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「奥の和室も変わっているね」
 こちらにはベッドがあるだけ。仏壇は床の間の位置に設えてある。それは昔のままだ。
「おばあちゃん、ずっと布団派だったんだけど、亡くなる少し前に腰を痛めてベッドにしたんだ。それを使わせてもらって最近はこっちで寝ている。伯父さんのベッドは二階にあるから、里志はそっちを使えばいいんじゃないかな。シーツも布団カバーも洗濯しておいたよ」
 受け入れ態勢は着々と進んでいるらしい。腹をくくるしかなさそうだ。
「和室もずいぶんすっきりしたね」
「いろいろ処分したけど、着物や和装小物みたいなのはどうしていいかわからず、箪笥ごと二階に運んだ。リフォーム業者に頼んでね」
「へえ」
「そうだ。おばあちゃん、箪笥貯金が好きであちこちにお金を忍ばせていた。仏壇の小さな引き出しや、押し入れの物入れ、食器棚の引き出しにも。二階の箪笥にもきっとあるから、見つけたら里志の小遣いにしていいよ」
 すぐ脇に控える犬は無愛想だが、伯父が大らかに目尻を下げるので里志も子どもに返った気分で微笑んだ。もっとも子どもの頃の記憶をたどっても伯父の笑顔はほとんどない。口数が少なく物静かで、存在感の薄い人だった。祖母と母が賑やかだったのでよけいにそう感じたのかもしれない。今度のことで初めて母親抜きでやりとりして、にわかに距離が縮まった感じだ。
 一階にあるトイレや風呂場を案内してもらい、掃除用具の説明も受け、二階に移動する。踊り場のあるくの字に曲がった階段で、手すりもあるので伯父も上がれる。アンジェは伯父が許可したときだけ付いてくるそうで、今日は「おいで」の掛け声を受けて軽々と登ってきた。
 二階には二部屋ある。建てられた当時は伯父と母がそれぞれ使っていたらしい。結婚や就職を機に巣立っていき、十数年前、伯父はかつての自室に戻ってきた。母の部屋は現在、物置状態だ。祖母の箪笥や鏡台、座椅子や段ボールなどが置いてある。
 伯父の部屋はわりときちんと片付いていて、ベッドも綺麗に整えられている。好きなように使っていいと言われ、うなずくしかない。
 台所は昼食を作りながらの案内になった。レンジの使い方やストック食品の場所を教えてもらい、冷蔵庫の中身も説明を受ける。
 祖母と同居するようになってから、料理の手伝いをいろいろさせられたそうだ。昼食の焼きそばも海老の入ったエスニック風の味付けで、予想外の美味しさだった。
「里志も親元を離れて長いんだろ。料理はしないの?」
「ちょっとはするけど、ひとりだと買ったものをダメにしちゃうこともあって」
「ひとりなのか」
 結婚の報告はしていないのに何を今さらと思ったが、同棲もありえるのかと思い直す。
「ずっとひとりだよ。あ、伯父さんは独身の先輩だね」
 アパートを借りて里志が独立したのは二十四歳のときだ。付き合っている彼女もいて、そのうち結婚して駅近のマンションでも買ってと、ぼんやり将来像を思い描いていた。けれど働いていた会社が倒産し、再就職に苦戦し、彼女ともうまくいかなくなって別れた。今では最初に借りたアパートより、築年数からいったらランクダウンしたアパートに住んでいる。生活費を切り詰めるための自炊なので、工夫や楽しみなど考えもしなかった。
「伯父さんはおれとちがってずっと公務員というのもえらいよ。おれはもう、年齢的にも公務員にはなれないし」
「まだなんだってできる年だろ。伯父さんの頃は転職する人がほとんどいなくて、他に移るって選択肢がなかったんだ」
「ちがう仕事がしたくなったときもあった?」
「そりゃまあね。公務員もらくじゃないって」
