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死の定義がわからない

 他人との会話がほとんどない高齢者が多い。
 それはつまり、日常的に交流する相手が皆無に近いことを意味する。
 そんな状態であれば、当然ながら死んでも誰も気づいてくれないだろう。これは相当寂しい。いや、寂しいだけではない。死体の発見が遅れれば遅れるほど、現場は無残なことになる。体は腐乱し、最期を迎えた場所は臭気と虫で満ちていく。こうなると尊厳もクソもあったものではない。
 伝統的な仏教画のジャンルに「そう」というものがあるのをご存じだろうか。
 これは、女の死体が、死にたてほやほやの状態から土に還っていくまでの過程を九つの段階に分けて描いたものなのだが、一つ一つの描写がかなりエグい。
 連作画の一番目は生前の姿である。たいてい若くて美しい女性だ。モデルは檀林だんりん皇后(嵯峨天皇の皇后)とも小野小町ともいわれるが、とにかく我が世の春を思わせる。しかし、そんな彼女も二枚目では儚く世を去り、死相もあらわに横たわっている。
 だが、九相図の本番はここからだ。
 三枚目で無残にも野原に放置された死体は、ガスの発生によって全体的に膨らんでいる。平安京では貴人や有力者でもない限り墓は築かず、決まったエリアに遺体を打ち捨てたという。野蛮な風習のようだが、大自然の循環に人も加わるのだと思えば、これはこれで理にかなっている気がする。当然、墓の心配もない。本来、人の死とはこうあるべきなのかもしれない。もっとも、一億以上も人口がある現代で風葬なんかしたらとんでもないことになってしまうが。
 とにかく、四枚目以降では腐乱が進んで形の崩れた体が虫や鳥獣に喰われ、骨が見え始め、九枚目ではとうとうバラバラの白骨になって転がるばかりになってしまう。
 どれほど美しい人でも死ねば醜く崩れるし、詰まるところは骨になるだけだから、世の無常を理解し、煩悩を断つのがベストなんですよ、と教えるための方便として使われた絵画だそうだが、私には「遺体は腐らないうちに焼くのがベストなんですよ」という教訓に見える。
 正直、私は「死」そのものはさほど怖くない。だが、死んだ後に長期間発見されず、九相図の道をたどるのだけは本当に嫌だし、絶対避けたい。避けるためには、一人暮らしでも死んだらすぐに見つけてもらえる体制を整えておかなければならない。
 ということは、どういう死を迎えたいかよりも、どんな死は嫌か、そこを明確にすることがこの旅の第一歩なのではないか。そう気づいた私は、まず「これだけは絶対嫌な死に方」をリストアップするところから始めることにしたのである。
 そして、「どんな死に方が嫌か」を考えるにあたり、思考の混乱を防ぐため、まず方針を決めることにした。
「死に方」とざっくり括っているが、「死因」と「死んだ時の状況」は分けて考えた方がいいだろう。
 たとえば、死因が凍死として、死んだ時の状況が自室なのか、自宅近くの道路なのか、冬山なのかでは取るべき対策が大きく異なる。
 自室での凍死を想定するとなると、貧困から社会崩壊まで幅広いシナリオを考える必要がある。
 だが、死に場所が自宅近くの道路だった場合、ほぼ百パーセント「真冬に泥酔し、うっかり外で寝てしまって凍死」なので、対策は「泥酔するまで飲むな」の一択になる。冬山に至っては「そもそも行くな」で終わってしまう。
 ことほどさように死因と死ぬ時の状況──毎回「死ぬ時の状況」とタイピングするのも面倒なので今後は「死況」という造語を使うことにするが──は峻別されるべきなのだ。
 そんなわけで、まずは死因である。
 ……と、さっさと話を前に進めるのがエッセイの定石だろう。だが、その前にどうしてもチェックしておきたいことがあった。
「死」と「寿命」の今日的定義である。

