それから十日ほどが経った一月も終わりのこと。
 先日、気まずい雰囲気で帰っていっため組の火消し、勲が再び現れた。今日は二人の連れがいる。
「勲さん、又二郎またじろうさんに要助ようすけさんも、いらっしゃい」
「お、おう。邪魔するよ」
 勲は少しきまり悪そうな表情で挨拶した。勲より細めだが上背のある又二郎は梯子はしご持ちで、二人より小柄な要助は鳶人足とびにんそくである。勲に連れられて、いすず屋によく来てくれる常連客であった。
 この日も、俳句をたしなむ一柳老人は店におり、
「やや、お兄さんたちが来ると、一気に店が狭くなっちまったようだねえ」
 などと、気軽に声をかけている。一柳から近くの席を勧められた三人組は、一柳と向かい合う形で腰かけ、茶と太々餅を二つずつ、それぞれ注文した。
「毎度どうも」
 水屋へ下がってから、餅と茶を持って戻ると、一柳と火消したちが話し込んでいた。
「それでね、お蝶さんがやけに機嫌がいいからさ。その理由を訊いてみたら、驚くじゃないか。独り暮らしの長屋に同居人ができたっていうんだから」
 話を聞いた勲たちは、どことなくぎょっとした顔つきで、お蝶を見つめてくる。
「真に受けないで」
 お蝶は笑いながら返した。
「同居人じゃなくて、同居猫」
 勲たちに茶と太々餅の皿を差し出しながら、一柳を軽く睨んでみせる。
「お話しするのはかまいませんけど、間違ったことを吹き込まれては困ります」
「いや、これからちゃんと話すつもりだったんだよ。同居人って言っちまったのは、いい言葉が思いつかなかったもんだからさ」
 悪気のなさそうな様子で、一柳は言った。
「お蝶さん、猫を飼い始めたのかい?」
 鳶人足の要助が愛嬌のある顔で尋ねてきた。くりくりした目がどことなくそら豆の目を連想させる。
「飼い始めたわけじゃなくて、預かっているの。飼い主さんが湯治に行っている間だけ」
「昼間はどうしてるんだ?」
「長屋でお留守番よ。まだ小さいから余所の家で留守番できるか心配だったんだけれど、幸いすぐに慣れてくれてね。五、六日の間、昼間は飼い主さんの家、夜はあたしの長屋で過ごした後、留守番させてみたら、何とか大丈夫だったの。同じ長屋に暮らす子供たちもかわいがってくれてるし」
 美代からは人見知りの猫だと聞いていたが、お蝶にもすぐ馴染んだし、同じ長屋の子供たちを見ても、脅えたりしなかった。確かに、初めて会った大人には若干警戒する様子も見せるが、それも激しいと言うほどではない。
 ──お蝶ねえが留守の間は、おいらたちがそら豆を守ってやる。
 隣に暮らす六つの寅吉とらきちが胸を張って、そう請け負ってくれた。寅吉の妹で、四つのおよしも、
 ──あたしもそら豆ちゃんのこと、ちゃんと見てる。
 と、兄に負けまいとして言う。
 幼い兄妹きようだいの母親のおなつが、子供たちの懇願に折れ、そら豆を見てくれることになったので、お蝶も安心できた。そら豆がお蝶の部屋から出るのを嫌がった──寅吉たちの家へ連れていっても、すぐに戻ろうとした──ため、寅吉とおよしがお蝶の留守宅へ来て、そら豆と遊んでくれている。
 そうした経緯いきさつも出発前の美代に話し、承知してもらっていた。その美代は予定通り、二日前、母の加代と湯治に向かっている。
「そら豆といってね。すごくかわいいし、賢いのよ。勝手に外へ行ったら駄目って教えたら、戸が開いていても出ていかないんだから」
「そりゃあ、外へ出てくのが怖いだけじゃねえのか」
 要助が言い、「違うわよ」とお蝶は返した。
「そら豆は、あたしの言うことがちゃあんと分かっているの。話を聞いている時の眼差しの真剣さ、あれはただ者じゃないあかしだわ」
「まるで子供自慢を聞かされてるみてえだな」
 一柳と火消したちは声をそろえて笑った後、
「ところで、その猫、誰からの預かりものなんだい?」
 勲が尋ねてきた。
「熱川屋さんよ、油問屋の」
「ああ。この近くの大店だね」
 と、一柳がすぐに応じた。だが、その顔からはいつもの穏やかな笑みが消えている。もしや、美代が気に病んでいた熱川屋のよくない噂話が耳に入っているのだろうかと、お蝶は気になった。
「あそこの若内儀わかおかみがあたしの幼馴染みなの。その縁で、そら豆を預かることになったんだけど……」
