中からはいつもと同じようにTシャツと長ズボンを着た綺麗なお姉さんが出てきました。今日はいつもより、髪がはねまわってて眠たそうでした。
「こんにちは!」
「はい、こんにちは。お嬢ちゃん、今日も元気だね」
「ええ、元気よ。アバズレさんは、今日は元気じゃないの?」
「いや、元気だよ。ただ、さっき目が覚めたところなんだ」
「もう三時過ぎよ?」
「この時間が朝だっていう人間だっているさ。私がそうだ」
「他にいるの?」
「ほら、アメリカ人とか」
私はアバズレさんの適当な言い方がおかしくて、くすくすと笑いました。アバズレさんも私につられたのか、笑いながら首の辺りをかいて「入りなよ。猫ちゃんもお腹空いたろ」と言いました。私は靴を脱いでアバズレさんの家にあがらせてもらい、尻尾のちぎれた彼女はドアの外で待機しました。まったくこんな時だけ行儀がいいのだから、彼女は悪い女です。
アバズレさんは古いお皿にミルクを入れて外にいる彼女にあげて、それからドアを閉め、私に一本のヤクルトをくれました。私はそれを飲みながらアバズレさんが寝癖をなおすのを見つめます。
私は学校のある日は大体ここに遊びに来ることにしています。アバズレさんは大人なので忙しく、私が来た時にいないことも多いのですが、いる時はこうしてヤクルトや、たまにアイスをくれたりします。外でミルクを飲んでいるあの子も、アバズレさんが優しいのを分かっているから、ミルクを楽しみにしていつもついてきます。
アバズレさんは窓を開けて冷蔵庫からサンドイッチを取り出して、ぐちゃぐちゃになったベッドの上に座りました。私は四角い部屋の真ん中に置かれた丸いテーブルの横に座って、ヤクルトを味わいます。
「学校はどうだった、お嬢ちゃん」
たまごサンドをむしゃむしゃと食べるアバズレさんの長い髪は、窓からの光に照らされて天使みたいに透き通ります。私はさっき尻尾のちぎれた彼女に説明した今日の話を、今度はアバズレさんにしました。途中までただ頷いていたアバズレさんだったのですが、私が「アイデアはよかったんだけど実力がともなってなかったわ」と言うと大きな声で笑いました。
「お嬢ちゃんが頭がおかしいとは、誰も思わないだろうな」
「どうして?」
「お嬢ちゃんはかしこいからさ。かしこいから、ちょっと変なことをしても、きっと何か考えがあるんだろうって思われるよ。だから職員室に呼びだされたんだろう?」
「そうね、それなら次からはもっと頭がおかしそうな顔をするわ」
私が斜め上を向いて舌を出すと、アバズレさんはまた大きな声で笑いました。
「その先生はいい先生だね」
「そうなの、とてもいい先生なのよ。時々、的外れだけれど」
「大人なんてみーんな、的外れだよ」
アバズレさんはそう言って立ちあがり、冷蔵庫から缶を持ってきてぷしゅっと開けました。
「それ、甘いの?」
「甘いけど苦いよ」
「どうして苦いものをわざわざ飲むのかしら。アバズレさん、コーヒーも飲むじゃない。あれもとっても苦いわ。我慢してるの?」
「いいや、好きだから飲んでるのさ。お酒もコーヒーもね。私も子どもの頃はコーヒー飲めなかったよ。苦いのをありがたがるのは大人だけだ」
「なるほど、じゃあ私にも苦いのを美味しいと思える日がくるかしら」
「くるかもね。だけど、無理に飲む必要はないよ。甘いものだけを美味しいと思えるって、素敵だと思う」
アバズレさんは透き通る笑顔で言いました。アバズレさんの言葉や笑顔からは、香水とは違ういい匂いがします。他の大人達とは違う、いい匂い。前にそのことをアバズレさんに言うと、アバズレさんは笑いながら「それは私が立派な大人じゃないからだよ」と言いました。それが本当なら、私は立派な大人にはなりたくないなと思いました。
「人生はプリンみたいなものってことね」
「どういう意味だい?」
「甘いところだけで美味しいのに、苦いところをありがたがる人もいる」
「あははっ、その通りだ」
笑ってアバズレさんはお酒をくうっと飲んで、「やっぱりお嬢ちゃんは頭がいい」と言いました。褒められると、私は嬉しくなります。