定義を調べてみた

 なんでそんな基本からなの? 今さらそこはどうでもよくない? と思ったかもしれない。まあ、私も多少はそう思わないでもない。でも、気になるんだもの。しょうがないじゃない。「細かいところまで気になってしまうのが僕の悪い癖でしてね」と心の中の杉下右京に言い訳をしてもらいつつ、とりあえず参考になりそうな本を書棚から探すことにした。
 そうして見つかったのが『ゾウの時間 ネズミの時間』の著者として有名な本川達雄氏の著書『人間にとって寿命とはなにか』と雑誌Newton別冊『死とは何か』の二冊だった。
 なんというお誂え向き! 特に前者など帯文が「42歳を過ぎたら体は保証期限切れ」である。まさに私が気になっているところではないか! こいつは春から縁起がいいやとばかりに意気込んで読み始めた、のだが……。
 え? ナマコ? 冒頭いきなりナマコの話なの?
「ナマコは動かない」なる小見出しに大いに戸惑う私。
 だが、負けずに読み進めていった。いったのだが、以後ナマコを詠んだ著名俳人たちの句とか、ナマコは神に選ばれた特別な生物であるとか、著者のナマコ愛ほとばしる記述が延々と続く。おかげで、私は予期せぬにわかナマコ博士になってしまった。ナマコについて見識を深めたい方、この本、とってもおすすめです。
 もちろん、目的に合致する情報も見つけることができた。
 人間、遺伝子がまともに働くのは五十歳あたりまでなのだそう。それ以降になると遺伝子が正常に働かないケースが増え、癌化する細胞が増えていく。また、関節が動かなくなってきたり、各種能力が目に見えて低下したりするのも、自然が想定していた人体の耐用年数上限が約五十年であるためらしい。つまり、生後半世紀を過ぎれば、身体的にはもうスクラップ寸前なのだ。
 居酒屋で脂ぎった中年オヤジが「今どき五十六十はひよっこよ!」と噴き上がっていても、女性誌のエイジレス特集で「現代女性は五十歳でもおばさんじゃありません!」と豪語していても、母なる自然は「いや、もう十分年寄りやで?。おじさん/おばさんどころか、おじいさん/おばあさんやで?」と囁いているのである。
 本川氏は言う。
 現代人の長生きはひとえに医療など技術の賜物たまものであり、その技術を稼働させるためのエネルギーをお金で買うことで寿命という時間を得ている。よって、今の長寿者は技術が作った「人工生命体」なのだ、と。
 この指摘、今後縮小していく一方であろう日本社会で老いゆく身には非常に重い。
 今の日本はまだ個人にも社会にもエネルギーや技術を買う余力がある。だが、今後もそれを保てるかどうかは、かなり怪しい。
 現在の高齢者層は、個々では貧富の差があるとはいえ、世代全体で見れば資産をしっかり持っている。それは統計上明らかな事実だ。
 一方、団塊ジュニア世代以下は成人後も十分な資産を形成できないでいる。経済が右肩下がりの日本で社会人生活をスタートさせた世代だからだ。初手から財産形成できるチャンスが乏しく、たとえ上世代と同じ成果を出したとしても、生涯で得られる資産は同等にはならない。
 要するに社会から受け取れる分け前は、世代が下になればなるほど少なくなるのだ。そして、その分け前には「長寿のためのエネルギーや技術」も含まれる。
 現在、男女ともに八十歳を超える平均寿命を誇る我が国も、二十一世紀後半には首位陥落どころか、戦前のレベルまで落ちているかもしれない。もっとも、それが不幸に直結するか否かは別の問題だが、今はそこには触れまい。ひとまず、現代の長寿は人工生命体レベルであり、そんな世の中だから死ぬのが難しくなってしまっている、という事実を確認するに留めよう。

 次は、Newton別冊『死とは何か』である。
 こちらは老舗科学雑誌の特集だけあって、テーマずばりの記事が並ぶ。そこで得た本書に関係がありそうな知識は下記のとおりだ。

■死に明確な定義はない。
 現代日本において、人間の死を社会的に認定するのは医者である。医者の書いた死亡診断書がなければ、生物学的にはどれだけしっかり死んでいても埋葬できない。よって、医学上は超明確な「死の基準」があるのだろうと思っていたが、実際はそうではないらしい。
 心臓が止まって、呼吸が止まって、瞳孔反射をしなくなったら、とりあえず死んでるってことでいいんじゃない? ぐらいのノリで個体の死が決定されているそうなのだ。
 確かに、この三拍子が揃っていたら、ほとんど生き返ることはないだろう。だが、稀にはあるので、死の判定は心肺停止から数十分の時間を置いて確定される。
 また、火葬は死んだと診断されてから二十四時間経過しないとできないことになっている。時々生きたまま焼かれる系のホラーがあるけれど、ああいうのは現実には起こらないそうだ。安心して死ねますね。

■死因に「老衰」はない。
 厚生労働省が発表している死亡統計の項目には「老衰」があるが、医学的な死因に「老衰」はないそうだ。
 たとえば、高齢になってえん機能が衰え、誤嚥性肺炎を発症して死んだとする。この場合、医学的には肺炎による死だ。たとえ、遠因が明らかに老化であっても「老衰」ではないという、なんだかトンチみたいな話だが、自然に枯れゆく死を望むワタシ的にはどのような死因が老衰に含まれるのか、調べてみる必要がある。

■人の寿命は環境と遺伝が3:1で影響する。
 長生きしやすい家系は実際にあるけれど、それが生まれ持った因子によるのか、家族として同じ生活習慣を共有しているせいなのか、明確にはなっていないという。生活習慣、やっぱり大事。

 両書とも、ここでの要約よりもっと多くの有益な情報が書かれているので、さらに知りたい方はぜひご購読いただきたい。
 私はこれらを読んだことで、自分なりの「死」の定義をまとめることができた。
 まず、人間五十歳を過ぎたら、肉体は確実に「死」に向かう方向で準備をし始める、ということ。
 生命とは「生まれ、滅ぶ」ものである。誰一人自分で決意して生まれてはこないし、「死にたくない」と思っていても体は滅びへの準備を始める。
 老化は早くも二十代から始まるそうだが、二十代から三十代にかけての「老化」は、人生においては「成熟」とも言い換えられるだろう。だが、以降は徐々に、しかしはっきりと「老化」に色を変え始める。そして、五十代以降は生命を維持しつつも、やがて来る滅びに向かって歩みを進める、というわけなのだろう。
 滅びは生命の必然なのだ。
 だいたい、誰も死ななかったら、後から生まれて来る人たちが不利になるばかりだ。生命は居場所を次世代に明け渡すことで、地球という限られた資源の上で生きていける。
 だからこそ、私たちは上手に死に往かなければならないのだ。

【ポイント】
1.死の明確な定義はないが、現代日本では医師の診断でのみ死が確定される。
2.人間の体の、自然状態での使用限度は五十年である。
3.五十年以上生きるためには、人為的な技術と、技術を支えるエネルギーを必要とする。

 

『死に方がわからない』は全3回で連日公開予定