だいだい餅はいらんかね。太々餅、ここでしか食べられない太々餅だよ」
 餅売りの掛け声がのんびりと聞こえてきたかと思うと、競い合うように、
芝神明しばしんめいさんにお参りしたなら、生姜を忘れちゃいけないよ。干した生姜をせんじて飲めば、風邪封じには間違いなし」
 干した生姜を売り歩く男の声が響いてくる。
 芝神明宮の門前茶屋、いすず屋ではいつものことだ。おちょうはこの茶屋で接客の女中として働いている。
 いすず屋では、茶の他に甘酒や汁粉、生姜湯、それに太々餅も出していた。
  太々餅は焼いた餅にこし餡をつけて丸めたもので、餅の香ばしさが客たちに人気である。
 東海道とうかいどうからほど近い芝神明宮への参拝客は、年中途切れることがない。いすず屋はそのお蔭でにぎわっていたが、お蝶は手が空けば、客の茶飲み話に付き合わされる。この日、
「お蝶さん、面白い話を仕入れてきたよ」
 と、声をかけてきたのは、いちりゅうという初老の自称俳人であった。
 一柳は号であろうが、本名は知らない。元は商家の主人だったそうで、俳句は隠居してから始めた道楽だというが、作った俳句を披露してもらったことはなかった。
「おいおい、ご隠居さんよ」
 その時、割って入る声がした。
「あら、いさおさん。いらっしゃい」
 お蝶はちょうど現れたはんてん姿の若い男に、愛想よく声をかけた。
 勲は町火消し「め組」のまとい持ちである。この芝一帯で火が出れば、すぐさま鎮火に動いてくれる頼もしい男たちの一人だ。背が高く、いかにも頑丈そうな体つきをしている。
「面白い話でお蝶さんを独り占めしようって算段かい?」
 軽口まじりとはいえ、大男の勲に詰め寄られても、一柳は飄々ひょうひょうとしていた。
「おや、れちまったかい。それじゃあ、仕方がない。勲さんもお蝶さんと一緒に、この爺さんの話を聞いておくれでないかね」
「まあ、そう言うんなら、聞いてやってもいいけど」
 勲は偉そうな調子で言い、一柳と向かい合う形で腰かける。
「話の前にご注文を。勲さんはお茶でいいかしら。太々餅も付ける?」
 お蝶が尋ねると、勲は「太々餅、二つ」といつものように答えた。
 水屋に下がると、女将のおりくが注文の品をそろえているところだった。
「ちょいと待っておくれ」
 と、言いながら顔を上げたおりくの口から、続けて「あちゃー」という困惑気味の声が漏れる。
「どうしたんです」
「どうもこうも。まずいのが鉢合わせしちまったよ」
 おりくは客席に目をやりながら、溜息まじりに言う。その時にはお蝶も、客席と水屋を仕切る暖簾のれんの隙間から、「鉢合わせ」の現状に目を向けていた。
「てめえ、何しに来やがった」
 勲が立ち上がり、目の前の男に言いがかりをつけている。相手は大名火消し、加賀鳶かがとび龍之助たつのすけという男で、前にもこの店で勲と衝突したことがあった。
「茶を飲みに来たんだよ。何が悪い」
 腕組みをして言い返す龍之助も、火消しの例に漏れず、勲に負けぬ背丈とがっしりした体の持ち主である。
「ここはめ組の縄張りだ。てめえの来るところじゃねえ」
「どこで飲み食いしようと、俺の勝手だろうが」
 龍之助の言うことはもっともである。
 火が出た際、武家の屋敷地と町家とでくっきり分けられるものでもなく、大名火消しとじょう火消し、町火消しの間でいさかいになるのはよくある話であった。だが、その縄張り以外で飲み食いしてはいけないなどという決まりはない。大体、勲の発言はいすず屋の客を追い払うという出すぎたものであり、おりくが「ちっ」と舌打ちするのをお蝶は聞いた。
 それでも、おりくは出ていって、勲をいさめることはしなかった。
 め組の勲は、おりくにとってもお蝶にとっても古い馴染なじみだ。対する龍之助はついふた月ほど前から足を運び始めた、いわば新参者に毛が生えたような客。すぐに加賀鳶の肩を持って、勲の面子をつぶすのもよくないのである。
 おりくは手を休めず、茶と餅の支度を調ととのえていった。そうするうちにも、客席の熱気はどんどん高まっていき、「何だ、喧嘩か」「め組の火消しと加賀鳶だってさ」「いいぞ、やっちまえ、め組の若い衆」などと、店の外に集まった野次馬たちの声まで聞こえてきた。
「さ、できたよ。行ってきな」
 おりくが威勢のいい声で言い、お蝶の肩をぽんと叩いた。お蝶は勲の茶と太々餅を載せた盆を持ち、
「お待ち遠さま!」
 と、声を張り上げ、客席へ出ていった。
「勲さんたら、なに、立ってるの? ほら、さっさと座って召し上がれ」
 お蝶の声かけにより、ひとまず火消したちの諍いは静まった。かたわらに座る一柳をちらと見やれば、我関せずという様子で、茶をすすっている。
 勲は不貞腐れた顔つきながらも、再び腰かけた。
