最初から読む

 

何で死ねばいいのかがわからない

 死は誰もが必ず到達する着地点だ。だからこそしっかりと見据え、よいゴールにできるよう準備しておいた方が建設的である。また、「長生きは自然にするものではなく、お金で技術とエネルギーを買った成果」という前提に立ち、それでもなお長生きしたいのかどうか、そこをしっかりと考えておくのも重要だろう。
 長生きしたいなら早いうちからせっせとお金を貯めなければならない。だが、「長生き貯蓄」のために、日々の生活の質を落とすのはどうにもアホくさい。さらに言うなら、お金で買うことのできる他の体験を放棄してまで長生きを求めたとして、それは幸せな人生といえるのか。太く長く、が可能なごく一部の恵まれた人々を除き、私のような一般大衆は人生のバランスシートをシビアに見極めなければならない。
 結局、どんな死に方をしたいかを明確にしなければ、死ぬ準備も計画もできないわけだ。「死の現実」を認識できた今、再度「これだけは絶対嫌な死に方」を考えていこう。
 まず思いつくのは「天災や事故犯罪に巻き込まれる不本意な死」である。だが、こればっかりはいくら気をつけたところで、意のままには防げない。天災の恐ろしさは今ここで改めて述べるまでもないだろう。私たち日本に住む者どもは嫌というほど実例を見てきた。
 事故や犯罪は、戸締まり用心火の用心を励行、日々注意深く行動し、人間関係に気をつけ、護身術などを身につけておけば、ある程度は防げるかもしれない。
 しかし、天災レベルの事件──暴走車が歩道に突っ込んできたり、空から飛行機が落ちてきたりとなると、これはもう何をやっても無駄だ。テロも同様だろう。ランボーレベルの超人でもない限り、巻き込まれたら一巻の終わりである。
 よって、奇禍による死は絶対嫌だけど対策なし、と判断してリストから外す。こればっかりは神のみぞ知る、だ。ちなみに私は趣味と実益を兼ねて年間百近い寺社にお参りするので、神頼み方面はバッチリである。

 さて、次に嫌な死に方はなんだろう。
 仕事部屋でぼんやりと考えていると、ふと片隅に飾ってある故・水木しげる氏のイラストが目に入った。そしてその瞬間、「餓死です、餓死」という氏の声が頭にこだました。
 そうだ。食を何よりも愛する私としては、餓死だけは絶対に嫌だ。
 紙芝居作家を経て貸本マンガ家からキャリアをスタートさせた水木しげる氏は、戦後の貧しい時代、仕事のないマンガ家仲間が餓死するのを目の当たりにした。そんな経験からよく「アンタ、働かなきゃ餓死ですよ!」と言っておられたと聞く。しがないフリーライターの私にとって、この言葉は金言であり至言だ。
 餓死したくなければ十分な貯蓄をするか、死ぬまで働き続けるかしかないのだが、宝くじでも当たらない限り、選択肢は後者しかない。今のところ、ライター稼業だけでなんとかこうをしのいではいるが、原稿の注文が来なくなったら即失業である。
 もっとも、ライターの口が無くなれば他の仕事をすればいいとは思っている。どれほどどん底の生活になったとしても、とにかく働いていれば餓死だけは免れるだろう。
 だが、働けなくなったらどうだろうか。家族親族に頼れる相手がいない上、預貯金もほとんどないときている以上、あとは餓死への道をたどるしかあるまい。
 考えてみれば、兄弟姉妹もいない独身子無しの上に仕事は不安定な自由業って、なにそれ。人生常に崖っぷちじゃん。バカじゃないの?
 けど、そんな不安定な状態ながらなんとか人並みの生活はしているんだから、けっこうよくやっているのかもしれない。もしかしたら、讃えてもらってもいいレベルかも。
 と、自己評価が全否定から超肯定に急カーブを描いて上昇したわけだが、どれだけ自己評価が高かろうが「日々黄信号」なのは変わりない。
 もちろん、この国にはセーフティネットとしての生活保護制度はある。だが、受給要件は年々厳しくなっていると聞く。高齢化の急速な進行によって受給者が増えているからだ。受給者の中には、予想外の長生きのために蓄えが底をついたケースも少なからずあるという。つまり、よほどの富裕層でもない限り、長生きは幸福どころかリスク要因なのだ。
 今後、経済縮小は避けられない日本社会において、貧困老人は益々増えていくだろう。ということは、ものすごく年寄りになってからならともかく、四十代や五十代であれば「働けないから」と申請しても門前払いを食らう可能性がある。
 いや、実際に門前払いの末に亡くなった例がある。
 二〇一二年一月、札幌市のマンションで四十代の姉妹が遺体となって発見された。姉は四二歳、妹は四十歳。直接的な死因は、姉が脳内血腫による病死、妹は凍死だったが、発見された時点で冷蔵庫の中は空っぽだったという。姉は長らく体調不良に苦しみ、妹には知的障害があった。働くのが困難になり、失業してしまった姉は、役所で三度も生活保護の受給相談をしていたが、結局受給には至らなかったそうだ。
 収入が妹の障害年金しかない状況が長らく続き、国民健康保険も保険料を払えないため未加入だった。もし、姉妹が生活保護を受けられていたら、姉は病院に行くことができ、冷蔵庫が空っぽになることもなかったはずだ。そして、姉が生きていれば、妹も死ななかっただろう。彼女たちの無残な死は、まったく他人事ではない。生活の手段がなくなり、社会との関わりも断たれたら、誰でも同じ末路をたどりかねない。
 自分は大丈夫。そう思っているあなたも例外ではない。
 長寿化は退職金と年金で老後の生活を支える昭和モデルを破壊した。堅実に蓄えをしていたはずが、長期に及ぶ引退生活で使い果たし、だからといって満足な働き口もなく、徐々に貧困化していく老人は確実に増えているそうだ。だが、子や孫も生活に余裕がなく、援助は難しい。だから、生活保護に頼るしかない。どこかの大臣が老後資金に二千万円貯めておけとのたまって物議を醸したが、根拠のない話ではなさそうだ。
 総務省の資料によると、令和元年、六十歳以上の高齢者世帯貯蓄額の中央値は一五〇六万円。厚生年金で月額十五万円程度もらっていたら、一見安心な数字に見える。
 だが、人生何があるかわからない。予想外の事態が起こると途端に話は変わってくる。さらに、最後の人口ボリュームゾーンである私たちの世代、いわゆる団塊ジュニアは、今の老人たちほど年金はもらえないことが確定している。そして先述したように、今の老人たちほど資産を築けないことも。
 一生自分の金だけで安心安定の暮らしを維持していこうと思ったら二千万円どころでは足りないのは必至だ。もし、現在の中央値以下の貯蓄しかなければ、誰もが「餓死です、餓死」の道をたどるかもしれないのだ。
 ああ、怖い。私なんて読者の皆さんよりはるかに餓死の確率が高いのであるから、嫌な死因の第一に「餓死」をあげ、今後の調査項目の一つに「餓死しないで済む方法」を加えることにしよう。これは主に経済問題および社会との関わりの問題になりそうだ。

