(しっかり者のお姉さん、か)
 その日の夕方、久しぶりに美代の家へ向かう道をたどりつつ、お蝶は先ほど聞いた加代の言葉を思い出していた。「しっかりしている」とは、お蝶が子供の頃からよく言われてきた言葉だ。早くに母を亡くしたため、弟や妹がいないにもかかわらず、「お姉さん」と言われることもままあった。
 そんな幼い頃のある日、美代が、
 ──お蝶ちゃん、千木筥ちぎばこって知ってる? あたし、あれが欲しいの。
 と、言い出したことがあった。
 千木筥とは芝神明宮の門前で売っているお守りで、神宮の本殿や拝殿に使ったのと同じ木を使って作ったという木箱である。三つの小箱を藁で連ねた形をしており、千木は「ちぎ」という読みから「千着」に通じ、千着の着物を得ることが叶う、と言われていた。女人の着物は嫁入り道具でもあるため、良縁に恵まれるお守りともいう。
 当時の美代がそこまでのことを知っていたかは分からないが、嫁入りへの憧れのようなものはあったのだろう。
 お蝶は千木筥を欲しいと思ったこともなかったが、美代から買い物に付き合ってほしいと頼まれ、うなずいた。
 とはいうものの、その頃はまだ、二人とも子供たちだけで買い物をした経験がなかった。門前の店が建ち並ぶ通りに出たはいいが、美代は千木筥を売っている場所が分からないと言う。
 父が神職だったこともあり、まだしも門前町に馴染みのあるお蝶が、その辺りの大人たちに訊き回り、ようやく千木筥を売る店にたどり着いたのであった。
 大人たちからは「姉妹そろってお買い物かね」などと言われ、誰もがお蝶を姉、美代を妹と思っていた。美代はにこにこ「うん、そう」などと応じていたし、お蝶も悪い気はしなかった。ただ、愛想よく微笑むだけで、自ら千木筥を売る店を探そうともしない美代に、少しばかりもやもやした気分を抱いたのは事実である。
 とはいえ、目当ての千木筥を手に入れ、嬉しそうにしている美代を見れば報われた気がしたし、その後、美代が千木筥を悪餓鬼どもに取り上げられた時には、率先して立ち向かい、取り返してあげたりもした。
 それからも、二人の間柄は変わることなく、やがて互いの境遇の変化と共に、いつしか疎遠になってしまったのだが……。
 いまだに自分は美代にとって「しっかり者のお姉さん」なのかと思えば、妙な気分である。ただ、親心ならぬ「姉心」とでも言うのだろうか、忘れていた心の一部を刺激されたせいか、今も母親に気圧けおされ気味の美代を少し不安に思う気持ちが湧いていた。
 そんな思い出にふけっているうち、お蝶は熱川屋へ到着した。現れた女中に手土産の太々餅を手渡すと、すぐに美代たち一家が暮らす母屋おもやへ案内された。
 通されたのは八畳ほどの客間で、案内役の女中が去ってからすぐに現れた美代は、腕に仔猫を抱いている。
「みゃあ」
 おとなしくしていた仔猫は、美代がお蝶の前に座るなり、お蝶を見て鳴いた。
「そらまめというの」
 美代は仔猫の顔をお蝶に見えるように向けて言った。そら豆は昔、お蝶が面倒を見ていたミケによく似た三毛猫で、両手の上にちょこんと載ることができそうな大きさである。
「こちらはお蝶ちゃん。あたしの幼馴染みよ」
 美代はそら豆にお蝶を引き合わせた。
「初めまして」
 お蝶はそら豆の目をじっと見つめながら挨拶した。そら豆の目はなるほど、茹でたそら豆のような明るい緑色をしている。くりっとした目の形も、どことなく本物のそら豆を思わせた。
「いいお名前を付けてもらったのね」
 心をこめてお蝶が言うと、猫のそら豆は再び「みゃあ」と鳴いた。
 ──そうそう。
 とでも言っているようだ。
「そら豆が初めて会った人の前で、こんなに落ち着いているのはめずらしいわ」
 美代はそら豆の小さな頭を指で撫でながら言う。
「そうなの?」
「ええ。脅えるか、うなり声を上げるか、たいていはそのどちらか。こうして抱き上げていないと、逃げていってしまうし」
「それじゃあ、あたしは嫌われていないのね」
 お蝶はそら豆に笑いかけた。美代から「ちょっと頭を撫でてみて」と言われ、人差し指と中指だけでそっと撫でると、そら豆はごろごろと喉を鳴らしている。
「何だか、古い知り合いに会ったみたいね」
 美代は驚いて言い、「美代ちゃんの気持ちがそら豆に伝わったのかも」とお蝶は返した。
 その後、お蝶が女中に渡した太々餅の礼を美代から言われ、茶を運んできた女中が立ち去ると、美代は表情を変えておもむろに切り出した。
「今日は無理を言ってごめんなさいね。あまりに懐かしくて」
 茶屋で話すだけでは物足りなくなってしまったのだと、美代は言った。
「そら豆のことは預かってもらえたら嬉しいけれど、お蝶ちゃんとこうして話をしたい口実だから、断ってくれてもかまわないからね」
 と、続けて言う。お蝶はふふっと笑った。
「たぶん、そんなところじゃないかと思ったわ」
 それから、自分は長屋の独り暮らしで、気兼ねするような身内もいないのでかまわないと続けた。お蝶が独り身であることは、歯黒めをしていないことから分かるだろうが、念のためはっきりと伝えておく。
「そら豆を預からせてもらうのは、あたしとしては嬉しいんだけど、茶屋に出ている間は長屋で独りぼっちになってしまうわ。それでも平気かしら」
「この家でもかまってあげるのはあたしだけだし、大丈夫だと思うわ。お蝶ちゃんさえかわいがってくれて、この仔もお蝶ちゃんに懐いてくれるなら……」
 そう言って、美代は腕の中のそら豆を見つめる。そら豆は美代を見上げて、眠そうな声で鳴いた。
「ちょっと、あたしに抱かせてもらってもいいかしら。それで平気そうなら、預からせてもらうわ」
 お蝶の言葉に美代はうなずき、それからお蝶はそら豆を抱き取った。そら豆は目を細めてお蝶を見つめていたが、お蝶が膝の上に載せて手を離すと、体を丸めて目をつむった。
 このまましばらく様子を見ようということになり、お蝶は改めて美代を見つめた。
「美代ちゃんは、ご主人のお体のこと以外にも、何か心配事があるんじゃないの?」
 お蝶の言葉に、美代が小さく息を呑む。それから、仕方なさそうに小さく微笑むと、
「あたしね。お蝶ちゃんから気味悪い目で見られるんじゃないかなって、少し怖かった。でも、お蝶ちゃんは昔と少しも変わらずに優しくしてくれて、本当に嬉しかったのよ」
 と、言った。
「気味悪いって、そんなこと、あるわけないじゃない?」
 驚いて言葉を返すと、美代は悲しげに首を横に振った。
「それは、お蝶ちゃんが熱川屋の悪い噂を聞いてないからだわ」
「悪い噂……?」
 困惑して、お蝶は首をかしげる。さもあろうと美代はうなずいた。
「世間は狭いから、そのうちお蝶ちゃんの耳にも入ると思う。でも、その前に、あたしの口から話しておきたいの。お蝶ちゃんは大事な幼馴染みだから」
 美代の表情にはもう笑みは浮かんでいない。お蝶は少し落ち着かない気分で、そら豆の体にそっと手をやった。仔猫の温もりが掌に伝わってきて、少しだけ気持ちが落ち着く。
「熱川屋は祟られていると言われているの。二年前にお父つぁんが急死した後、うちの人が続けて病に倒れたものだから」
「誰だって病にはかかるし、いつかは死ぬわ。それが重なることだって」
「お父つぁんもうちの人も、倒れる数日前までは元気だったものだから、余所よそさまの目には奇妙に見えたんじゃないかと思うの。それに、ふた月ほど前、そら豆の母猫も急に死んじゃって……」
「あ……」
 母猫の話は店でも聞いていたが、それがこのそら豆の母猫なのだと思うと、急にしんみりした気持ちになる。そら豆の体の小ささからすれば、生まれて一年も経っていないだろう。
 その後、美代から聞いた話によれば、そら豆の母猫が仔を産んだのは昨年のことだそうだ。仔猫たちは次々にもらわれていき、最後まで残ったのがいちばん体の小さなそら豆だった。ところが、間もなく母猫が死に、独りぼっちになったそら豆はずいぶん元気を失くしていたのだという。
「猫って死ぬ時を悟ると、姿を消してしまうこともあるんですってね。でも、そら豆の母猫はうちの人が休んでいる部屋で冷たくなっていたの」
「まあ……」
「うちの人がかわいがっていたから、最期はその近くで迎えたかったのかもしれないわ。少し苦しんだみたいで、物が倒れたりして……ね。物音でうちの人が目を覚ました時にはもう……」
 美代はうつむき、はなをすすった。
「それからなの。うちが祟られているって言われ始めたのは──」
「そうだったのね」
「化け猫の祟りだとか、うちのご先祖が悪さをした報いだろうとか、いろいろ言われたわ。猫が死んだのは事実だけれど、まったく謂れのないことまで」