 そう前置きし、例の噂話のことを口にしようとしたその矢先、
「熱川屋かあ」
 と、要助が複雑そうな声で言った。火消したちは「よりにもよって」と言いたげに顔を見合わせている。
「熱川屋さんに何かあるの」
 お蝶が尋ねると、
「あそこ、何度か小火ぼやを出してるんだよな」
 と、勲が小声になって答えた。
「えっ、小火?」
 お蝶は目を瞠った。小火のことなど、美代は言っていなかった。ただ、父の病死、亭主の闘病、猫の急死──それらが続いたせいで、悪い噂を立てられているとしか。だが、小火を出したことが事実なら、世間に不安を与えているのはむしろそちらの方ではないのか。
「まあ、小火といっても、俺たちが駆けつける前に消し止められたんで、大ごとにはなってねえ。熱川屋も隠したがってたしな。俺が様子を訊きに行ったのは、二度目の時だけど……」
「くわしく聞かせて」
 お蝶は空いている腰かけに座ると、勲にせがんだ。
「お、おう。それはかまわねえけど」
 勲がめ組の親分から話を聞かされ、熱川屋の様子を見てくるよう言われたのは、ふた月ほど前。去年の十一月半ばのことだったそうだ。
 小火で済んだという話に偽りはなく、焦げた畳の跡も見せてもらったが、一畳も被害は出ていなかった。ただ、熱川屋は油問屋である。火事には格別気をつけねばならないはずだ。ましてやその半年ほど前にも一度、熱川屋は小火を出しており、この時は二度目だった。養生中だという主人の佐之助が無理して起き上がり、蒼白い顔で何度も頭を下げるので、とりあえず厳重に注意を促して帰ってきたという。
「不始末の原因は何だったの」
「二度とも店の方じゃなくて、主人一家の住まいの方から火が出たという話だったけどな」
 勲は記憶をたどるような目をして言った。
「そうそう。俺が出向いた二度目の時は、飼い猫が行灯あんどんをひっくり返したとか言ってたっけ」
 と、そこまで語った勲は「ん?」と声を上げ、まじまじとお蝶を見つめてきた。
「お蝶さんが預かったのって、熱川屋さんの猫だよな。それじゃあ、そのそら豆ってやつが……」
 小火の元凶かと言わんばかりの物言いに、「違うと思うわ」とお蝶はすぐに言った。
「行灯の大きさや状況にもよるでしょうけど、仔猫のそら豆が行灯をひっくり返したとは思えないの。そら豆の母猫がふた月ほど前に死んだそうよ。行灯をひっくり返したのはおっ母さん猫じゃないかしら」
「ふうん。じゃあ、そっちかもしれねえな。死んだ時期が小火と近いのが気にかかるが……」
 勲はおもむろにうなずいた。
「もしかして、その猫、小火を出したせいで、始末されちまったんじゃ?」
 要助が憶測で物を言う。傍らの又二郎がとがめるような目を要助に向けた。
 要助の言う通りだとしたら、若内儀である美代が関わっていないわけがない。だが、そら豆をとてもかわいがっている美代が、その母猫を始末するとは思えなかった。それとも、美代のあずかり知らぬところで、母の加代が始末したということだろうか。それならあり得るかもしれないが……。
「小火の件は世間には知られてないんだよね」
 その時、一柳が言い出した。
「まあ、公には何もなかったことになってるからな」
「お役人にも知らせていないってこと?」
 お蝶が尋ねると、勲はどうだろうと首をかしげた。
組頭くみがしらから話がいってるかもしれない。俺も兄貴には話したし」
 と、続けた。
 勲の兄の東吾とうごは岡っ引きである。ただの粗忽そこつによる不始末であったとしても、二度も重なったため、話しておこうと思ったらしい。
「お兄さんは何か言ってらした?」
「故意じゃないだろうが、主人が寝付いている店じゃ、目も行き届かねえだろうと心配はしてたな。三度目が絶対にないとも限らねえから、注意はしておこうってさ」
 勲のその言葉を受け、
「俺たちも組頭から、あの家には注意するように言われてる」
 と、又二郎が重々しい声で言った。
「ふうん。そうなると、皆さんが気にかけている店の主人夫婦が、この時期に湯治ってのは、少しのんきすぎるようにも聞こえるねえ。旦那を養生させたい気持ちは分かるが、主人夫婦がいない間、店はどうするんだね?」
 一柳がお蝶に問うてくる。湯治と聞いて、療養中の主人を連れていったと勘違いするのは無理もない。お蝶も初めはそう思ったのだ。
