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 おばあちゃんとの出会いは、アバズレさんや尻尾のちぎれたあの子とのように大変な出会いだったわけではありません。大変じゃないというのは、出会った時に私が悲しそうだったり苦しそうだったりの顔をしていなかったということです。
 私の家の近くの丘、木々の間をのぼっていくと広場が現れて、そこに木で出来た大きな家があります。
 ある日、この家を見つけた私は、ここらへんでは珍しい木の家がとても素敵に思えて、ずっと見ていました。しばらくして、あまりにも静かなので誰も住んでいないのかしらと思って玄関をノックすると、笑顔の素敵なおばあちゃんが出てきてくれました。
 その日から、私とおばあちゃんは友達になりました。
 今日もいつもと同じように、木で出来た大きなおうちは素敵なままでした。
「おばあちゃんの作るお菓子はどうしていつもこんなに美味しいのかしら」
「生きてきた時間分、どうやって作れば美味しくなるのかを知ってる。それだけ」
 おばあちゃんはなんでもないことのように、お茶を飲みながら言いました。私はおばあちゃんの作ったマドレーヌを食べながら、その美味しさの秘密を解き明かそうとします。尻尾のちぎれた彼女は、居間と原っぱに面した板張りの廊下で日向ぼっこをしています。
 低いテーブルの置いてある畳の部屋でマドレーヌをもぐもぐしながら、私は今日おばあちゃんとしたかった話を切り出します。
「おばあちゃんに教えてもらった『星の王子さま』、学校の図書室にあったから読んでみたわ」
「面白かった?」
「んー、言葉は素敵だったけれど、私には難しかったわ」
「そうかい。なっちゃんはやっぱりかしこいね」
「そう思ってたんだけど、まだまだね。ちっとも分からなかったんだもの」
「分からなかったことをきちんと分かっているのが大事なのよ。分かってもいないのに分かっていると思いこんでるのが、一番よくない」
「そういうものかしら」
「分からないなりに、何か心に残ったことはあった?」
「そうね、私には箱に入った大人しい羊より、一緒に散歩をしてくれる猫の方が似合ってそう」
 おばあちゃんは優しく笑って、廊下で眠るあの子を見ました。
「せっかくなっちゃんに褒められてるのに、幸せそうに寝ちゃって」
「いいのよ、あの子すぐに調子に乗るんだから」
 彼女はちぎれた尻尾を揺らしてあくびをしました。私にもうつって、はしたなく大きな口を開けてあくびをしてしまいます。あくびの拍子に思い出し、私はアバズレさんにしたのと同じ話をおばあちゃんにもしました。あの、学校での話です。
 私がきちんと一から話すと、おばあちゃんはアバズレさんと同じように大笑いしました。
「そうかいそうかい。校庭も走らされて、放課後に残されもして、そりゃあ大変だったねぇ」
「そうでもないわ。いえ、体育は嫌だったけど、残ったのは大変でもないの。ひとみ先生のことは好きだから」
「素敵な先生だね」
「ええ、素敵な先生。ちょっと的外れだけどね。うふ、このやりとりアバズレさんともしたわ」
「今日はオセロ勝てたのかい?」
「一回だけよ。でも、その一回もたった二枚差だったもの。いつかオセロが強くなる日がくるのかしら」
「くるさ。なっちゃんには先を見る力があるからね。ゲームにはその力が不可欠なんだよ」
 おばあちゃんの言うことは嘘じゃない、そう分かったので、とても嬉しくなりました。おばあちゃんの言葉や笑顔からは、お線香とは違ういい匂いがします。他の大人達とは違う、匂い。前にそのことをおばあちゃんに言うと、おばあちゃんは笑いながら「もう大人を卒業しちゃったからかな」と言いました。
「じゃあ、アバズレさんにも先を見る力があるのね」
「どうかな。大人は子どもと違って過去を見る生き物だから」
「でも、アバズレさんは私より強いわ」
「生きてる時間が長いからね。どうやったら勝てるのか、なっちゃんよりもよく知ってるのさ」
 おばあちゃんは生きてきた時間のことをよく言います。確かに、おばあちゃんは私がこれまでに生きた時間を七回も過ごしているのだから、それくらいあれば私にだって美味しいマドレーヌが焼けるかもしれません。
 一つ目のマドレーヌを食べ終わり、お皿に載った二つ目に手を伸ばそうとしたけど、結局何も取らずに手をひっこめました。今日はヤクルトもアイスも食べているのに、この上マドレーヌを二個も食べてしまったら、お母さんの作った夜ご飯が食べられなくなってしまいます。
