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先生、頭がおかしくなっちゃったので、今日の体育を休ませてください。
小学生なりの小さな手をきちんとあげ、立ちあがってそう言ったら、放課後職員室に来なさいと言われた上に、校庭もちゃんと走らされてしまったことについて、私、小柳奈ノ花は納得がいっていません。
皆が帰った後の職員室に一人呼びだされたのだから、何か注意をされるというのは分かっていたけれど、先生と向き合ってもなお、私の中に悪びれるという気持ちはありませんでした。
「あのね、先生は私がふざけてあーいうことを言ったと思っているのかもしれないけれど、私には私なりの計算があって、もっと言えば勝算まであったのよ」
椅子に座って私と視線を合わせたひとみ先生は、腕を組んだまま、「なんなの? その勝算っていうのは」と、優しい顔で言いました。
私も負けじと短い腕を組んで先生に教えてあげます。
「昨日テレビを見ていたの、どこかで起きた事件について色んな人が思ってることを言うって番組だったわ。そこで偉そうな人が言っていたの、日本では頭がおかしい奴は嫌なことから逃げられるって。それで、その偉そうな人が誰なのかお母さんに訊いたら、大学の先生だって。大学の先生がそう言うんだから、当然小学校でも通じる理屈のはずでしょう? 大学の下が高校、その下が中学校、その下が小学校だものね」
私は先生が感心してくれると思って、胸を張って自分の考えを披露したのだけれど、先生は意外にもとても困ったような顔をして、いつもより少し深い息を吐きました。
「どうしたの、先生」
「えっとね、小柳さん、自分でそういうことを考えて、きちんと言葉に出来るのは、あなたがとても頭がいいからだし、とってもいいことだと思う」
「私もそう思うわ」
「自信があるのもね、とてもいいこと。だけれど、あなたのその才能を伸ばすために、先生からいくつかアドバイスがあるんだけど、聞いてね」
「ええ、いいわ」
先生はにっこり笑って、人差し指を立てます。
「うん。まず一つ目、思いついたことをすぐにやってみるのも大事だけど、その前に時間をかけて考えて、待ってみることも同じくらい大事なの。分かる?」
私は首を縦に振ります。先生の方は、人差し指に続いて中指を立てます。
「二つ目、嫌なことから逃げるのがいいとは限らない。逃げてもいい場面もあるけど、でも体育は健康にとてもいいことだし、かけっこだって前より速く走れたでしょ?」
確かに先生の言った通り、今日のかけっこは前走った時よりも少し速く走ることが出来ました。でも、足はくたくた。本当に健康にいいのかしら?
先生は続いて薬指を立てます。
「そして三つ目、私はその大学の先生が言ったことは間違ってると思う。テレビに出てる人や偉い人の言ってることが正しいとは限らないの。それが正しいかどうか、あなたがちゃんと考えなくちゃいけない」
「じゃあ、っていうことはね、先生」
「うん」
「ひとみ先生の言ってることも、正しいかどうか分からないってことよね」
先生は柔らかく私を見て、「そうよ」と答えました。
「だから、それもあなたが考えないといけないの。だけれどね、これだけは信じて。先生はあなたに幸せになってほしいし、皆と仲良くなってほしいって心から思ってる。分かる?」
先生はこれまで何度も見せてきた真面目な顔をします。私はひとみ先生のこの顔が好き。他の先生達の顔と比べて、嘘が少ない気がするから。
私は先生が言ったことをよく考えてみて、もちろん首を縦に振ることも横に振ることも検討した上で、丁寧に頷くことにしました。
「分かったわ。私、大学の先生よりひとみ先生を信じる」
「うん、じゃあこれからはクラスで何かをしてみようって時には、先生にまず相談して」
「私がそれを正しいと思ったらね」
「ええ、それでいい」
先生は本当に嬉しそうに笑って、私の頭をぽんぽんとしました。その顔を見て、きっと先生は本当に私の幸せを願ってくれているんだと思いました。同時に、こうも思いました。
「ひとみ先生の言う、幸せっていうのはどういうこと?」
「そうねえ、たくさんあるけど、そうだ、小柳さんには先に教えてあげる。明日からの国語の授業で、幸せって何かってことを考えるの」
「へぇ、とても難しそう」
「うん、とっても難しいけれど、先生も皆もそれぞれに、自分にとっての幸せは何かを考えるの。だから、小柳さんも自分なりに幸せって何かを考えてみて」
「分かったわ。考えておく」
「ええ、クラスの皆にはまだ内緒よ」
ひとみ先生は、人差し指を立てて唇にあて、へたくそなウインクをしました。それから、隣の席に座っていたしんたろう先生の机の上から勝手にチョコレートを取って、言いました。
「私の幸せ、まず一つ目は甘いもの」
「それは私にとっても幸せかもしれないわ」
