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 2021年から2024年にかけて、オオクワガタ採集家集団「INFINITY∞BLACK」(以下、インフィニティー)のメンバーたちを追った。この日はチームの一人、「モンキー・キクリン」こと菊池愛騎の東北採集に同行していた。
「東北の冬山はマジでキツいですよ。下手したら遭難するかもしれませんが、いいんですか?」
 いいはずはないが、冬季採集の醍醐味だいごみを経験せずしてオオクワガタは語れないと思った。一応、筆者について紹介しておくと、プロカメラマン歴30年。空手、剣道、将棋有段者。報道で国内外の取材をはじめ、南米や東南アジア、日本の島々へも虫の採集や撮影に行ってきた。虫好きとしてそれなりの経験値はあるのだが、国産オオクワガタは一度も自分で採ったことがない。チャレンジしても、正直カスリもしなかった。本当に自力で見つけようとしたら、10年かかるとも言われた。それは少しオーバーだと思いながらも、「なんとしても本物のワイルド(野性の)個体を見てみたい」という渇望が自分の中にあった。

 立ち上がってキクリンが向かった尾根の方を見る。落葉樹林の葉は全て落ち、白銀の中にブナやコナラが林立している。この見通しこそが、冬山に入る理由なのだ。立ち枯れしている木にはさまざまなキノコが生え、上の方の枝は折れて落ちている。その様子が遠目からでもわかった。朽ち木は多くの虫たちの幼虫が生育し、成虫が越冬する場でもある。オオクワガタはその中でも「白枯れ」と呼ばれ、特定の菌が回ったものにだけ産卵する。これが夏場だと生い茂る緑葉に隠されて、探すためには冬季の何倍もの時間がかかるのだ。
 やっとキクリンの姿を捉えることができた。巨大なブナの折れ株に頭を突っ込んでいる。樹齢は200年を超えていたのではないか。枯れて自らの重さを支えきれなくなり、根元から3メートルほどのところで倒れていた。キクリンは残った部分に登り、中を覗き込む。いや、匂いを嗅いでいるのだ。
 白色腐朽菌はくしょくふきゅうきんと呼ばれる菌類が全体に回っており、筆者でも虫たちが産卵床として好む素材だとわかった。何よりもサイズが凄まじく大きい。これから何年にもわたって、生き物たちの“ゆりかご”となるだろう。成虫まで期間の長い昆虫にとっては、それは欠かすことのできない条件だ。ちなみに白枯れの他に、菌の種類によって赤枯れ、黒枯れと呼ばれるものもあり、それぞれを好む虫の種類が違う。
 キクリンは全神経を鼻に集中していた。端正な横顔に小鼻がピクピクと動く。そして眉間にしわを寄せると言った。
「オオクワガタが好む匂いじゃないですね」
 この男は虫の嗅覚をもち合わせているのか?! これほどの材に、さっさと見切りをつけると、もう先へ進み出そうとしている。筆者も嗅いでみるが、何がダメなのかわからない。もう少し調べてみたらどうなのか?
「手当たり次第に見ていたら、人生がいくらあっても足りませんよ」
 広大な山の中で虫を見つけるには、何よりも判断力とスピードを重視するという。1日にどれだけの面積を歩けるか、その中で何本の木を調べられるか。インフィニティーのメンバーが目指しているのは、新たな生息地の発見だからである。もし、オオクワガタを欲しいだけなら、多産地と呼ばれる有名ポイントに行けばいい。彼らの採集技術と知識をもってすれば、ほぼ確実に見つけることができるだろう。だがそれは望むことではないと言うのだ。

 起伏の激しい場所にさしかかっても、キクリンのペースは全く乱れない。
 必死で追いかけるが、傾斜がさらにきつくなり、バランスを崩すと後ろに倒れそうになった。なりふり構わず、四つん這いで雪をつかむように這い上がる。苦しくて口は開けっぱなしになり、鼻水が垂れ続けた。スパイク付きの長靴でも、何度も滑り落ちそうになった。雪が入り込み、キンキンに冷えた足先は、痛みを通り越して感覚がない。
 立ち上がって、深呼吸をしながら周りを見晴らした。風に吹きならされた雪面は、絹のように美しい。数百メートル下に流れる川は、水墨画の世界のようだった。だが滑落すれば、大木にぶつからない限り止まることはない。ここでは美しさと死は隣り合わせなのだなと思った。

 やっと尾根に出た。足元は急な崖のように切り立っており、覗き込むとスキーのジャンプ台の上に立ったようだった。
「僕らはこれを“下りエッジ”と呼んでいます。前方が開け、見晴らしがいい。越えた場所にある立ち枯れに、オオクワガタのメスが産卵に来ることが多いんです」
 キクリンは、この知識をインフィニティーの創始者である白村つとむから教えられたという。
「周りの木の枝先がここからの目線の高さにある。どこかの木で樹液が出ているとして、そこにいるメスからこの場所はよく見えているんです」
 もしこの付近に条件に合った立ち枯れがあれば、非常に高い確率でオオクワガタが産卵しているという。
 枯れている木はすぐにわかった。キクリンは何本かを削ってみるがすぐにやめてしまった。腐朽ふきゅうの状態が良くないらしい。周囲の木々を見渡すと、枝先の樹皮が剥がれてキノコが出ているのが目につく。雪の多い地方ほど、上部から腐朽するのが早い。
「高い場所に幼虫が入っている可能性はあります。オオクワガタが一番好むのは、生枯なまがれといって木の本体は生きていて、枝などが部分的に枯れた場所です。それらは高所に多いため、我々にはほとんど調べることができない。また樹洞じゅどうや、土中にどんな生物がいるかもです。今歩いてきた中で見ることができたのは、この自然の1%にも満たないと思います。人間の力なんて、そんなものですよね」
 冬の東北は日暮れが早い。午後1時過ぎには下り始めないと日没に間に合わなくなる。山に入ったのが午前8時だったから、5時間近く探し続けていたのだが、キクリンがオオクワガタの好む立ち枯れと認めたのは、たったの1本だった。そこからオオクワガタの初齢幼虫1頭と二齢幼虫1頭を見つけることができた。彼にとっては不満足な結果だっただろうが、筆者には「広大な山中で、よくぞこの1本にたどり着いた」と感じられた。
 オオクワガタのつかみどころのない生態に触れた1日だった。普通に他の虫を追い求める感覚では、自然界に生きる彼らにたどり着くことは、到底できないだろう。チーム創始者の白村はオオクワガタに至る“最速理論”として、こう言っている。

 虫を探して三流
 材を探して二流
 空間を探して一流
 風を感じて超一流

 クワガタ採集に最速理論があることも驚きだが、提唱している内容がすぐには理解できない。虫採りで風を感じろって……。
 この感覚を身につけるまでに、どれだけ山を歩けばいいのだろうか。いつかは自分の手で採ってみたい──そんな希望の実現が、はるか彼方であることを知った。
「これは、マジで10年はかかるな」
 雪に覆われた山々を見ながら、そう思った。

 

「オオクワガタに人生を懸けた男たち」は全3回で連日公開予定