 次の「嫌な死因」はなんだろう。
 考え始めてふと脳裏をよぎったのは、数年前に入院した際、同室で闘病生活を送っていた方々の姿だった。
 私が入院したのは、赤ちゃんの頭並みに大きくなった子宮筋腫を子宮ごと全摘する手術を受けるためである。もっとも、開腹なしの腹腔鏡下手術で、入院も経過に問題なければ一週間未満で済むのがわかっていたので、いたって気楽なものだった。仕事しなくていいし、家事しなくていいし、一日中寝ていていいなんてむしろ天国では? とバカンス気分だった。
 事実、私の入院生活は、術後数時間を除けばその通りになったのだが、相部屋の患者さんたちは違った。皆さん、婦人科系の癌を患い、加療している方々だったのだ。私はそこで初めて抗癌剤治療の過酷さを思い知らされることになった。
 入院当日は明るく朗らかだった方が、抗癌剤投与を始めた途端にしんに悩まされ、一言も話さなくなった。
 また、ある老婦人は一向に治まらない高熱と倦怠感に耐えかねてしばしば感情的になり看護師さんにきつく当たるも、すぐに後悔して謝罪する、を繰り返していた。
 食事の時間になると、匂いだけでも無理だといって、どこかに行ってしまう人もいた。
 他にも、薄くなった髪を隠すための帽子を一日中編んでいる方、繰り返す入退院で仕事を失ったことを苦笑交じりに語る方など、皆さんそれぞれのステージで懸命に病と闘っておられた。
 そんな姿に敬意と同情を覚えつつ、これほど苦しいのであれば、やっぱり癌にだけはなりたくないなあとしみじみ感じたものだった。
 昔と違って、癌は死病ではなくなった。しかし、闘病生活の苦しさは相変わらずだ。
 子宮頸癌ワクチンを除いて、目覚ましい効果を望める予防法があるわけでもない。
 一般的な癌は加齢による遺伝子複製エラーを原因とする老人病だ。老化が加速し始める四十代になれば、誰もが癌になる可能性がある。現在では、日本人の二人に一人が死ぬまでに一度はなにかの癌を発症するといわれている。
 私の場合、母方の祖父母と伯父が癌になり、うち祖父と伯父はそれが原因で亡くなった。私が遺伝性腫瘍を発症しやすい体質かどうかはわからないが、可能性は高いと思っている。
 パーフェクトな予防はできない。
 けれども、苦しい闘病生活はいやだ。
 では、どうすればいいのか。
 早期発見早期治療を心がけるしかない。
 普通はそういう話になるし、ほんのちょっと前まで私もそう思っていた。
 ところが、色々と調べていくうちに、最近ちょっと変化があった。
 癌で死ぬのも悪くないかもしれない、と思うようになったのである。
 というのも、癌はある程度死期が読める病だからだ。
 死への不安は、そこに至る苦痛とともに、それがいつ起こるかわからない不可知性ゆえに起こる。
 だが、癌の場合、治療をしなかった場合の余命が統計的にある程度わかっている。
 ならば、それを利用するのも一手ではないか。
 苦しまずに逝けるなら、問題は片付く。
 よきかな、よきかな。方針が定まってきた。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください