人情小説の名手が、門前町を舞台に義理と人情あふれる日常を描き出す新シリーズが始動した。
芝神明宮の門前茶屋「いすず屋」で女中として働くお蝶は、人には言えないある事情を抱えている。そんなある日、お蝶の幼馴染みで、油問屋の跡取り娘のお美代が店を訪れ湯治に行く間仔猫を預かってくれないか、と頼んできた。か思いつめたお美代の様子に、お蝶は不安を覚えるが……。
書評家・細谷正充さんのレビューで、『芝神明宮いすず屋茶話(一) 埋火』の読みどころをご紹介します。
■『芝神明宮いすず屋茶話(一) 埋火』篠綾子 /細谷正充 [評]
期待の新シリーズが開幕した。ヒロインを中心にした世界は、美しく楽しい。だから、広がっていくシリーズの行方を、追いかけずにはいられないのだ。
文庫書き下ろし時代小説の世界で活躍している篠綾子が、新シリーズを開始した。その第一弾が本書である。主人公のお蝶は、長屋暮らしをしながら、芝神明宮の門前茶屋「いすず屋」で運び役をしている。現代でいえばウェイトレスだ。芝神明宮の神職の娘だったお蝶が、なぜ「いすず屋」で働いているのか。作者は最初から読者の興味を掻き立てるフックを見せながら、物語の世界に導いていく。
本書は連作であり、短篇4作が収録されている。冒頭の「猫と魚油」は、紹介篇といっていいだろう。「いすず屋」は、茶の他に甘酒や汁粉、生姜湯、それに太々餅(焼いた餅にこし餡をつけて丸めたもの)を出している。そんな店には、面白い話や珍しい話を語ってくれる初老の自称俳人の一柳や、勲を始めとする町火消し「め組」の男たちなどの常連がいた。ちょっと困っているのは、お蝶に一目惚れして通うようになった、大名火消し、加賀鳶の龍之助と勲が揉めること。背景には町火消しと大名火消しの対立がある。
なんだかんだと賑やかな「いすず屋」に、お蝶の幼馴染で、油問屋「熱川屋」のお美代がやってくる。母親と手代も一緒だ。「熱川屋」の先代は四年前に他界し、お美代の婿になった佐之助も病気で寝ついている。看病疲れの出たお美代は、母親に勧められて湯治に行くとのこと。しかし湯治に行くべきなのは佐之助ではないのか。お美代から仔猫の“そら豆”を預かったお蝶は、「熱川屋」の悪い噂や小火騒ぎを知り、疑問を深めていく。
ミステリー仕立てのストーリーの中で、お蝶たちが躍動する。長屋の隣に住む、幼い兄妹の可愛らしさを、そら豆を絡めて描いた部分など達者なものだ。もちろん「熱川屋」の騒動の真相も暴かれる。シリーズとして、上々の滑り出しだ。
続く「め組と加賀鳶」「百万石の花屋敷」では、お蝶の抱える過去と事情が語られる。かつて「め組」の纏持ちだった源太と、恋仲だったお蝶。しかし、火事の最中に源太が消え、今も行方不明のままだ。どうやら源太が姿を消した理由に、加賀藩の問題がかかわっているらしい。
さらに加賀藩の上屋敷にいる、藩主の側室のお貞は、お蝶の幼馴染。そしてお蝶は一時期、訳あってお貞に仕える奥女中をしていた。実は主人公に、大きな秘密があるのだが、これは言わぬが花。読んでビックリしてもらいたい。
そうそうビックリといえば、ある実在人物の名前が出てきて驚いた。加賀藩でその人物とくれば、有名な史実が主人公たちに関係してくるということか。市井譚に収まり切れないスケールを持つシリーズになるかと思えば、期待が高まる。
と思ったら、ラストの「双頭蓮」で、再び市井の話になる。こちらもミステリー仕立てなので、詳しい説明は控えよう。ひとつの茎からふたつの蕾をつけている蓮を見たことからみんなとワイワイと、“双頭餅”を開発するのが楽しい。また、「いすず屋」に新たなメンバーも加わる。そして、この話の中でお蝶が、
「美しいものを見て、ただ美しいとだけ感じ、楽しいことに出会えば、屈託なく笑う。そうできれば、どんなにいいか」
と思う場面がある。少なくとも私は、本書を読んでいるとき、その気持ちに浸っていた。もちろん悲しいことも、辛いこともある。だが、お蝶を中心にした世界は、美しく楽しい。ここにシリーズの大きな魅力があるのだ。