 伯父は世田谷区の職員に採用され、保健所や福祉部で働いていたと聞いている。大変なこともあっただろうが安定した就職先だ。結婚は考えなかったのかと尋ねたくなったが、それこそ野暮な質問だ。自分だって聞かれたら「さあ」と首をひねるしかない。とりあえず今は予定がなく、当面の課題は就職。
 昼食の食器を洗ってからはゴミの出し方や買物で便利なところを教えてもらい、覚えきれないのでメモ用紙に書き込んだ。気がつくとアンジェの反応が変わっている。里志がトイレに行ったり物を取りに行くたびに身体をビクンとさせ警戒していたのに、いつのまにかそれらが薄れ、近くを横切っても緊張しなくなっている。
 伯父に言うと「とっても賢いんだよ」と得意げだ。
「里志にはすぐ慣れると思ってた。やっぱりそうなった」
「こっちはまだまだ恐いよ。ほらあの目つき」
「番犬だからね。ちゃんと訓練されてて勇猛果敢なんだ」
「伯父さんがいない間、おれの言うことなんか聞かず、好き勝手にふるまったりして。食べ物を出せとか、おやつを買ってこいとか、だらだら寝るなとか」
 里志が言うと伯父は声を上げて笑った。
「想像すると面白い。いいかもしれない」
「そんなあ」
 伯父の手術は難しいものでなく、膝を人工関節に換えたあと、同じ病院内でリハビリが始まる。回復具合によるので退院までは二週間から三週間と、目安があるだけだ。その間、留守番と言っても朝の散歩から帰ってきた犬を引き取ったあと、夕方の散歩までは不在になってもかまわないと言われた。自分のアパートに戻ってもいいし、職安に行ってもいいし、友だちと過ごしてもいいし。
 それこそ風通しという意味でアパートには行くかもしれないが、それ以外の予定は特にない。就職活動への意欲は薄く、友だちとも連絡し合ってない。今の日常は図書館に行って雑誌を読んだり、となり駅までぶらぶら歩いたり、激安スーパーで食材を買ったり。ほとんどの時間は無料のアプリゲームに費やされる。
 伯父が呼び寄せて、ふたりの間にアンジェがやって来た。伯父の片手はまるで言葉を発するようになめらかに動いてアンジェの首に添えられる。
「撫でてごらんよ」
 恐る恐る手を伸ばすと、針のような剛毛に思えていたのに触った感じは意外とソフトだ。指先に少し力を入れると伝わってくる体温は温かく、息づかいも感じられた。たどたどしい指先はアンジェにとって心地好くないだろうが動かずじっとしている。伯父に勧められるまま頭や背中を撫でていると、身体を低くして目を閉じる。渋々我慢しているというより、新参者の癖を学習している風情。
 そこからはアンジェに関する話を聞いた。ケージの清掃や布類の洗濯の仕方、お気に入りの玩具や遊び、おやつ、あるいは褒めるときのポイントや親愛の示し方など、逐一教えてもらい、メモを取った。伯父が留守番のお礼として日当を払うと言うのを固辞する。わざわざ仕事を休んで来ているわけではない。ただ、仕事をしている気分にはなる。なんとなく気持ちが上がる。もしかしたら自分は働きたいのかもしれない。他人事のように思い、苦笑いが浮かんだ。
 コーヒーをいれてもらい、それを飲んだあと、アンジェを庭に下ろして簡単なボール遊びもした。敷き詰められているのは人工芝だそうだ。五時になるとスマイルペットサービス・マキタの人たちが現れ、伯父が紹介してくれた。若い女性と年配の男性だった。ライトバンでまわって近隣の犬を預かり、このあたりで最適な散歩ルートを歩く。週のうち何日かは訓練センターに連れて行き、トレーニングをかねてたっぷり運動させるという。
 アンジェを乗せた車が角を曲がるまで見送り、里志は伯父の家を辞した。しょっぱなの驚きから始まり、予想外の展開が続く長い半日だった。

 

『おひとりさま日和 ささやかな転機』(「アンジェがくれたもの」)は全3回で連日公開予定