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10 三日目 午後

 水のみを持って、後藤とミアは三階の個室にふたりで引き上げた。念のため、鍵をかけた扉の内側に窓辺にあったテーブルを運び、即席のバリケードとした。同じように籠城してドームの中で死んでいた新藤の姿が思い起こされたが、彼は毒殺されたのだ。口にするものに気をつけてさえいれば、二の舞にはならない。
 ミアは今のこの状況に、まだ納得がいっていない様子だった。戸惑いと混乱を浮かべた表情で、そわそわとベッドに座りなおす。
「だって、やっぱりおかしいと思うの。田中さんが存在しないなんて」
 彼女は言った。
「天羽先生がそんな、ご自身の見栄のために嘘をつくなんて思えない。寄付者が集まらなかったのなら、そのようにはっきりおっしゃるのが先生だとおもう。……もちろん、先生が私たち信者に見せてくださっていたお顔と、ご自身のプライベートなお顔がまったく同じではないというのはわかる。でも私、今回こうして先生と長い時間をともにして、そのふたつに決定的な差異はないということもわかったつもり。先生の優しさや思いやり、人間の善意に対する敬意に偽りはないと、確かに感じたもの」
「ああ」
 後藤は短く答えた。
 その通りだ。田中の存在を偽ったのは天羽じゃない。俺なんだ。
 この期に及んで、天羽は自分をかばったのだろうか。ミアが後藤に落胆することのないように、田中の嘘を自らひとりで考えたもののように語った?
「私、やっぱり先生が犯人だなんてどうしても思えない」
 ミアはきっぱりとそう言った。
「警察が来ればすべてがはっきりするよ。明日の朝までの辛抱だ」
 後藤はミアの隣のベッドに腰掛け、彼女と向き合った。ミアの瞳が悲しげに揺れていた。天羽と決別したまま過ごすことが、たとえわずかな時間であっても耐えられないとでもいうように。
「ミア……どうして」
 後藤はもうずっと長いあいだ胸の奥に留めてきた疑問が、ついに抑えきれなくなるのを自覚した。なんども飲み込んできたその問いを、抑えておけるだけの体力が、ない。
「どうして俺を選んでくれたの? 天羽じゃなく」
「え?」
 ミアの目が瞬いた。その無垢であどけない少女めいた表情に、ぐっと胸が締め付けられる。
 このひとが好きだ、と強く思う。
 でも、彼女の心をより大きく占めている感情は、きっと天羽への──。
「最初に俺から声をかけたっていうのは、もちろんあると思う。でも、それでも、後から選ぶことはできたはずだ。俺じゃなくて、もっと……もっと大きな善意を授かり、それに気づいた、天羽の方を」
 ミアは表情を緩め、「望くん」とささやいた。
「愛って、そういうものでしょ?」
 ミアは後藤の左膝にそっと右手を伸ばした。いつもはひんやりとした、なめらかな鉱石のような彼女の手から、熱すぎず冷たすぎない人間の体温を感じた。愛って、という彼女の言葉が、啓示のように脳内に染み入る。
「私は、初めて望くんに会ったとき──初めてBFHのオフライン集会に参加したとき、神様の授けてくださった善意の価値を皆に思い出してもらおうと活動する望くんや天羽先生に、同じくらいの敬意を感じた」
 瞼を閉じて、ミアは言う。その口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「でも私は、望くんに、先生とは違う、特別ななにかを感じたの。それはたぶん……このひとは私に、似ているってこと」
「似ている?」
 後藤は聞き返した。彼女と自分が似ていると感じたことはなかった。彼女は自分にはないものを持っていると、むしろ後藤はふたりの違いに心を動かされていたのだ。彼女は自分にはない強さを持ち、自分の知らない感情を知っている。生まれながらの、信仰心というものを。
「望くんには、うれしくない部分かもしれない。こんなこと言って、嫌な気持ちにさせたらごめん。でも私は、私たちの、弱さが似てるって思ったの。弱さとか、脆さ。ままならなさとか、泥臭いところとか……」
「ミアが、泥臭い?」
 後藤は小さく笑った。それは彼女を表現すべきものと対極にある言葉のように聞こえた。しかしミアは真剣な顔でうなずいた。
「もっと言うなら、悪いところやズルいところ。神様から授けてもらった善意やあらゆる良い部分以外の、人間的なところ。私たちはそこが、似ていると思った」
「ミア」
「それなのに、私とは違う。皆の前に堂々と立って、天羽先生を隣で支えている。そんな姿がすごく素敵で、憧れた。弱さを持ちながら自らを奮いたたせて立っていられるひとのことは、私、信じることができる」
 彼女の手に両手を重ね、後藤は「ありがとう」とささやいた。
「ありがとう? どうしてお礼なんて言ってくれるの? 私、けっこう失礼なことを言っちゃったつもりだよ」
 今度はミアが、小さく苦笑いを浮かべた。
「そんなことない。俺はずっと……本当は気にしてたんだ。天羽に対して、どこかで妬いてる気持ちがあった。だからうれしいよ。ミアが俺のこと、そんなふうに思っててくれたことも。気持ちを話してくれたことも」
「妬いてた? 本当に? ぜんぜん気づかなかった。望くんがそんな気持ちでいたなんて」
 ミアは心から驚いたように目を丸くした。それから「でも、それならおあいこだね」と、いたずらっぽい声で言った。
「私だって、ちょっとは焼きもち焼いてたんだよ。金子さんは──」
 そこまで言って彼女ははっと言葉を切り、すぐに「ごめんなさい」とささやいた。金子の死を、その喪失がまだ到底受け止められぬほど真新しいものであることを、思い出したのだろう。
「いいんだ、俺は大丈夫。金子が?」
「……うん、金子さんは、私の知らない望くんを知っていた……でしょ? だから、それが羨ましかった。もちろん、BFHのこともね。彼女の立場に憧れる気持ちが、どうしてもあったの」
「それは……俺も気が付かなかったな」
 本心から後藤は言った。
「もしかしたら金子さんが私のことを疑っていた理由は、それかも」
「え?」
「私が彼女に焼きもちを焼いていること、金子さんは気付いていたのかも。それをこう、なんていうか、敵対心みたいなものと誤解されて……犯人かもしれないって、思われてしまったのかなって」
 それは違うのではないかな、と後藤は思った。金子が警戒して不信感を抱いていたのは、ミアの信仰心の厚さに対してだ。それは、自分たちにはないものだから。未知の強大な感情を前に後藤が憧憬を抱いたのに対し、金子はおそらく畏怖を覚えた。金子の気持ちも、後藤には理解できた。
 しかし後藤は「そうかもしれないね」とだけ返し、ミアをそっと抱き寄せた。彼女の体温を両腕で感じ、髪の匂いで胸を満たす。心音が重なるのがわかるくらい、長い抱擁だった。
 やがてそっと身体を離したミアの顔。
 その瞳には、依然消えない悲しみが色濃く浮かんでいた。

 

(つづく)