「それが、湯治に行ったのは若内儀とそのおっ母さんで、ご主人は残っておられるんです」
 隠しているわけにもいかず、お蝶は聞いていることを正直に話した。
「えっ、養生中の旦那が湯治に行ったんじゃなくて?」
 要助が驚きの声を上げる。他の皆も驚いていた。
「看病疲れの若内儀を休ませようと、ご主人が強く勧めたと聞いてますが……」
 いくら亭主が勧めたからといって、養生中の夫を見捨てて湯治に行く女房がいるか──と、男たちの顔があきれている。
 お蝶も初めは妙だと思っていたけれど、美代の優しい心や押しの弱いところ、それに母の加代の勝気さを知ったせいか、今は納得してしまっていた。
(でも、世間から見れば、やっぱりおかしなことなんだわ)
 今さらながら愕然がくぜんとする。その時、一柳がおもむろに口を開いた。
「お蝶さんの幼馴染みだっていうから、言おうかどうしようか迷っていたけど、熱川屋さんにはあまりかんばしくない噂がある。小火の件じゃないがね。まあ、先代の病死に続いて、婿養子の若旦那が倒れたから、いろいろ言われたんだろう。さっき話に出た猫の急死も、祟りだなんだと言われるにはうってつけだしね」
「そのことは、美代ちゃんも気にしていました……」
「もちろん、祟りの何のってのは眉唾まゆつばもいいところだよ。けど、もう少し生臭い話もある。先代の内儀が婿養子の若旦那をいびったせいで、若旦那が気の病にかかったんだろうとか。いっそ、若旦那夫婦を離縁させて、別の婿を迎えようと画策しているとか。その候補の手代はもう決まっているんだとかね」
 一柳の目にはいつになく強い光が宿っていた。
「……そんな」
 お蝶は思わず抗議の声を上げてしまう。美代の母親がそこまで人でなしだとは思いたくなかったし、それに美代が否応なく巻き込まれているとも思いたくなかった。
「けど、それだって、世間が好き勝手に言ってるんだろう? それこそ、眉唾なんじゃ」
 動じているお蝶を気遣いながら、勲が一柳に向かって言う。
「そうかもしれない。私は熱川屋の主人一家をじかには知らないからね。これまでは聞き流していたんだ。けど、療養中の旦那を置いて、内儀とその母親が湯治に行ったと聞いて、考えが変わった。噂話にもいくらかの真実が混じっているのかもしれないとね」
 お蝶も勲たちも、一柳に言葉を返すことができなかった。
「猫の急死が小火の直後だとしたら、始末されたってのも、まったくの憶測とは言い切れないよ」
 と、一柳が一同の顔を見回しながら告げた。
「猫が死んだ日にちまでは……」
 お蝶は力なく首を横に振った。そもそも、美代が猫の急死のことは口にしながら小火のことを話さなかったことが気にかかる。
「俺も猫のことは分からねえ」
 と、勲が低い声で続けて言う。
 もし、そら豆の母猫が小火のせいで始末されたのならば、熱川屋の面々はそれだけ余裕を失くしているということだろう。そんな中、佐之助を残して湯治に出かける美代と加代も心のたがが外れているのかもしれない。
「勲さんのお兄さんに、あくまでも噂だと前置きした上で、今の話をしてみたらどうかね。もしかしたら、前とは言うことが変わるかもしれないよ」
 そう言うと、話は終わったとばかりに、一柳は立ち上がった。
「お代はここに置かせてもらいますよ。お蝶さんも預かっている猫には、気を配ってあげるといい。かわいそうな目に遭ったかもしれないおっ母さん猫の分までね」
「……あ、はい。またおいでください」
 気の抜けたような声で見送ることになってしまったが、一柳は気にする様子もなく去っていった。すると、火消したちも残っていた餅と茶を片付け、「今日はこれで」と言い残し、あたふたと帰っていく。
 今の話をめ組の親分の耳に入れるつもりなのだろう。勲は兄の東吾にも話すと思われる。
 もちろん、聞かされた二人は噂話を鵜呑みにはしないだろうが、熱川屋への警戒を強めるはずだ。
(美代ちゃん、そら豆……)
 大事な幼馴染みと、その彼女から預かった仔猫のことが、お蝶も気にかかってならなかった。

 

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