9 三日目 昼
十メートルの距離まで迫っても、透明なドームの中に人影は見えなかった。
後藤は天羽を木立の陰に待たせておくことにした。ひとりきりで、じりじりと歩みを進める。
家具のバリケードはいかにも頑強そうに見えた。これをひとりで組み上げるのはなかなか骨が折れただろう。バリケードを崩さず隙間から外に抜け出すことは、中にいる人間にも不可能なはず。新藤は間違いなくこの中にいる。しかし、その姿はまだ見えない。
きっとトイレだろう、と後藤は考え始めた。バスルームはガラス張りではなく、簡易的なキッチン等と一緒に、海を望むのとは反対側の不透明な半円に収められている。トイレから出たところでドームの間近に迫った人間をいきなり目にしたのでは、新藤は驚きから即座に攻撃に転じるかもしれない。本人がそう宣言していた通り。
五メートルの距離で足を止め、後藤はどうしたものかと考えた。新藤が出てくるのを待とうか。待ったところで結局は顔を合わせるなら、衝突は避けられない。このまま引き返すか? 新藤は間違いなく籠城しているということは確認できた。再び外に出て誰かを襲う気があるのなら、あんな大げさなバリケードなどこしらえたりするだろうか?
後藤は首を伸ばし、入り口に積まれた家具をもう一度ながめた。内側のドアノブが、なにか紐状のもので家具のひとつの脚に括り付けられている。外開きのドアを固定するためだろう。
最下段に置かれたソファの足元、その陰に倒れているものに、後藤はようやく気が付いた。
息を呑む。
赤黒いなにかだ。
麻痺したように思考は鈍り、しかし足が勝手にそちらに向いた。一歩、二歩と踏み出すごとに、そのディテールが掴めてくる。床に横向きに倒れた人間。間違いなく、人間だ。
そして間違いなく、死んでいる。こちらを向いて倒れた死体の顔に、後藤は二重の意味で見覚えがあった。
新藤だ。
顔中に赤い斑点が浮かんだ、青黒い顔。
「これって——」
すぐ後ろで声がして、後藤は地面を五センチは飛び上がった。振り返ると、天羽が険しい視線をまっすぐ死体に向けている。後藤を通り越し、もう慎重さの失われた足取りでドームへと近づく。透明な半球に手を突いて、中を覗き込んだ。
「増田さんと同じ死に方っぽく見えます」
後藤は黙ってうなずいた。
「どうしてでしょう? いつ、どうして毒を口にしちゃったんでしょう? 新藤さん、未開封の食べ物しか持って行かなかったはずなのに」
「わからない」
後藤は首を振った。
「チェックが甘かったのかもしれない。犯人は注射器かなにかを使って毒を入れて、新藤さんは、小さな穴を見落としたのかも」
天羽はドームを壁伝いに移動して、角度を変えて中を見た。「食べ物っぽいものはありませんね」と断言する。「飲み物も。キャリーケースから出したような形跡がない」
後藤は天羽に追いついて、その隣に立った。天羽の言う通りだった。増田のときのように、手にしていたグラスがわかりやすくその場に転がっていたりしない。開いている缶詰や、ペットボトル等のゴミが周囲に落ちている様子も一切なかった。
「もしかして……毒は遅効性のものだったのかな」天羽は言った。
「増田さんが飲んだ毒がジンのボトルに入れられていたというのは、あくまで推測にすぎませんでしたよね。増田さんが苦しみだしたときに手にしていたのがたまたまジンの入ったグラスだった。そのグラスがたままた新藤さんのものだったから、良心を重んじる犯人が狙いそうなのは増田さんよりも新藤さんっぽいなという理由で、みんな納得してしまったけれど……もしかしたら、増田さんは夕食が始まるよりもずっと前に、すでに毒を盛られていたのかも」
後藤は強化アクリル板越しに覗ける、新藤の死に顔から目を離せずにいた。血走った目。血の泡のこびりついた唇。薬物による窒息死。「いや、でも」と反論する。
