二
客は、初老の女と若い内儀 、それに男の奉公人と見える三人連れである。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、若い内儀が「あら」と声を上げた。一瞬の後、
「美代ちゃん?」
お蝶の口から自然と声が漏れる。思いがけない昔馴染みとの再会であった。
「そう、美代よ。お蝶ちゃんよね。久しぶりだわ」
美代はまぶしそうに目を細めて、お蝶を見つめてきた。
二人は同い年の幼馴染みで、寺子屋も一緒に通った仲である。美代はこの近くの油問屋、熱川屋の跡取り娘で、お蝶は芝神明宮の神職の娘。小柄で泣き虫だった美代は、よく近所の悪餓鬼たちにからかわれていたものだ。
後から思えば、彼らはただ美代の気を引きたかっただけだと分かる。
美代は愛くるしい容姿に加え、家も金持ちで、小袖や簪をいっぱい持っていた。新しい小袖や簪を身に着ける度、男の子たちにからかわれたり小突かれたりして、泣きべそをかいていた美代の顔が懐かしくよみがえってきた。
「何年ぶりかしら。七、八年くらいだと思うけれど」
お蝶が寺子屋に通わなくなってからは、会う機会がめっきり減ってしまった。
美代が十七歳で婿を取った時も、お蝶は人づてに話を聞いただけだ。それが六年前のことで、二人は今年で二十三歳になる。
「皆さん、どうぞゆっくりしていってください」
お蝶は三人を空いている席へと案内した。
美代は生姜湯を、初老の女と奉公人は茶を頼むという。おりくが奥で用意してくれたそれを、お蝶は運んだ。どの湯飲み茶碗も熱い湯気が立っている。
「結城さんとこのお蝶ちゃんだったのね。今、この娘に聞いて、思い出したのよ」
初老の女が言った。結城というのは、芝神明宮の神職をしていたお蝶の亡父のことである。
「美代の母の、加代です」
「あ、はい。お母さまのこと、あたしも思い出しました」
美代の母とは、子供の頃、幾度か顔を合わせていた。お蝶と加代の挨拶が終わると、
「うちの手代で、丁次というのよ」
と、美代が奉公人の男をお蝶に引き合わせた。
丁次は無言で軽く会釈をする。少し愛想に乏しいが、いかにも大店の奉公人らしく、抜け目がなさそうであった。
「お蝶ちゃんがここの門前茶屋で働いているとは、知らなかったわ」
美代は生姜湯にふうっと息を吹きかけながら、お蝶を見上げて微笑んだ。明るく屈託のない笑顔に見えるが、その目の奥には憂いの色が漂っている。
よく見れば、加代もただ年を取ったというだけではない疲労の翳を表情に滲ませていた。
芝神明宮へお参りに来る人は、大きく三つに分かれる。
一つめは、旅先の無事を祈願したり、旅を終えた人がお礼参りに来たという類。
二つめは、日々の安全と無事を願ってお参りに来たという類。
三つめは、今の今、大きな悩みを抱えていたり、不運に見舞われたりして、神頼みに来たという類だ。
この三つめの類の人が茶屋に立ち寄ると、顔つきで何となく分かる。彼らは自分の話を聞いてもらいたがっていることが多い。そういう客たちの話を聞いて、感謝されることがお蝶には度々あった。特によい助言ができなくとも、人は話を聞いてもらうだけで、肩の荷を少し下ろせるものらしい。
お蝶はいったん奥へと下がり、太々餅を一皿、盆に載せて戻った。
「よければ、太々餅もいかが。これはあたしから。お代はいただきませんから」
美代の前に屈み込み、同じ目の高さになって言うと、
「まあ、ありがとう。お蝶ちゃん」
美代の目が明るく輝いた。
「あらあら、申し訳ないこと。それじゃあ、あたしと丁次の分もいただけるかしら」
自分たち二人の分は代金も支払うということで、加代が追加の注文をする。それを受け、二人分の太々餅を運び終えると、「お蝶ちゃん」と美代がそれまでとは違う調子で呼びかけてきた。
「少し話を聞いてもらえる?」
やはり、美代は誰かに──それも母や奉公人という身近な人ではなく、他人に話を聞いてもらいたがっていたようだ。
「もちろんよ」
お蝶は言って、美代の前の席に腰を下ろした。
「今日、お伊勢さまにお参りに来たのは、うちの人の病平癒を願ってのことなの」
美代は思い切った様子で、ひと息に言った。「お伊勢さま」とは、関東の伊勢神宮たる芝神明宮の呼び名である。地元では皆、そう呼んでいた。