 マドレーヌのことを忘れるために、私は違うことに頭を使うことにしました。
「おばあちゃん、今度学校で幸せについて考える授業があるのよ」
「それは面白そうな授業だね」
「そうなの。だけれど、とても難しいわ。いくつでも言っていいのならいいんだけど、授業の時間って限られているし、クラスには私だけじゃないから」
「そうだね。きちんとまとめて、物事の真ん中をつく答えをしなくちゃいけない」
「ひとみ先生をびっくりさせて、皆を納得させるような答えを見つけたいわ」
 私はひとみ先生に褒められる自分を想像し、得意になりました。つい調子に乗って、マドレーヌに手が伸びそうになりましたが、すんでのところで我慢します。おばあちゃんがそれを見て笑いました。
「おばあちゃんの幸せは、何?」
「私の幸せねぇ。たくさんあるよ、こうして晴れた日にお茶を飲めることとか、一人で暮らしてる寂しい私のところになっちゃんが来てくれることとか。だけど、一つの答えを探すっていうのは、難しいわね。考えておくよ」
「うん、考えておいて。そういえば、おばあちゃんは今、幸せ?」
 おばあちゃんはお茶を一口飲んでから、笑顔で答えました。
「ああ、幸せだった」
 おばあちゃんは本当に幸せそうで、私まで幸せな気分になりました。廊下の方に目を向けると、これまたあの子が幸せそうに眠っています。この木の家に今、幸せの成分が充満しているのかもしれないと思いました。
「そうだおばあちゃん、またおすすめの本を教えて」
「トム・ソーヤーは読んだことあるって言ってたね」
「ええ、面白かったわ」
「じゃあ、トムの親友が主人公の話は?」
「宿なしハックのこと? 別の本があるの?」
「あら知らないのね、『ハックルベリー・フィンの冒険』。これも面白いよ。図書室になかったらひとみ先生に訊いてみるといいかもね」
 私はとてもいいことを聞いた、と、『ハックルベリー・フィンの冒険』という名前を大切な思い出をいれるのと同じ場所にきちんとしまいました。
 私とおばあちゃんは本のお話をするのがとても好きです。だからいつも時間が経つのを忘れてしまいます。
『星の王子さま』の中で一番好きだった話はどれか。私は王子さまと薔薇の話が好きだったわ。とても愛らしく感じたの。おばあちゃんは? 私はウワバミがゾウを食べた絵の話かな。
 そんな話をしていると、外はすっかりオレンジ色になっていました。壁にかかった時計を見ると、いつの間にか五時半になっています。六時までには、家に帰らなくてはなりません。お母さんと、そういう約束なのです。
 私は尻尾を揺らす友達を起こし、おばあちゃんにさよならをします。
「それじゃあまたね、おばあちゃん」
「気をつけて帰るんだよ」
「うん。ハックの本、探しておくわ」
 玄関まで出てきて見送りをしてくれるおばあちゃんに手を振って、もう一人は尻尾を振って、私達は丘の散歩道を下ります。オレンジ色の道がとても綺麗です。こういうサヨナラの時、私は寂しくはなりません。だって、私には明日も明後日もあるのだもの。
「しーあわーせはー、あーるいーてこーない。だーからあーるいーていーくんだねー」
「ナーナー」
 尻尾のちぎれた友達とも途中で別れ、家に帰り宿題をしていると、六時半くらいにお母さんが帰ってきました。お母さんは、土曜日も日曜日もたまにしか家にいないけれど、夜ご飯の時間だけは必ず家にいてくれます。だから、私はずっと夜ご飯の時間だったらいいなと思うけれど、そうしたら朝ごはんのヨーグルトを諦めなければなりません。
 今日の夜ご飯はカレーライス。私はヤクルトもアイスもマドレーヌも食べたのに、カレーライスをおかわりまでしてしまいました。
「ダイエットしなくちゃいけないかしら」
 お母さんは「そんな必要ないわよ」と言って笑って、会社で貰ったというクッキーを私にくれました。私は迷った末、そのクッキーにバニラアイスクリームをのせて食べました。
「幸せってクッキーに好きなアイスをのせられるってことかもしれないわね」
 目の前に座ったお母さんは「私はコーヒーと一緒に」と言ってクッキーを熱いコーヒーに浸して食べました。
 それから、いつもと同じようにお風呂に入った後、私は十時には眠くなってしまって、いつもと同じようにお母さんにも、寝てる間に帰ってきたお父さんにも、アバズレさん達の話はしませんでした。

 

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