はじめに


死に方がわからない


 ワタクシは、大いに困っていた。
 いや、現在進行形で困っている。むちゃくちゃ困っている。
 何に困っているのか。
「死に方」がわからなくて困っているのである。
 ああ、心配しないでほしい。別に自殺願望があるわけではない。自ら命を絶つなんて真似はまっぴら御免だ。
 そうではなく、「大過なく寿命を迎え、きれいサッパリ死んでいく」方法が皆目わからなくて困っているのだ。
 は? なんでそんなことで困るの? と思ったあなた。
 こう言ってはなんだが、あなたは少々呑気過ぎる、かもしれない。
 実は、現代日本において「普通にきれいサッパリ死んでいく」のは至難の業なのである。この十年ほどで祖父、祖母、そして父を見送り、私自身も入院手術を経験したことで、それをしみじみと実感した。
 百年ほど前までは、奇禍にでもあわない限り、病にしろ老衰にしろ時が来たら自然に死んでいけた。それでもって、地域共同体が慣習に則り野辺送りをしたらすべてが終わり、だっただろう。
 ところが、法治かつ自由主義国家で、稀に見る長寿社会となった我が21st century Japanにおいては、そうそう簡単には死ねないシステムが出来上がってしまっているのだ。しかも、これらのシステムは「家族親族」の存在を前提に形作られている。
 これが、私を大いに困らせている原因なのである。
 なぜなら、私には、死に際の面倒を見てくれるような家族親族がいない。いや、この言い方だと少々不正確だ。「平均寿命程度まで生きると仮定して、その頃には死に際の面倒を見てくれるような家族親族はいなくなっている」が正しい。
 私は独身、子なし、兄弟姉妹なし。現在生きている三親等以内は全員年上という境遇だ。逆縁にならない限り、私を中心に数える「親族」は私でラストワンになるのが確定している。
 ボッチ不可避の未来。
 もう笑うしかない。
 だが笑ってばかりもいられない。
 現実の死は、ドラマのようにベッドの上で静かに息を引き取るだけでは済まない。前後に必ずすったもんだがある。たぶん、どれだけ周到に準備をしていても避けられない。
 しかし、それでも準備はしておかなければならない。できるだけ他人様に迷惑をかけずに死んでいくために。
 いや、もしかしたら「他人様に迷惑をかけない」はよくない考え方なのかもしれない。誰にも迷惑をかけないなんて、実質無理だからだ。よって、「やるだけのことはやってあるから、まあなんとかなるだろ」と安心しながら死んでいくために、の方が正しい。
 けれども、現時点では何をどう準備したらいいのか、さっぱりである。
 そこで、こう決心した。
 美しいフィニッシュを迎えるために必要な情報を集め、知識をまとめ、一つ一つ実行していこう。体も頭も、多少鈍いながらも正常に動いている今のうち、可及的速やかに、と。
 心が定まった私は、とても清々しく凜々りりしい顔をしていた、はずである。
 ……というようなことを、双葉社の編集者であるHさんにお話ししたところ、「え? なに? それ私も知りたい」と言ってくれた。Hさんもわりかし私と似たような境遇なのだ。
 そこでふと気づいた。
 そうだ。昔と違って格段に独身者が増えている今、同じ境遇の人間もまたどんどん増えていくのだ、と。
 だったら、私が知ったこと、調べたことを、同病相哀れむ、もとい、互助精神に則って読み物にして公表すれば、何らかの社会的貢献になるのではないか。しかも、仕事にもなる。
 一挙両得だ、ハレルヤ。
 というわけで、書き始めたのが本書だ。
 つまりこれは、「現実の死」を目の当たりにしたアラフィフ独身女が、どうやったらうまく死んでいけるのかがわからないことに焦りと恐れを覚えた結果、「よりよき死」を迎えるために始めた「死に方探し」を、同じ不安を抱える皆様とシェアするために始める旅路の記録、なのである。

