ほとんどを仕事のために棒に振った夏が終わってみると、間髪を入れずにひどく冷たい秋がやってきた。
 秋は苦手だった。なぜだかは知らないが心身の機能すべてが低下するような気がする。仕事にも身が入らず、といって遊びほうけようという闘志もかない。
 今年の久し振りの猛暑は、若者のしつそうにんの数も増やした。暑い最中にあって、たまらずに海や山、プールに出かけた十代の男女が、人生の予定表に書きこまれていなかった出会いや事件に遭遇し、これも予定にない家出や“駆けおち”をすることになる。結果、早川法律事務所調査二課で、若者の失踪人調査を専門業務とする僕は、夏休みも週末も返上することになった。
 だからといって、後ろ姿を眺める暇も与えず立ち去ってしまった夏を恨んでみても始まらない。猛暑と青少年の家出の相関関係に留意するのは、僕をのぞけば警察の少年課員ぐらいのものだろう。いや、果たして彼らだってそうしているかどうか、怪しいものだ。
 ともあれ、十月の半ばに近い金曜日の晩に、あざじゆうばんの外れにある喫茶店で腰をすえた僕は、決して人生を楽しむ気分ではなかった。喫茶店にいたのは、仕事ではお定まりの張り込みのためだが、その夜に関していえば、お定まりに少しは変化を与えるふたつの要素があった。
 ひとつは、現在僕が追っかけている十六歳の少女を連れ戻せば、ほぼふた月ぶりの休みがとれるということ、もうひとつは、寂しくも退屈な張り込みにつきあってくれている、我が長年の友・さわだった。
 沢辺は、早川法律事務所の所員ではない。それどころか、僕が知る限り、プレイボーイクラブをのぞく、いかなる組織にも属してはいない。身長が百八十五センチあって、横幅もそれにふさわしいだけ張り出している。知りあった十年前は、今よりもう少しほっそりしていたように思う。その頃は早稲田わせだ理工、、で理論物理学をやっていた。卒業してからは、何もしていない。ひろにある広大なマンションに住み、女と酒とギャンブルとスポーツで、その限りないはずの時間をやりくりしている。遊びだけのために、一日を四十八時間あってくれと願う男だ。いかつい体には似合わないマスクと切れる頭脳を持っている。
 彼が、何事によらず、本気になって熱くなるのを、僕はこれまでに数度しか見たことがない。最初にそういう状態になったのが、知りあったしぶの玉突き屋『R』で十四時間ぶっ通しのスリークッションの勝負をしたときだった。
 西の方の超大物のらくいんだということだけわかっている。名前をいっても、一般大衆が、あの人か、とうなずくような、そんな安手の“大物”ではない。たとえば地元出身の閣僚クラスの代議士や、県警の本部長が、なにげなくその名をつぶやき、その後で慌てて口をおさえたくなる、そういった大物だ。
 沢辺がなぜそのまま理論物理学をつづけようとしなかったか、その理由もかつて聞いたような気がする。詳しくは覚えていない。要は、年齢にありがちな、ちょっとしたつっぱりと、物心ついたときからつきあってきた自分の中にあるはぐれ者の習性だろう。
 理屈を人生に持ちこむのが嫌いなのだ。理屈で、自分を型に押しこめるくらいなら、理屈ぬきで、思うがままの人生を生きよう、そう決めたのだ。そして、たまたま、それが可能な環境に沢辺はいた。
 従って気が向けば、驚くほどつきあいよく、僕の仕事に協力してくれた。十年以上、二十年近く、東京とその周辺の盛り場で硬軟両方の道で遊びつづけてきた彼には、広い顔と、遠くの出来事を聞き分ける耳、人の仮面の向こう側を見通す目があった。
 これまで、沢辺のそういった部分にどれほど助けられたか、限りがなかった。そして、それに対し、一度として僕は礼の言葉を述べたこともなく、また求められたこともなかった。
 その沢辺が小さく刻んだチーズケーキのひとかけらを口に放りこんでうなった。
「たるいぜ。乗りこんでいったら、どうなんだ?」
 濃紺のだっぷりしたセーターをTシャツの上につけ、コーデュロイのパンツにブーツをはいている。セーターは、ひと目でわかるハンドメイドだ。それが、沢辺の呼び出しを待って、片ときも電話のそばを離れないような、あわれな女の子からの貢ぎ物であることは明らかだ。
「こっちは警官じゃない。シカトされても文句もいえない。ぶん殴られても以下同文だ」
 僕は肩をすくめて答えた。
「利口な奴のやる商売じゃねえな」
 沢辺は首を振った。
「そのセーター、きっと電話機の前で編んだんだろうな」
「何の話だ」
「おぬしのどくにかかった、憐れな女の子さ。遊ばれているとも知らないで、せっせと編んだのだろう」
「これはちがう。自分の女からもらったセーターを着て歩くほど、おれは悪趣味じゃない。それにだ、俺の周辺の女たちは、遊んでいる、、、、、つもりで俺とつきあっちゃいても――」
 沢辺がやんわりと抗議をしかけたときだった。喫茶店の向かいに建つマンションから、早足で男女が現われた。女は、ワンピースにポシェットをかけ、男は、ジーンズにカウチンセーターをつけている。