「不破くんが。あの学生が、使われた毒を知っていた。シアン化合物——というものが、遅効性だなんて言っていなかっただろ」
「カプセルにでも入れられていたとしたら、体内で溶けるまで時間を稼げますよ」
「カプセルなんて、どうやって飲ませる? こっそり飲ませるのは無理じゃないかな」
「うーん……確かに。でも、そもそもどのくらいの量を飲んだら死んでしまう毒なのかも、ビジュアル的にどんな感じの毒なのかも、俺たちにはいまいちわからないですよね。不破くんにもっと詳しく聞いておけばよかったな。彼が生きているうちに」
「ああ——でも、これではっきりした。犯人は桃木さんだ」
「え?」
天羽は振り返り、まっすぐに後藤を見た。後藤は目を逸らして遠く水平線を見やった。波の音がかすかに届く。いや、これは葉擦れの音だろうか。
「残ったのは四人だけだ」
後藤は言った。
「俺も、お前も、ミアも犯人じゃない。だから——」
桃木が犯人だ。そうでなくてはならないんだ。
後藤はちらりと視線を戻した。天羽は眉間にしわを寄せ、難しい表情をしていた。
「桃木さんは……野々村さん殺害時にヴィラにいたっていうのは、間違いないと思いますけど」
「ああ。だけど彼女は部屋にこもってひとりになっていた時間がある。どうにかして塀を越えて」
「そんな痕跡見つけられなかったじゃないですか」
天羽は首を振って言った。消去法で犯人を指名しようという後藤の態度を受け入れていないのは明らかだった。後藤は「それを言い出したら」と反論する。
「お前以外の誰にも犯行は無理だって話だろ。お前……まさか今になって、自分がやったとか言い出すんじゃ」
「俺じゃないです」
天羽は答えた。「でも」と続けようとした彼を、後藤は遮った。
「それに、考えてみれば……増田さんは死ぬ前、桃木さんと一緒に居ることが多かった。ふたりでお茶を飲んで、いかにも平和そうに仲良く喋っていたり……桃木さんなら、増田さんに警戒もされずに、毒を盛ることは可能だったんじゃないか。そう、夕食のときに効いてくるような、遅効性の毒を」
話すうちに、後藤はこれがなかなか的を射た推測なのではと思い始めた。「不破くんの殺害も」と続ける。
「停電があったとき、彼女は自室に引っ込んでいた。あのときすでに、時限式の停電装置を仕掛け終えていたんだ。そして設定した時間が迫ると、彼女はこっそり階段を降りて、玄関を抜けて庭に出た。目を暗闇に慣らし、電気が消えると、窓から侵入して不破くんを殴りつけ殺害した。窓の鍵はあらかじめ開けておいたんだ」
話せば話すほど、確信が持ててくる。桃木が犯人に間違いないと、心から信じることができそうな気がした。しかし、
「あの、俺、さっき野々村さんのところに行ったじゃないですか」
天羽はうつむいて言った。
「あれ……野々村さんの手を、確認しに行ってたんです」
「手?」
「はい。あの、桃木さんが花を摘んでいたのを見て。彼女、言ってたじゃないですか。増田さんと、それから自分のために花を集めてるんだって。それで思いついたんです。野々村さんが殺されたとき、彼の周りに散っていた花を集めていたのは……彼自身だったんじゃないかって」
「彼……自身?」
自分の死体の周りに散らす花を、自分自身で? それでは彼は……。
「自分が殺されることを知っていたっていうのか?」
「あるいは、誰かを殺そうとしていた、とか?」
天羽は首をひねる。
「あ……じゃあまさか、塙さんを殺したのは、野々村さん? 彼が塙さんを殺して……さらに誰かを殺すつもりで、その二人目の被害者のために、花を集めていた?」
そこで返り討ちに合い、図らずも自らがその被害者となった?