 加代がぴりぴりして見えたのも、美代が湯治に行くのも、そういう事情があってのことかとお蝶は理解した。その留守宅にそら豆を残していくのは、美代には不安の種なのだろう。
「美代ちゃんはお母さまと一緒に、温泉でゆっくりしてくるといいわ。養生中のご主人が美代ちゃんに湯治を勧めたのが少し不思議だったけれど、今ならご主人のお気持ちもよく分かる。少し家を離れて、美代ちゃんに元気を取り戻してほしいのよ」
 お蝶は再び沈みがちになった美代を慰めた。
「あたしって……本当に情けないわよね。お蝶ちゃんもあきれているでしょ?  いじめられて、お蝶ちゃんにかばってもらっていた頃から、何も変わらない」
「そんなことはないわよ。今の美代ちゃんには大切な人がそばにいるじゃない」
 顔は知らぬものの佐之助のことを思いつつ、お蝶は言った。
「美代ちゃんは佐之助さんのことを大事に思っているんでしょ」
「もともと、うちの手代だったせいもあるけれど、あたしをとても気遣ってくれる優しい人なの」
「美代ちゃんの口ぶりから、よく分かるわ」
「うちのおっ母さんに口答えをしないから、気弱なたちに見られることもあるんだけど、商いの場ではそうでもないのよ」
 美代は佐之助を庇うように言う。
「そりゃあ、ご先代が手代さんたちの中から選んだ人でしょうからね」
 先ほど見かけた丁次も、仕事ができると加代が言っていたし、お蝶の目にもそう見えた。佐之助はあの丁次に勝るとも劣らぬ人物なのだろう、などとお蝶が思っていたら、
「選んだのはお父つぁんだけど、あたしにも考えを訊いてくれたの」
 と、美代が言い出した。はにかむようなその表情で、お蝶も勘づいた。
「美代ちゃん自身が、佐之助さんがいいと言ったのね」
「そ、そこまではっきりとは言っていないわ」
 美代が顔を赤くして言う。確かに、美代のことだから名指しまではしていないのだろう。だが、美代が店のために好きでもない男を押し付けられたわけではないと分かり、お蝶は安堵した。
 この婿取りの件に、あの加代は関与していなかったのかなとふと疑問が湧いたが、そこまで尋ねるのも失礼かと思い口をつぐむ。
「でも、美代ちゃんは好いたお人と一緒になれたのね。よかったわ」
 商家の跡取り娘にはなかなか難しい道である。美代もそれが分かっていたのだろう、
「ええ、そう思ってるわ」
 と、素直な物言いで微笑んだ。今日、お蝶が見た中で、最も自然で、最も明るい笑顔であった。
「今は調子がよくないけれど、元気になったら、うちの人にも会ってちょうだい」
「もちろんよ」
 互いにうなずき合った時、
「……みゃあ」
 お蝶の膝の上のそら豆がもぞもぞと動きながら、眠そうな声で鳴いた。それから、ぴょんと畳の上へ跳び下りると、前足で顔をこすっている。その伸びやかな動きからは、緊張や脅えなどはまったくうかがえなかった。
「この様子なら、お蝶ちゃんに預かってもらうのが、そら豆にとってはいいようだけれど……」
 と、仔猫の態度を見ながら、美代が呟く。
 聞けば、美代と加代が伊香保いかほの湯治に発つのは十日ほど後のことだそうだ。ならば、出発の数日前からそら豆を預かり、様子を見ることにしてはどうかと、お蝶は訊いてみた。
「初めは夜だけ預からせてもらって、あたしが茶屋で働いている間は美代ちゃんのお家に連れてくる、という形でどうかしら」
 そら豆もいきなりお蝶の長屋で留守番をさせられるのはきついだろう。美代が発つ前に少しずつ長屋に慣らしていけば、美代が発つ頃には留守番もできるようになるかもしれない。
 美代も承知し、とりあえずは明日の夕方から、お蝶がそら豆を預かることが決まった。
「そら豆の好物は何かしら」
「うちでは、お粥に鰹節を入れたものを与えているわ。炊いたご飯も食べるけれど、お粥の方がいいみたい」
 お米はいいとして、鰹節は仕入れておかなければならないかもしれない。そう考えていたら、
「鰹節はあたしが用意しておくわ。少ないけれど世話賃も出させてもらうから」
 と、美代が言う。すると、そら豆が待っていたかのように「みゃあ」と鳴いた。
「当たり前だ、ですって」
 お蝶と美代は顔を見合わせ、声を上げて笑った。そら豆は何食わぬ顔で、うーんと伸びをしていた。

 

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