「アバズレさんは、お仕事で何か面白いことはあった?」
「仕事で面白いことなんてないよ」
「そうなの? でもうちのお父さんとお母さんは仕事が大好きみたいよ。いつもおうちにいないもの」
「いつも仕事をしてるからって、仕事が面白いとは限らない。もし面白くてやってるんだとしたら、それは凄く幸せなことだけれどね」
「きっと面白いのよ。私と遊ぶよりもずっと」
「寂しいのなら、寂しいってちゃんと言った方がいい」
「そういうのって、かしこくないわ」
私は首を横に振りました。
そして今の会話の中で気になったことをアバズレさんに訊きます。
「お仕事が面白くないってことは、アバズレさんは幸せじゃないの?」
アバズレさんは、私の質問には答えませんでした。代わりに薄く笑って「私の今の一番の幸せはお嬢ちゃんが来てくれることかな」と言いました。それは大人達がよくする誤魔化しのための嘘なんかではないと分かったので、とても嬉しくなりました。
「しっあわせはーあーるいーてこーないー、だーかーらあーるいーていくんだねー」
「私もその歌好きだなぁ。一日一歩、三日で三歩」
私達は二人で声を合わせて「さーんぽ進んで二歩さがるー」と歌いました。
「そういえば幸せって何か、考えなくちゃいけないわ。授業で発表するの」
「へぇ、私が小さい頃もそういうのあったよ。懐かしい。お嬢ちゃんの幸せか、なんだと思う?」
「まだ分からないわ、考え始めたばかりだもの」
「難しい問題だね。じゃあ、幸せのヒントにアイスを食べる?」
「いただくわ!」
私とアバズレさんは、二人で一本ずつ棒のついたソーダアイスを食べながら、いつものようにオセロをすることにしました。オセロはアバズレさんが子どもの頃から持っていたものだそうです。
私も前にお父さんに買ってもらったのですが、うちには私とオセロをしてくれる人はいません。
でも、いつかアバズレさんが私の家に来た時にもオセロが出来るので安心です。私とアバズレさん、どっちが強いかというと、いつかは私の方が強くなってみせます。
アバズレさんが二回勝って、私がやっと一回勝った時、アバズレさんが壁にかかった時計を見ながら、「お、もう四時だ」と言いました。私は時間が過ぎるのってやっぱり早いわと思いながら、オセロを片づけることにしました。
「アバズレさん、ヤクルトとアイスごちそうさまでした」
「いえいえ、おばあちゃんによろしくね」
私はいつも四時くらいになったらアバズレさんの家を出ることにしています。本当はもっともっとお話もオセロもしたいのですが、実は他にも行くところがあるのです。
私は小さな足にぴったりなピンク色の靴を履いて、もう一度アバズレさんにお礼を言って、ドアを開けました。外では、ミルクを飲みほした彼女が行儀よく座って待っていました。アバズレさんはミルクが入っていたお皿を優しく拾い上げます。
「また遊びに来るわね」
「うん、またいつでも来たらいいよ」
「アバズレさんは、今日これからの予定は?」
「ちょっと寝ようかな。仕事に備えて」
「お仕事頑張ってね。体に気をつけて」
「はいはい。お嬢ちゃんも頑張って幸せを見つけて。歩いて見つかったら私にも教えてね」
「うん。それじゃあ、お休みなさい」
アバズレさんに手を振って、私はドアを閉めました。アバズレさんは、私が眠った後に始まって起きる前に終わる、不思議なお仕事をしています。私はアバズレさんの仕事をきちんとは知りませんが、暗い時に働いて明るい時に寝るなんて私にはきっと出来ないので、それだけでも尊敬してしまいます。
尻尾のちぎれた彼女と階段を静かに下りながら、私はアバズレさんの仕事について考えました。前にどんな仕事をしているのか訊いた時、アバズレさんは笑いながら「季節を売る仕事をしてるんだ」と言いました。
その響きに私は、きっとそれはそれは素敵な仕事なのだろうなと思いました。
『また、同じ夢を見ていた』は全4回で連日公開予定