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13 四日目 朝(承前)


 不破は彼女を見上げ、目を閉じることすらできなかった。
 視野が縮小し、自分へと振り下ろされる斧、その刃だけが世界のすべてになる。
 恐怖や焦燥や混乱を越えて、圧倒的な無力感が押し寄せた。
 今、自分は死のうとしているのに、どうすることもできない。
 そのとき、極限まで狭まった不破の視界の左手から、突然大きな影が現れ斧の像をかき消した。短く悲鳴が上がる。続いて、がさがさという大きな葉擦れの音。荒い息使いに、再びの悲鳴。
 不破は瞬きを繰り返し、どうにか状況を理解しようと頭を振った。そして見た。地面の上、二つの人影が右手の茂みに半身を突っ込むようにしながら揉み合っている。影のひとつはもちろん金子だった。仰向けに倒され、両手で握りしめた斧を奪われそうになるのを、身をよじって拒んでいる。
 金子の蹴り上げた脚が、もうひとつの人影の腹にまともに当たった。影はうめき声をあげ、数歩後ずさって金子から離れた。けれど、その手には金子の腕からもぎ取った斧がしかと掴まれていた。荒い息を繰り返しながら、倒れたままの金子を睨みつけている。
 後藤望だった。
 血走った目が一瞬不破へと向き、再び金子へと移る。