家族に頼れるかはわからない

 さて、「あら、独り者のおはなし? 家族親族がたくさんいるワタクシには関係ないわね」と思ったあなた。
 甘い。甘すぎる。羊羹一棹完食レベルで甘い。
 今は家族親族がいたとしても、将来的にはいなくなる、またはいないも同然になる可能性は十分ある。独身女のひがみで意地悪を言っているわけではない。あてにしていた家族親族が機能しなかったなんて話は掃いて捨てるほどあるのだ。これについては、おいおい実見談や取材した話、見聞したニュースを交えながらお伝えすることにして、まずは一般論から。いわゆる「平均的な家族」を想定して、ちょっとシミュレーションしていきたい。
 想像してみよう。
 あなたは現在アラフィフである。健康体であれば、老化は感じながらも死について考えることはほとんどないだろう。
 さて、還暦になった。配偶者は健在で、子は複数いる。親もまだ生きている。さらに実/義理の兄弟姉妹が何人もいる。つまり、二親等以内の親族がわんさかいる状態だ。よっぽど関係が悪くない限り、いつ死んでも大丈夫。必ず誰かが後始末をしてくれるはずだ。
 その十年後、あなたは古稀を迎える。平均寿命を考えると配偶者は健在と思っていいが、死んでいる可能性も出始める。特に配偶者が十歳以上年上だったりすると確率は格段に上がる。兄弟姉妹にもそろそろ物故者が出ていてもおかしくない。
 一方、子供たちは結婚し、孫が生まれているかもしれない。新しい親族の誕生に喜びと安堵を感じるだろうが、子育てに入った子供たちは親のことなど二の次三の次になる。離れて暮らしていればなおさらだ。繋ぎ止めるには物心両面で積極的に援助するしかないだろう。だが、援助するからといって口出しが過ぎれば疎まれること請け合いだ。元気で金回りのいい間は、多少うっとうしくても構ってくれるだろうが、その二つが失われたら、途端にかつて煩わせたしっぺ返しがやってくる。とはいえ、この時期なら看取ってくれる誰かはまだまだいる。
 さらに十年が経ち、傘寿の祝いをする頃になると、年上の親族はかなり歯抜けになっているだろう。配偶者と死に別れるケースも珍しくない。そもそも、自身が健康でいられるかもおぼつかない。持病が重なったり、認知症や老人性鬱などを発症したりしていてもおかしくない。
 いくら「私は子供には面倒をかけない」とうそぶいていても、最終的には子を頼りにしなければならない場面が多々出てくる。社会のシステムが本人同意だけでは不足、保証人などの他者なしでは何もできない仕組みになっているからだ。入院ひとつとっても、誰かの手を借りる必要がある。
 しかし、頼みの子世帯はというと、ちょうど子育ての総仕上げに入っているので何かと物入りだ。社会的にも最も多忙な時期を迎えていることだろう。快くあなたの面倒を見てくれるかどうかは、それまでどんな関係性を築いてきたかにかかってくる。
 どれだけ援助をしてやったとしても、それを恩に着せるような言動をしていたら台無しだ。できるだけ関わり合いにはなりたくない、が子らの本音だろう。何事につけ、やってもらった方はとっとと忘れてしまうものだ。着せる恩は重いが、着せられる恩は軽い。とはいえ、それでも葬式ぐらいは出してくれると普通は考える。それが人の情というものだ、と。
 ところがどっこい、葬式すら出さない家族は実在するのだ。それも、少なからず。
 特に親を施設に入れたまま会いにも来ないような家族は要注意。中には施設にお金だけ送って、葬儀の一切を丸投げした挙げ句、骨上げにすらやって来ず、骨壺を郵送させて終わり、という家族さえいる。まさかと思うかもしれないが、これは現実にあった出来事であり、しかも珍しくもない話なのだ。
 もし、今の自分が「会いに行かない家族」側だとしたら、我が子もそれを真似ることになるだろう。子はいくつになっても親の鏡だ。つまり、家族が何人いたところで、機能不全に陥っていたら意味がないのである。
 いやいや、そんなのごく一部の特殊例でしょ、と思ったあなた。全然一部ではないことは、国の統計からも窺える。
 こんな資料がある(次のページの図表参照)。

 

単独世帯率の推移と65歳以上の単独世帯数の推移(2020年以降は予想)

 

 これは総務省が平成三十年に発表した統計調査だ。
 現在、全世帯に対する単身世帯の割合は三五パーセントを超えているが、その半数ほどを六五歳以上が占める。この世代の婚姻率は、今と違ってまだまだ高かった。つまり、一度は家族を作りながらも、何らかの事情によって単身で住む結果になった人たちが想像以上に多いことを示唆している。これを見る限り「晩年の独居」に無関係な人間など、どこにもいない。日本はすでに老齢単身者大国なのだ。
 もちろん、その多くは一人で住んでいるだけで、親類縁者がまったくいないわけではないだろう。だが、その人たちは何かあった時に頼れるほど親しいだろうか。若い間は家族親族や友人がたくさんいたとしても、八十歳になる頃にまだその状態を保てているかどうかは甚だ心もとない。
 同統計では、

 高齢者を対象とした内閣府の調査によると、我が国の単独世帯の高齢者のうち、他者との会話が「ほとんどない」と回答した人の割合は七・〇パーセントであり、これは二人以上の世帯の値(二・二パーセント)や諸外国の単独世帯(アメリカ→一・六パーセント、ドイツ→三・七パーセント、スウェーデン→一・七パーセント)と比較すると高い水準である。単独世帯の増加は、頼りにできる存在が身近におらず、社会的に孤立してしまう人の増加にもつながると考えられる。

 と、薄ら寒い現実を指摘している。彼らは、完全に孤独死予備軍だ。


【ポイント】
1.六五歳以上の単身世帯の割合は増えている。つまり「晩年の独居」は誰にも訪れうる。
2.子や孫がいても面倒を見てもらえるかどうかはわからない。すべては自分次第。
3.よって、たとえ家族がいても孤独死は十分ありうる。

 

『死に方がわからない』は全3回で連日公開予定