「そのへんの詳細は、正直俺もわかってないんです。ずっと考えてはいるんですけど」天羽は言った。
「でも、野々村さんが塙さん殺しの犯人で、さらにその次の殺人まで計画していたのだとしたら、この島には連続殺人をたくらむ人間が二人も来ていたってことになっちゃいますよね? 野々村さん以降のひとを殺した犯人だって、毒やらなにやらかなり準備をしてきてたっぽいですし。それってちょっと、偶然としてあり得ないんじゃないかなって」
「ああ、あり得ないと思う」
「でも実際、野々村さんの指先は緑色に染まってました。花を摘んだのは彼自身だった」
天羽は顔を上げた。そして、いかにも申し訳なさそうな目で後藤に告げた。
「これで、花を集めることができなかったからという言い分は、通用しなくなりました。野々村さん殺しのアリバイは、葛西さんにはなくなる」
しばらく押し黙ったのち、後藤は「うん」とうなずいた。
「そうなのかもな。でも、アリバイどうこうなんていうのは、なんの証拠にもならないだろ。ていうか、なんども言うようだけど、あのとき一番自由に動けたのは」
「そうですよね、俺でした」
天羽はうなずく。それからあらためて、自分を納得させるように「そうですよね」と繰り返した。
「まだわかっていないことがいくつもあるし……。金子先輩がどうやってつき落とされたのかも、不破くんの死体がどこに消えたのかも……そもそも最初の殺人で、塙さんと犯人が密室状態の礼拝堂にどうやって入ったのかも」
「とりあえず、ヴィラに戻ろう。ミアが心配だ。三人で固まって、桃木さんを探そう。必要なら、どこか個室にでも一晩、隔離して——暴れられたとしても彼女なら脅威じゃない。交代で見張って、朝を待てばいい」
「えっと……そうですね。とにかく戻りましょうか」
天羽はヴィラへと続く道を指さした。後藤はうなずき、元来た道を歩き始めた。
足取りは重かった。新藤の死体を見たショックはもちろんある。しかし後藤の中で、ひとの死を目の当たりにすることへの衝撃というのは、すでに感覚が薄れつつあった。今はそれよりも、ずっと仲間としてやってきた後輩との明確な意見の不一致——天羽は、桃木が犯人だと信じようとしない——に、ストレスを感じていた。連日の慣れない野歩きも足腰に影響を与え始めている。いつしか息が上がり、後藤は上り坂の途中で立ち止まり、両膝に手を突いた。
「大丈夫ですか?」
軽い足取りで前方に回り込んだ天羽がたずねた。後藤は「ああ」と答えながらも顔を上げる気にはなれず、右手に広がる林をなんとなしに見やった。湿った風が、木の葉の上にまだわずかに残った昨夜の雨をぱらぱらと散らす。目の端できらりと輝いたものに、後藤は意識をひかれた。
クモの巣だった。
ハニカム構造の六角形を持つ中心部から始まり、放射状に広がるピンと張った縦糸の合間を、ゆったりとした横糸が垂れる。ひとの髪の毛の何十倍も細い糸から成るその網は、ビーズのように付着した雨粒とささやかな木漏れ日の加減で、繊細な輝きを放っていた。
なんて完璧なのだろう、と思った。
仔馬は生まれてすぐに野を駆け、渡り鳥は遥か彼方にある未踏の目的地を見定め、ミツバチは幾何学的な正六角形の巣を造る。イワシの群れは巨大な魚影となり、カメレオンは自在に体色を変え、コトドリはあらゆる生物の声を真似、サンゴは満月に産卵する。あらゆる生物は細胞に記憶を持っている。
人間は神を信じる。
他のことはできない。
細胞に持っている記憶でしか、成せないことがある。
人間には、完璧なクモの巣を作りだすことはできない。
しかし——。
そうだ、でも、そういえば——。
後藤は記憶を巡らせた。
大学時代。皆で作り上げた舞台。一年の自分は大道具、小道具、舞台美術のすべての雑用を担った。あれは確か、ロミオとジュリエット。駆け落ちを目論む二人の計画はすれ違い、舞台は丸い月の浮かぶ豪奢なバルコニーから、地下深い霊廟へ。薄暗い霊廟には——。
後藤は上体を起こした。
陽光に目がくらむが、もう息は整っていた。「大丈夫ですか?」と天羽が再びたずねる。「ああ」と後藤はうなずく。
景色がすこし違って見えた。
それでも後藤は、その事実から目を逸らした。