないというアピールに過ぎない。彼はミアを部屋に招き入れた。それで──それで?
 ミア、と呼びかける言葉は声にならず、掠れた息だけが漏れた。
 廊下に敷かれたカーペットを踏みしめる。ほんのわずかな距離で、扉の前に到達してしまう。なにも見ず引き返したい、という気持ちと、ひと思いにすべてを見てしまおうという気持ちが拮抗した。それで結局、そろそろと伸ばした指をぴたりと扉に当て、ひとつ息を吸い込んでから、力を込めてゆっくりと押し開いた。
 すぐに赤い色が目に入った。
 おびただしい量の、圧倒的な赤だった。
 視界一面が、濡れそぼつ鮮やかな赤に埋め尽くされる。
 見慣れてしまった血の色。
 そして死体。
 仰向けに倒れた亡骸の、元は純白だった衣服のほとんどが、己から流れ出た血に染まっていた。すでに命が無い量の出血であることは明らかだった。一瞥してわかるだけでも、身体に複数の傷跡がある。刺されたのだ。何回も。
 後藤はゆっくりと息をはいた。舌の根がびりびりと痺れる。身体をえぐられるような、物理的なまでの感情が胸内で膨らみ吐きそうだった。失われたひとの名前を呼ぼうとして、やはり声は出てこない。
 身体の傷や出血の量に反して、その死に顔は穏やかだった。
 うっすらと目を開き、なにもない壁をぼんやりと見つめている。
 ほとんど血の付着していない白い顔が、首下や床に広がった血の海から浮き上がって見えた。水面にたゆたうオフィーリアの絵のように。
「望くん」
 声に振り返る。ミアが立っていた。
「どうしたの? 天羽先生のお部屋に、なにか──」
 後藤はなにを答えることも、考えることもできないまま、ただ身体を数センチ横にずらした。部屋を覗き込んだミアの両手から、水のペットボトルが三本、するりと落ちた。彼女は叫び声を上げながら、後藤を押しのけ中へと駆け入った。血だまりの中にひざまずき、命を無くした天羽の身体を揺さぶる。
 ドア枠に肩をもたせかけながら、後藤は泣きじゃくるミアを眺めた。倒れている天羽の頭の近くに、彼が持って行った斧が落ちていることに気が付いた。彼の身体についた傷はもっと小さく、斧による損傷ではなさそうだった。もっと細い……ナイフのような刃物で刺されたのだろう。それらしい凶器は、室内のどこにも見つけられない。後藤は反射的に腰のベルトに触れた。フルーツナイフは……どこかに置き忘れてしまったようだ。
 この島にはもう三人しか──と言った、天羽の声が蘇る。もう、三人しかいなかった。そして今、さらに一人が去ってしまった。
「望くん」
 ミアが濡れた瞳で見上げた。
「天羽先生が、どうして? どうしてこんなひどいことに」
 自分は犯人ではない。
 後藤にはそれがよくわかっている。
 目の前にいるのは、愛する女性。
 自分のことを、似ている、と言ってくれたひと。
 彼女の白い頬を、一粒の涙がすべり落ちる。
 その瞬間、すべてがわかった。
 この島で起こったできごとの、すべてを理解した。
 そうだ。
 そうだったんだ。
 最初からわかりきっていたことじゃないか。
「田中だ」
 後藤は言った。
「田中がすべての犯人だ」
 そう口にした途端、頭の中に渦巻いていたあらゆる疑念が、するりとほどけた。胸にわだかまっていたあらゆる感情が、すっきりと腑に落ちた。
 そうだ。
 田中が犯人だ。
 それ以外に、答えなどあり得ない。
 後藤は膝を折り、目の前の無垢な恋人に手を伸ばした。輝く涙をそっとぬぐう。
 彼は自らの望むままに、自ら創り出した虚像を信じた。
 信じることに決めた。
 そうして訪れた解放感に身を任せる。
 ──ああ。
 信じる心の、なんと自由なことだろう。
「田中さんは、きっと合い鍵を持っているのね」
 ミアが言った。後藤はうなずく。
「そうだね。ヴィラの部屋は、もうどこも安全じゃないのかもしれない」
「それなら……あのグランピングドームに移るのはどうかな?」
 涙声のまま、しかし気丈な態度で、彼女は言う。
「ドームでは、新藤さんが殺されてしまったけれど……彼は毒を飲んでしまったんだもの、鍵が破られたわけではないんだよね? あそこなら、私たち、朝まで立てこもっていられるかもしれない。田中さんから身を守って……」
 ミアはふと自らの手を見下ろした。天羽に触れた両手が、赤く染まっている。「望くん」と、彼女はつぶやく。
「私のこと、守ってくれるよね?」
 後藤は少しもためらわず、愛するひとを抱きしめた。