 僕は沢辺に目配せした。沢辺が伝票をつかんだ。払いを彼に任せ、先に喫茶店を出る。
 男女は、麻布十番の通りを六本木に向かって歩いていた。
 後ろ姿を見ていても女の子の方が高校生であることははっきりわかる。男の方は二十二、三歳、確か半年前まで渋谷のディスコでウエイターをしていたはずだ。彼女は一年ほど前に、初めて、そのディスコに足を踏み入れている。中学時代の同級生に連れていかれたのだ。
 その同級生は、幾度かの補導の末、通っていた私立高校を退学になった。補導の理由は、万引と恐喝、そして売春だった。前を行くウエイターとは、中学二年の頃から肉体関係があった、と僕にいった。
 僕は、二人の後についていもあらい坂を登っていった。女の子の方が家を出たのが、二週間前、化粧の濃いことと、髪の毛を染めたことをなじられ、ひと月前にも家出をしている。そのときは、三日間の外泊ののちに帰宅した。どこにいたかは、両親に問い詰められても答えなかった。
 二週間前、彼女が学校に出かけている間に両親が勉強机の中を調べた。カセットテープのケースの中に、未使用のコンドームが隠されていた。帰ってきた彼女を、証券会社に勤める父親が無言で殴りつけた。彼女は、その場で制服のまま、家を飛び出した。
 一週間前、母親が、僕の勤める法律事務所を訪ねてきた。早川法律事務所は、日本最大の民間法律事務所で、所属する弁護士は、民事、刑事も併せて、十数名を数える。他に、司法書士、弁理士も抱え、ふたつの調査課を持っている。共に課長は、桜田門のOBで、一課は証拠収集、二課が失踪人調査を、主業務としている。
 僕の事情聴取に母親は涙を浮かべて答えたが、やって来なかった父親の方は、娘をもう居ないと考える、と断言していた。
 僕は母親に、お嬢さんの居場所を見つけ出す、そして連れ戻すことは、さほど難しいことではない、と告げた。ただし、三度目の家出を防ぐことはできない。四度目も五度目も同じだ。それを防ぐことができるのは、家族か親しい友人のどちらかであって、法律事務所の“調査士”ではない、といった。
 母親は、鼻水をすすりながら、わかった、と答えた。
 どうして、あの子がこんなことに、と僕にたずねる。幾通りもの答え方はある。
 運が悪かった、ということもできる。あなた方がしっかりしていなかったからだ、と責めることもできる。友だちを選ばせなさい、という忠告は、遅きに失する。お嬢さんに心を開いていましたか、と訊ねることもできる。
 だが大抵は、何も答えない。ただ、同情を装った目で見つめるだけだ。処女を失なおうと、髪を染めようと、あくまで経過にしか過ぎない娘もいる。時間とともに卒業し、結果はさほど悪くないところに落ちつくのだ。
 だが場合によっては、どうにもならない深みにはまる娘もいる。むしろ、元々からの問題児ではない娘に多い。周辺の大人がめぐらす暗い魂胆を見ぬけないのだ。そういった少女たちは、どこかで引き揚げてやらぬ限り、永遠にぬけ出ることはできない。そしてまた、必ず心のどこかでたすけを求めている。
 調査にかかってみるまで、若者の失踪とはいえ、それがどちらのケースにあてはまるか、知ることはできない。前者の場合、僕はお節介で、いらざる世話を焼くピエロにしか過ぎない。ののしられ、つばをはきかけられる。そうした若者たちは、初めから深みにはまる危険はない。彼らは、結構、自分の足元に目を向ける余裕があるのだ。騒ぎたてた肉親をわらい、それでもどこか、仕方ないとあきらめて帰ってゆく。肉親たちが考えるほど、若者は愚かではない。
 後者の場合、そうはいかない。無気力になり、完全に自分と、自分が歩むべき道を見失なっている。明日から学校に行けといわれれば行くが、帰りに元の仲間に誘われれば、それきりだ。前者の家出少年少女は、心のどこかに家庭の価値、親の権威を認めている。だが、後者の若者たちにはそれがない。価値観の基準、善悪の判断を持たないのだ。“悪いこと”をしているという意識がない。こうしていかりが切れたボートのように、どんどん流されていく。
 ヤバいと心の片隅では思いながらも、それに対して強い意見を唱えられると、主張することができない。第三者の救けを求めるのは、それゆえである。
 カップルは、芋洗坂の中腹にあるビルに入っていった。三階に終夜営業の喫茶室がある。そこに昇る階段を上がった。
「またコーヒーか?」
 うんざりしたように、沢辺がぼやいた。
「今度はすぐに終わる。車を下に持って来ておいた方がいいな」
 僕はいった。
「わかるのか?」
「わかる。パターンだから」
 何のパターンだ、とはたずねなかった。頷いて、元の道を戻っていく。僕の車が車検に入っているというので運転手を買って出たのだ。終われば、ポケットビリヤードの勝負が待っている。

 

「追跡者の血統 〈新装版〉 失踪人調査人・佐久間公 4」は全4回で連日公開予定