 後藤はみぞおちの痛みをこらえながら、茂みの中に横たわる十年来の友人を見下ろした。
 金子。
 初めて会った十八のときの彼女が、脳内にフラッシュバックする。
「お前が」
 後藤は深く息を吸った。
「お前がミアを」
「なんで?」
 金子は地面に肘をつき、わずかに上体を起こしながら、後藤を睨み返した。
「なんで後藤くんまで生きてるの? 葛西さんと一緒に、ドームに入ったのに」
 一緒に、ドームに──。
 後藤は昨夜別れたミアの最後の表情を、大きく首を振ってかき消した。今朝発見した、変わり果てた彼女の姿も。
「どうしてだ? どうやってミアを殺した? ミアは絶対に、なにも、口になんてしていない。それなのにどうして、あんな──それに、どうしてお前が生きてるんだ」
 後藤の最後の言葉に、金子は小さく笑った。
「私たち皆同じだね。なんで生きてるの? っていう。本来死んでいるべき人間」
 まあそれは皆そうだけど、と呟きながら、金子は身体を起こして髪に付いた葉を払った。
「君はドームを出たのね。入ったところは見ていたのに、出て行ったのは気づかなかったな。私が一瞬、準備があって離れたときね……どうして出て行ったの? 恋人同士で仲良くやってるもんだと思ってたのに」
「お前には関係ないよ」
「ああ、もしかしてフラれちゃった? やっぱり天羽くんのほうが好きだって?」
「違う。お前には理解できないよ。彼女が──なにに苦しんで、苦しめられてきたのか」
「わかんないけどさ。でも結局、君は彼女を置いてドームを出て行ったんだね。だから彼女だけが死んだ」
 金子の言葉を受けて、後藤ははっと気が付いた。
「ドームに何か仕掛けがあったのか? それでミアは──まさか、新藤さんも」
「そうだよ」
 金子はうなずく。
「ドームは密閉されていて空調もシンプルだから、換気扇から青酸ガスを送り込んだの。増田さんを殺すのに使ったのと同じ、シアン化合物ね。シアン化合物は液体を飲み込んでも気体を吸い込んでも結局は同じ症状で死ぬんだ。きちんと解剖されたら、消化器官と肺、どちらにより深いダメージを受けたかわかるから、どうやって毒が取り込まれたのかもわかっただろうけど」
 毒ガス。単純な話だった。
 増田と同じ死に方をしているという点から、後藤も天羽も新藤の死体を見て、同じ毒による殺害だと判断した。それは間違いではなかった。しかし、毒の摂取方法までもが同じだと思い込んでしまったのが誤りだった。経口摂取による毒殺と同じ毒が、ガスとして使われるという発想がわかなかった。
 後藤は激しい後悔に襲われた。こんなシンプルなことに気づかなかったがために、ミアを失ってしまった。
「ていうか、もしかして不破くんなら気づいたかもね。毒に詳しい子がいるなんて思ってなかった。ドームで何人か殺す計画は捨てたくなかったから、急いで不破くんを殺したつもりだったんだけど」
 後藤は坂の数メートル下で、呆けたようにこちらを見ている不破にちらりと視線を向けた。白い包帯がぐるりと巻かれた頭。森の中に息を潜め、金子に飛び掛かるタイミングを計りながら、後藤もその顛末を聞いていた。しかし、
「あの暗闇の中で、どうやって不破くんを殴ったんだ? 金子はキッチンのカウンターの中にいた。不破くんが倒れていた窓際までは距離があったはずなのに、闇の中をどうやって移動して……」
「目を閉じてたんだよ。停電の瞬間まで」
 金子は地面にぺたりと座り込んだまま、自らの目を指さした。
「あと私、眼精疲労がひどいから。目の筋肉を緩めて、瞳孔を開く目薬を処方されてるの。それを差して、あとは時間まで目を閉じて、暗闇に目を慣らしてた。直前まで新藤さんと話してたけど、途中からは彼に背中を向けてたし、気づかれてなかったと思う。急な停電で皆が混乱に陥っていたとき、私には不破くんも、そこまでの動線もちゃんと見えてた」
 またしても単純な話だった。しかし、その単純さは計画としてあまりに杜撰であるようにも思えた。「そんなの誰かがスマホのライトでも使えば、一発でバレてたじゃないか」と後藤は吐き捨てるように言った。
「確かにそう。でも、スマホは一日中ずっと圏外になってたでしょ? だから普段と比べたら、皆そこまでスマホを肌身離さず持ってはいないんじゃないかなと思って。圏外にしていたのも、もちろん私なんだけどね」
「え」と声をもらしたのは不破だった。「でも、いったい、どうやって──」
「最初の日の夜に、ヴィラに電波遮断器を仕掛けておいたの。私も一個、持ち歩いてる。だから、ヴィラの中と私の周りはずっと圏外だったんだよね」
 そう言って金子は、背負っていたリュックサックを身体の前に回し、上部のファスナーを開けた。取り出したのは手のひらよりやや大きなサイズの、ルーターやモデムに似た薄く黒い箱型の機器だった。アンテナのような突起がいくつか伸びている。
「そんなもの、どこで……」
 後藤が言う。金子は肩をすくめて、
「ネットで普通に売ってるよ。毒だってネットで買ったの。メッキ加工業者のふりをして申請を出して……こんな使い方をしたらすぐに足が付くだろうけど、それはもう、どうでもいいことだし」
 どうでもいい、という投げやりな言葉に、後藤はあらためてこの古い友人を見下ろした。
 金子は死んだものと思っていた。
 初めから死んだふりをして逃げ延びるつもりで、好き放題に動いていたのか。
「あの崖下の死体は」
 後藤はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「あれは、誰だ?」
「ああ……まだわからない?」
 金子は眉間にうっすらと皺を寄せた。
「あれは、ちえみ先輩だよ」
 後藤の脳裏に、小柄で快活で、いつも爛々と光るような目をしていた先輩の姿が思い浮かんだ。後藤は彼女の強すぎる瞳があまり得意ではなかった。後藤には、それはともすれば常軌を逸しかけているような、不安定な危うさをはらんで見えた。
 あの死体が、ちえみ先輩──? そんなはずはない。彼女が自ら命を絶ったのは、後藤が留置所で拘留延長を受けていたときだと聞いている。もう四年も前の話だ。
「死体じゃないよ、もちろん。やだな、あたりまえでしょ」
 後藤の反応を見て取って、金子は小さく笑った。
「あれは人形。ちえみ先輩が『ドール』の舞台のために作った、先輩の等身大のお人形だよ」
「人形?」
 ドール、という舞台名には後藤も聞き覚えがあった。ちえみ先輩が逮捕されたときに出演を予定していた舞台だ。先輩も金子と同様に不起訴になり、すぐに拘留は解かれ、しかしその死によって、結局出演は叶わなかった、と。
「あれが人形? でも、髪だって、足だって、細かいところまで、ちゃんと人間みたいな──」
「だから、ものすごくお金がかかったんだよ。予算なんてまるでない小劇団のくせに、そこのクオリティだけは落とせないからって。本当に、馬鹿みたいなお金をかけてたの。外から見たら、あの劇団員のひとたち、集団幻覚にでもかかってたみたいだった。皆生活を切り詰めて、たぶんその苦しさがまた、自分たちが作り出す舞台に対する信仰心を掻き立ててたのね」
 金子は気の毒そうにつぶやいた。
 後藤は崖下に落ちていた人影の、波に洗われて光るてらてらとした肌の質感を思い返す。言われてみれば、金子とちえみ先輩は体格がそっくりだった。そこに宿る生命力の違いから、そう意識することはなかったけれど。
「復讐か」
 後藤はつぶやいた。これまでになんどか考えていたことだった。今回のことに、北原先輩と過去の事件が関わっているのではないかと。
「それならどうして他のひとたち──俺らがやったこととは無関係なひとたちまで、巻き込んだんだよ。肝心の北原先輩はまだ塀の中だ。なのにどうして──不破くんなんて、まるで関係ないだろ」
 後藤は斧を掴んだ腕を伸ばし、膝立ちで木にもたれる不破を指した。
「復讐じゃないよ。ぜんぜんそんなんじゃない」
 金子は首を振った。それからひとつ息をつき、頭上に広がる澄んだ朝の空を仰いだ。
「だってちえみ先輩は、私が殺したんだから」

(つづく)