12 三日目 夜

 グランピングドームに着く頃には、東の空に星が瞬きはじめていた。
 ふたりは新藤が死んでいるドームのそばを、一瞥もくれずに通り過ぎた。
 仕切りの役割を果たす木立を越えると、入り江への展望が開けた丘の上に出る。しんと冷えた空気に、秋の虫が鳴いていた。
「寒くない?」
「うん、私は大丈夫。気持ちいいくらい」
 ミアは空を見上げ、海風と夜の森から吹く空気を深く吸い込む。
 ふたりはドームに入ると、新藤に倣ってテーブルや椅子をドア付近に積み上げ、バリケードを作った。床に直接敷かれた脚のないソファベッドだけはそのままにしておいた。キングサイズのマットレスに寝そべり、枕の位置のクッションに頭を乗せると、ちょうどアクリル張りになった透明な壁の一角と天井が視界に入る。
「宇宙船の中にいるみたい」
 アクリル越しの夜空を見上げ、ミアが言った。太陽は完全に西の海に沈んだらしい。ドームから見える空も紺碧の深さを増し、降り注ぐような星々がよりいっそう荘厳に輝いた。
 照明は点けていなかった。ここにいることを田中に気取られてはいけないからだ。闇の中、星明りと月明りだけがふたりを白く照らしている。
 後藤は隣に寝そべるミアの手をそっと握った。
「もうすぐ月蝕も見えるね」
「うん……そうだよね。皆で見るはずだった月蝕……」
 ミアは小さな力で、手を握り返した。
「ミアがいてくれてよかった」
 後藤は言った。
「それだけで、すごく幸せだよ。なんだろう……こんな状況なのに、今、すごく満たされた気持ちだ。なんていうか、俺は……最初から、ここに辿り着きたかったような気がしてる」
 愛する人と俗世を離れ、二人きりで星を見上げる。
 今までの人生すべて、この場所に辿り着くために生きて来たように思えた。その方法がわからなくて、大きく道を誤ってしまったけれど、ようやくここに辿り着いた。他にはなにもいらない。他人からの評価も、己の自意識も、遠い未来も、明日さえもどうでもいい。全身に巣食っていた不安は失せ、今この小さな船の中にあるものだけがただただ愛しく思える。それだけが現実だ。
「ミア」
 後藤は握りしめた手に力を込めた。
「ずっと一緒にいよう」
 天を向いていた彼女の繊細なまつ毛が、かすかに震えた。
「……望くん」
 ミアは首を横に倒し後藤を見た。瞳に移り込む星が見える距離だった。
「話さなくちゃいけないことがあるの」
 静かな声で、ミアは囁いた。
 後藤の脳裏に、湖のほとりで天羽と彼女が交わしていた会話が蘇る。
 耳をふさがなくては、ととっさに思った。
 しかし彼の右手は、ミアのか細い指に捕らわれ、一ミリも動かすことができない。
 聞きたくない、と強く思った。
 信じるものが、やっと辿りついたこの現実が、揺さぶられてしまう。
「あのね」
 ミアが言う。
「私に兄はいないの」

 翌朝。
 眩いばかりの水平線を望むドームの中。
 青黒く変色し、赤い斑点の浮いた新たな死体がひとつ、昇ったばかりの朝日に照らされていた。

(つづく)