「美代ちゃんのお連れ合いは、今の熱川屋さんのご主人ですよね」
「……ええ。まだ三十路を過ぎたばかりなんだけど、寝付いてしまって」
美代はうつむきがちになり、小声で言う。
美代の夫である佐之助は、もともと熱川屋の手代で、先代に認められて婿入りした男であった。佐之助と美代が祝言を挙げてから、四年後に先代が他界。佐之助は若くして熱川屋の主人となった。
早すぎる先代の死により、一時期はどうなることかと危ぶまれたものの、真面目な佐之助は手堅く店を守り、商いが傾くこともなく今に至っているという。
佐之助と美代の間にはなかなか子ができなかったが、気がかりと言えばそれくらいで、美代としては他に思い悩むことのない暮らしぶりだったそうだ。
「でも、半年くらい前から、どうも体がだるいと言い始めたの」
本人も疲れただけと言っていたし、美代も働きすぎが祟ったのだろうと思うだけだった。暇ができたら湯治にでも出かけたいわ、いや、そんな暇など作れるものか、などと言い合いながら、さほど心配していなかった。
ところが、三月ほどもすると、佐之助は朝起き上がるのがしんどいと言うようになり、あれよあれよという間に寝付いてしまった。医者は体と気の力が弱まっていると言うだけで、薬は処方してくれるものの、あまり改善は見られないそうだ。
「先代が寝付いた時も、ちょうど同じような感じだったものでね」
美代に代わって加代が口を開いた。熱川屋の先代、つまり美代の父親も五十に届かずに他界した。佐之助と同じように婿養子で働き者だったという。
「うちの人も、お父つぁんと同じようになっちゃうんじゃないかと思うと、あたし……」
美代の声が震えた。加代が美代の背を静かにさすり始めると、かすかなすすり泣きの声が聞こえてくる。
「いつまでも頼りない小娘のままで、あきれているでしょ?」
加代がお蝶に目を向け、苦笑を浮かべた。美代の涙もろいところは変わっていないようだ。
「子供の頃から、お蝶ちゃんはしっかり者のお姉さんだったのに、この娘ときたら……」
「いえ。ご主人のことで、美代ちゃんが不安になるのはもっともなことです」
お蝶は静かに言葉を返し、加代から美代へと目を戻した。
「美代ちゃんが気苦労で倒れてしまわないか、そのことも心配だわ」
「……ありがとう、お蝶ちゃん」
美代は涙を拭くと、そう言って顔を上げた。無理に微笑んでいるその様子が何とも痛々しい。
「まったくねえ。美代が倒れてしまったら、元も子もありゃしない。それでね、佐之助の容態もこれ以上は悪くならないだろうし、店のことは丁次に任せておけば安心だから、美代をしばらく湯治に行かせることにしたのよ」
と、加代が言った。
「え、佐之助さんもご一緒に、ですか」
美代を湯治に行かせる──という加代の物言いに引っかかり、お蝶は訊き返した。臥せっているのは、美代ではなくて、佐之助のはずだが……。
「いえ。佐之助が出るなんて無理ですよ。美代を休ませたいのに、佐之助も一緒じゃ、気も休まらないでしょ?」
加代はごく当たり前のように言う。
「……え、ええ」
お蝶はあいまいにうなずきながらも、喉にものを詰まらせたような違和感を覚えていた。
熱川屋にとって優先されるべきは、佐之助の養生と快復ではないのだろうか。それなのに、加代が第一に考えているのは、まだ倒れたわけでもない美代のことなのだ。
「美代を一人で行かせても、気がふさぐだけだろうから、あたしが付き添うことにしたの。今日のお参りは、あたしたちの旅が無事でありますように、との祈願も兼ねてのことでね」
「……そうだったんですね。ご無事に行ってらしてください」
お蝶は気を取り直して加代に告げたが、美代は加代の物言いを気に病むふうで、
「うちの人を置いていくのは気がかりなんだけど、誰よりも熱心に、行ってこいと勧めるものだから」
と、言い訳するように付け加えた。どことなく気の強い母の言いなりに見えなくもない。そういえば、美代は事あるごとに「おっ母さんが……」と口にする子供であった。そんな幼馴染みのか細い肩を見ていると、放っておけない気持ちになって、
「もしお手伝いできることがあれば、言ってちょうだいね」
と、お蝶は言ってみた。
すると、美代は少し考え込むような表情になり、やがて、
