どうせひまでしょと電話の向こうから母親に言われ、里志はムッとした。ふてくされた声が喉の先まで出かかったが、「中学生みたい」と笑われるのもしゃくで飲み込む。
大学卒業後に就職したアパレルメーカーが四年後に倒産し、そのあと外食産業や携帯電話会社など、いくつか職を変わって三十八歳の今、三回目の失業保険を受給中だ。「都合が悪い」という逃げ口上が通らない。
「今までさんざんお年玉をもらってたじゃない。義理も恩もあるのよ。伯父さんの頼み事なんて珍しいんだから私からも頼むわ。とにかく一度、来てほしいって。電話してみて」
「番号知らない」
「LINEに送るわね」
話に出てきた「伯父さん」とは母親の兄、波多野通夫のことだ。母親より八つ年上で今年七十一歳。結婚歴はなく、昔は家を出ていたようだが、祖父が亡くなって祖母がひとりになったのを機に戻った。その祖母も二年前に亡くなり今ではひとり暮らし。
足が不自由でいつの頃からか杖を突いていた。その足が悪化したのかなんなのか、膝の手術をするらしい。入院中の郵便物の回収や庭木への水やりならば、二つ返事で引き受けるものを、伯父は自分がいない間、ずっと家にいてほしいと言う。ときどきの訪問ではなく泊まり込んでの留守番だ。
何それ、めんどくさい。というのが本音だが、お年玉への恩義はたしかにある。しかも気前が良くて毎年けっこうな額だった。渋々電話をすると伯父はいつになく饒舌で、「おまえくらいしか頼む相手がいない」「甥がいてよかった」「助かる」と声を弾ませる。
伯父のきょうだいは妹ひとりで、その妹の子どもは里志だけ。他に頼り先がいないのはよくわかる。思わぬ成り行きからの伯父孝行か。
里志は久しぶりに母の実家、元祖父母の家を訪ねることにした。
父親の仕事の関係で中学生までは広島や福岡に住み、高校で関東に引っ越してきた。両親は神奈川県内にマンションを買ったので、祖父母宅のある東京は近くなったものの、遊びに行く年頃でもなかったので自然と足は遠ざかっていた。とはいえ、祖父も祖母も自分のことはずいぶん可愛がってくれた。なんといってもたったひとりの孫だ。誕生日プレゼントも入学祝いも、それこそお年玉も必ずくれたし、一緒に行った遊園地や牧場、沖縄旅行など楽しい思い出もたくさんある。
そんなことを考えながら調布市内の住宅地を歩く。最寄り駅から徒歩で七、八分。五十坪弱の平地に立つ木造一戸建てが見えてきた。ガレージがない分、庭はそれなりにあるものの、伸び放題の植物や植木鉢で常にごちゃごちゃしていた記憶がある。
それが、フェンス越しに見て驚く。庭木の類いはフェンスの近くに少しだけ。あとはすべて真っ平らで、青々とした芝生が敷き詰められている。
ほんとうにここだろうかと、訝しみつつ表札を確認してチャイムを鳴らすと、中から足音が聞こえてドアが開いた。
「おお里志、よく来たな。待ってたよ」
「お久しぶり。おばあちゃんの法事以来だよね。ってか伯父さん、庭がすっかり変わっているけど、どうかしたの?」
「ああ、あれね」
言いかける声の向こうから「わん」と聞こえた。伯父の足下から何か現れる。
それが犬だとわかるまで数秒かかった。灰色がかった黒っぽい毛並み、ピンと立った三角の耳、長く尖った鼻面、口元からのぞくピンク色の舌と白い牙。
伯父はすかさず腰をかがめ、犬の頭に手を置いた。
「心配しなくていいんだよ。怪しい人間じゃない。この前から話しているだろ、甥の里志だ。よろしくね」
話しかける横顔や声のトーンが柔らかく優しげでとまどう。記憶の中の伯父と雰囲気がちがう。
「里志にも紹介しなきゃね。この子はアンジェ。雌のシェパードで今、五歳だ。少し前からこの家で暮らしている。仲良くしてやってくれ」
伯父は笑顔でそう言うが、当の犬はにこりともせず、冷たい一瞥を里志に向けるだけだった。
足の不自由な伯父が犬、それも大型犬をひとりで飼うことは不可能だ。
真っ先に浮かんだ疑問は、「レンタル番犬」という聞き慣れない言葉でゆるやかに打ち砕かれた。
大型犬を飼うに当たってのネックは住まいと必要経費に加え、散歩の手間暇が主なものだろう。伯父が住んでいるのは一戸建ての持ち家なので、住まいについては融通が利く。食事や医療費といった経費も貯金があればなんとかなるのかもしれない。問題は日々の散歩や運動だ。杖を突いて歩く人に犬のリードは持てない。
「伯父さんもそう思っていたよ。でもアンジェは世話をしてくれる人がいるんだ。この家に住み、伯父さんを主だと思ってくれるけれど、正式には持ち主が別にいる。『スマイルペットサービス・マキタ』という会社が保有している犬で、そこのスタッフが朝晩の散歩も医療面のサポートもみんなやってくれる。伯父さんは契約して、アンジェを借りている形だ。もちろん料金はかかるよ。サービスを受ける側として。でも払えない額じゃない。だから思い切って始めてみた」
久しぶりに入った室内は庭と同じようにさっぱりと片付けられていた。一階にはダイニングキッチンとテレビの置かれたリビングルーム、そこと襖で仕切られた和室がある。祖父母がいた頃はコタツやら座椅子やら棚やら飾り台やら、さまざまなものでひしめいていた。それがほぼすべてなくなり、あるのは壁掛けテレビとソファー、小さなサイドテーブル、そして大きなケージ。聞かなくてもわかる。犬の居場所だ。
「もしかして、アンジェのためにリフォームしたの?」
「そんなに大げさなものではないよ。カーペットを替えて、ついでに壁紙もと思ったら、置いてあるものを整理するしかなくて、やり始めたらあれもこれもと。おかげで掃除はしやすくなった」
伯父はソファーに座り、犬はその足下に腰を下ろしている。置物のようにじっとしているが黒い双眸は常に里志の動きを追っている。危ないやつではないと言われても、まだまだ油断なく観察している感じ。まとっているオーラは硬くて剣呑だ。
犬も猫も飼ったことはないけれど、小型犬やふわふわした子猫ならばどんなによかったかと里志は思う。
『おひとりさま日和 ささやかな転機』(「アンジェがくれたもの」)は全3回で連日公開予定