 野次馬たちは、「何だ、喧嘩しないのかよ」などとぶつくさ言いながらも、あっさりたなさきから散っていく。喧嘩は金を払わずに楽しめる娯楽なのだ。特に、火消しのような若くて強い男たちの喧嘩は──。
 お蝶はてきぱき、湯飲み茶碗と太々餅を勲に差し出すと、今度は龍之助に向き直り、
「いらっしゃい、龍之助さん」
 と、明るく声をかけた。
「どうぞ、こちらへ」
 と、さりげなく勲から離れた席へと案内する。
「……あ、ああ」
 龍之助はややきまり悪い表情で返事をした。
「ここでいいかしら」
 端の方の席になってしまったが、我慢してもらうしかない。「も、もちろん」と龍之助はすぐに答えた。その顔が火照ほてっている。勲との口喧嘩で相当熱くなっていたようだ。
「お茶よりも冷や水の方がいいかしら」
 龍之助の顔をのぞき込むようにしながら問うと、「いや、その……」と何やら口ごもっている。勲と言い争っていた時とはまるで別人だった。
「とにかく座って」
 お蝶は腰かけを示したが、龍之助はその言葉も耳に入らない様子で突っ立っている。そのまま「お蝶さん」と緊張気味の声で呼びかけ、白い布に包まれた何かをたもとから丁寧に取り出した。布の中から現れたのは、木彫りのかんざしだった。桜の花をかたどった細工が施され、桜色の小さな玉もついている。
「お蝶さんに似合うと思うんだ。受け取ってくれないかな」
「そんなたいそうなお品、いただけません」
 お蝶はすぐにかぶりを振った。
「大袈裟に考えないでくれ。そんなに値の張るものじゃないんだ」
 龍之助は急に早口になる。
「いえ。いただく理由もありませんし」
「いつも美味しい太々餅を食べさせてくれるお礼だよ。負担に思うことなんてないからさ」
 一生懸命に言う龍之助の姿はいじらしいが、他の品ならともかく、身に着ける品をもらういわれはない。どう言って龍之助を納得させようかと、お蝶が思いめぐらしたその時、
「おいおい、龍之助よう」
 勲が立ち上がって、こちらへ向かってきた。
「ちょいと、勲さん。野暮な真似はやめときなって」
 この時は、勲をたしなめる一柳の声がそれに続いた。が、勲の足が止まることはない。
「お蝶さんが困ってるだろ。いい加減、それを引っ込めねえか」
「何だと。関わりのない野郎が話に入ってくるんじゃねえ」
 お蝶に対してはしどろもどろだった龍之助が、勲を相手にした途端、大胆不敵な態度に早変わりした。
「見過ごせねえから言ってんだよ。いいか、お蝶さんはなあ」
 と、勲が声を荒らげたその時、
「ちょいと、二人とも」
 と、鋭い声が店の奥の方からした。
 それまで水屋に控えていたおりくが、満を持した格好で現れたのだ。
「店の中で諍いは困るんだよ。やるんなら外でやっとくれ」
 おりくはお蝶の脇までやって来ると、腰に手を当てて言った。勲と龍之助はばつの悪い表情になると、それぞれおりくから目をそらした。
「どうするんだい。外で殴り合うなら勝手だよ。けど、うちのお蝶を出しにするのはやめてもらおうか」
 おりくの言葉に、勲も龍之助も言い返してはこなかった。勲は軽く舌打ちしつつも自分の席へと戻り、龍之助は始末をつけかねていた簪を再び袂に戻すと、
「女将さん、お蝶さん、すまねえ。今日は帰らせてもらうよ」
 と言うなり、席には着かずきびすを返した。
「せっかく来てくださったのに、ごめんなさい」
 お蝶は立ち去る龍之助の背に小さく声をかける。
「いや、俺の方こそすまねえ」
 龍之助は振り返らずに返事をすると、そのまま去っていった。
 席へ戻った勲は発散できなかった怒りがくすぶっているようだ。残っていた太々餅をあっという間に平らげると、「ごちそうさん」と言葉少なに帰っていった。
 勲が嵐のように立ち去った後には、一柳がちんまりと座っている。お蝶と目が合うと、
「やれやれ。せっかくの話も聞かないで、帰ってしまったねえ」
 と、溜息まじりに苦笑した。
 そういえば、勲と一緒に一柳の話を聞くことになっていたのだと、お蝶は思い出した。一柳は毎回というわけではないが、店へやって来ては面白い話や不思議な話を聞かせてくれる。それを隣の長屋に暮らす子供たちに聞かせてあげると、とても喜ばれるので、お蝶も楽しみにしていたのだが……。
「ま、今日は私もおいとましようかね。話はまた次の機会にでも」
 一柳もそう言って、代金を置くと立ち上がった。
「一柳さんにもご迷惑をおかけしてごめんなさい。これに懲りず、またいらしてください」
「はい。そうさせてもらいますよ」
 一柳は機嫌を損ねた様子もなく、にこにこしながら帰っていった。それを見送ってから、お蝶は片付けのため、いったん水屋へ下がる。仕事を終えて客席の方へ戻ってくると、ちょうど新たな客が入ってきたところであった。

 

『芝神明宮いすず屋茶話 1 埋火』は全4回で連日公開予定