私がしんたろう先生を見ると、彼は笑って「皆には内緒だぞ」とこれまたへたくそなウインクで、私にもチョコレートをくれました。
「それじゃあね、先生」
職員室の入り口で、私は先生に手を振りました。
「気をつけてね。そういえば、いつもは誰と一緒に帰ってるの?」
「子どもだけど、家までくらい一人で帰れるわ」
「そう。今日は先生が残しちゃったけど、明日からは皆と一緒に帰るのも楽しいから、やってみなさい」
「考えておくわ。でもね、先生」
私は貰ったチョコレートを口に放りこんで先生に教えてあげます。
「人生とは、素晴らしい映画みたいなものよ」
先生は楽しそうに少し首を傾げます。この手のことを私はよくひとみ先生に言うんだけれど、先生はいつもちゃんと考えてくれます。
そして大体、的外れなのです。
「うーん、あなたが主人公ってこと?」
「違うの」
「えー、降参。どういう意味?」
「お菓子があれば、一人でも十分楽しめるってことよ」
私はいつもの困った顔をした先生に背中を向けて、退屈な小学校からさっさと家に帰ることにしました。
家に帰っても誰もいないので、私はランドセルを自分の部屋に置いた後、すぐに外へと出かけることにしています。きちんと家の鍵をかけて、マンションの十一階からエレベーターで一階まで下り、エントランスの自動ドアを開けて外に出るのです。
ガラス扉から飛びだすと、ちょうどそこに友達が歩いてきました。彼女は私の下校時間を見計らって、いつも私の家の周りをうろついています。私の家は、周りにある他の建物と比べて一際大きなマンションなので、彼女でも見つけやすいのでしょう。
私は、彼女に挨拶をします。
「ごきげんよう」
彼女は最初から私に気がついていたくせに、まるで初めて私がいることを知った風な顔をして、「ナー」と鳴きました。
「そんな白々しい演技じゃ、女優になれないわよ」
「ナー」
彼女は相変わらずのちぎれた尻尾をぴこぴことさせながら、私が行こうと思っていた方向に歩きはじめます。私の小さな歩幅でも、彼女のそれよりは大きく、私はすぐに彼女と並ぶことが出来ました。勝ち誇って「ふふん」と笑ってみせると、彼女はぷいっと顔を背けます。まったく、可愛げのない子です。
同じ目的地に歩いていく間、私は小さな友達に今日あったことを話してあげました。
「なあんてことがあったのよ」
「ナー」
「人と人の考えは食い違うことがあるのよね。猫の世界でもそういうことがあるの?」
「ナー」
「そうね、違う生き物なんだもの、分かり合うって難しいわ」
彼女は興味がなさそうにまた「ナー」と鳴きました。いつも私の話にはあまり興味がなさそうです。猫の生活に私の悩みなんて関係がないからかもしれないけれど、ちょっと失礼しちゃう。
仕方がないので、私は彼女も楽しめるよう歌を歌ってあげることにしました。生意気な彼女を振り向かすのは、ミルクと私の歌くらいのものなのです。贅沢ものの猫。
私は、一番好きな歌を歌います。
「しーあわーせはー、あーるいーてこーないー」
「ナーナー」
「だーからあーるいーていーくんだねー」
彼女は気がないふりをするくせに、いつもより多く抑揚をつけて鳴きます。彼女の歌声はとても綺麗です。彼女は教えてくれないけれど、こんな綺麗な歌声を持っているのだから、きっと彼女のことを男の子達は放っておかないでしょう。
二人で歌いながら歩く静かな道の先、私達は大きな川の堤防に突き当たります。階段を使って堤防をのぼると、周りに大きな建物がないので、勢いよく吹く風に髪をなでられるのがとても気持ちいいです。向こう岸には隣町があって、私達の町とは少し匂いが違う様に思えます。
ここの河川敷は子ども達の遊び場所になっているのですが、私はそっちに興味はありません。尻尾のちぎれた彼女は少しばかり河川敷に転がるボールに興味があるようでしたが、彼女もミルク以上にボールが好きなわけじゃありません。
私達は川の横を通る堤防の道を歌いながら歩きます。途中すれ違った人や段ボールに座っているおじいさんに挨拶をして、商店街でよく会うおばあちゃんに飴玉をもらったりしながら歩いていくと、すぐに私達の目的地を発見しました。
クリーム色の二階建てアパート。堤防から階段を使って下り、四角いバタークリームケーキみたいなそのアパートに近づきます。
尻尾のちぎれた彼女にあまりうるさくしないよう注意をして、二人一緒にかんかんと音が鳴るアパートの階段をのぼりました。
私より一歩先にかけあがった彼女は、二階の廊下の突き当たりにあるドアの前で早速「ナーナー」と鳴きはじめます。静かにと言ったのに、彼女、言われたことをすぐに忘れてしまうことがよくあります。私みたいにかしこくないのです。
私は上品にドアの前まで足を運び、チャイムに背が届かない彼女の代わりに押してあげます。
部屋の中にぴんぽーんという音が響いて数秒後、私が足元にいた一匹のアリを見つけるのよりも早く、ドアが開きました。
『また、同じ夢を見ていた』は全4回で連日公開予定