「ねえ、お蝶ちゃんって、前に猫を飼ってなかったかしら」
と、唐突に切り出した。いきなりの話に戸惑いつつ、
「社に迷い込んできた仔この世話をしていたことなら……」
と、お蝶は答える。
神職の父と暮らしていた頃、迷い猫の貰い手が見つかるまで、面倒を見ていたことがあった。小さな三毛猫でかわいらしく、お蝶はずっと飼い続けたかったが、貰い手が見つかったため泣く泣く手放したのだ。父に内緒で、こっそり「ミケ」と呼んでいたあの猫は、今頃どうしているだろう。
近頃では思い出すこともなかったミケの面影を浮かべていると、
「実は、うちでも今、猫を飼っているの。もともとは母猫と仔猫の二匹だったんだけど、母猫がついこの間、死んでしまってね。遺された仔猫がかわいそうで」
と、美代が話を続けた。
「それは、寂しがっているでしょうね」
お蝶も悲しい気持ちになって呟いた。
「おっ母さんとあたしが湯治に出かけている間、女中たちに世話を任せるつもりだったんだけど、お蝶ちゃんに見てもらうことはできないかしら。もちろん、無理にとは言わないけれど」
「あたしに?」
久しぶりに再会した幼馴染みの突然の頼みに、お蝶は目を瞠った。
「そんなことを急に言い出したら、お蝶ちゃんだって迷惑でしょうに」
加代があきれた様子でたしなめると、美代は素直にうなずき、「そうよね。おかしなことを言ってごめんなさい」とすぐに話を取り下げようとする。
「ううん。あたしは猫が大好きだから迷惑なんかじゃないわ。でも、その仔猫があたしに懐いてくれるかしら」
「実は、けっこう人見知りする仔でね。女中たちにもあまり懐いていないし、この丁次もすっかり怖がられているのよ」
美代は丁次に目を向けて、ふふっと笑った。
「面目ない。あっしが懐かれていりゃ、お預かりするんですが」
丁次が低い声で軽く頭を下げて言う。美代は軽口のつもりで言ったのだろうが、丁次は真に受けているようで、笑みの一つも見せることはなかった。仕事ができると加代も言っていたし、真面目な男のようだ。
「よければ一度、うちの仔猫を見に来てくれないかしら。お蝶ちゃんにてんで懐かないようだったら、こちらで何とかするわ。こうして思いがけず再会もできたし、もっとお蝶ちゃんといろいろ話したいのよ」
美代の眼差しに、それまでとは違った切実な色がある。もしかしたら、お蝶にだけ話したいことがあるのかもしれない。
「分かったわ。お店の仕事が終わってからでもよければ、お伺いします。七つ半(午後五時頃)過ぎになってしまうかもしれないけれど」
美代はかまわないと言うので、その日さっそくお蝶は美代の家へ行くことにした。
「それじゃあ、お待ちしているわね」
最後はすっかり笑顔になって美代は言い、三人は立ち上がった。加代と丁次を先に行かせた美代は「ごめんね。変に思ったでしょ?」とこっそりお蝶に耳打ちしてくる。
「おっ母さんは、うちの人のことを少し疎ましく思っているみたいで」
「そう……なのね。お店のことを心配するあまりなんでしょうけれど……」
「うちの人が臥せっているのが不満なんでしょうけど、そうならなければならないで、何かしら不満の種を見つけ出していたのよ、おっ母さんは」
溜息まじりに美代は言う。
病の床に就いて、店の仕事を果たせなくなり、姑の加代から厳しい目を向けられる佐之助のことが、お蝶は気の毒になった。それでも、美代が佐之助を悪く言う言葉は一つも聞いていないので、それがせめてもの救いかもしれない。
「それじゃあ、また後でね。うちの仔に会いに来てちょうだい」
美代は昔のような親しさで言った。こんなふうに約束をして、美代の家に遊びに行った子供の頃のことをお蝶も思い返す。
「ええ。後でお邪魔するわね。昔のようにお家の裏口へ回ればいいのかしら」
「店の表口から入ってくれてもかまわないけれど。お蝶ちゃんの好きにしてちょうだい」
美代はそう言い残すと、茶屋の前で待っている加代と丁次のもとへ向かった。
(そういえば、仔猫ちゃんの名前を聞いていなかったわ)
三人そろって門前通りを歩いていく美代たちの背中を見送りながら、お蝶はそのことを心に留めた。
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