たかが虫採りというなかれ。
 とんでもない凄腕のクワガタ・ハンターたちがいるらしい──。そんな噂が耳に入ってきた。マタギのような脚力で尾根から尾根へと移動し、人も通わぬ山奥に入っていく。人間離れした嗅覚をもち、真夜中でもスルスルと木に登る。熊どころか心霊現象にもひるまない。ときにはヒマラヤのハニー・ハンターばりに、数十メートルの崖の上にも挑む。滑落して肋骨を折っても、妻に怒られるのが怖くて黙っていたという。
 都市伝説みたいな話だが、この男たちは実在する。そして驚いたことに、彼らは苦労の末に見つけた“獲物”を、「採ることが目的ではない」と言うのだ。虫を売ってお金に変える気はさらさらない。
 カリスマリーダーが束ねる集団名は「INFINITYインフィニティーBLACKブラック」。仲間内にはおきてが存在し、裏切った者は破門となる。なんだか物々しい連中を想像してしまうが、素顔は虫好きなオッサンたちの集まりだ。ただ、彼らは常人には見ることのできない景色を知っている。
 メンバーが探し求めるものはただ一つ。昭和の少年が憧れ続けた日本昆虫界のトップスター、オオクワガタだ。
「え? それってホームセンターに2000円で売っている虫でしょ?」
 と言うのはやめてくれ。確かに今では飼育で増えて、“王様”も安価になってしまった。だがここで取り上げるのは、真の天然オオクワガタのことである。昭和の時代、それは“黒いダイヤモンド”と呼ばれ、庶民には手の届かない存在だった。都会では虫好きな少年たちが、高級デパートの伊勢丹に置かれたケースを張り付くように見つめていたという。当時の値段でも、小さなものが数万円、大きなものは10万円を超えるのが相場だった。筆者のような地方住まいの者には、王様の顔を拝むことさえできなかったのである。
 当時市場に出回っていたのは、プロが山から採ってきた限られた天然個体だった。プロというのは、採ったクワガタを売って、生計の一部に当てていた人たちである。オオクワガタの実際の生態・生息地はほとんど知られておらず、採集は極めて難しかった。昆虫少年がいくら勇んで森に向かっても、その痕跡すら見つからなかったのである。
 天然個体の価格が暴落するのは、1990年代中頃からのことだ。飼育技術の向上で量産と大型サイズの作出が簡単になった。自然界では70ミリを超えるオスの個体は稀であるが、飼育では簡単に出せてしまう。現在の飼育レコードは90ミリを超え、これは天然レコードを10ミリ以上も凌ぐ。
 ペットとして求める人にとっては大型で、しかも安価な飼育品の方が魅力的だ。天然の希少性は今でも変わらないが、飼育品との違いを厳格に見分けることは難しく、また求めるのは一部のマニアのみであるため、そのため市場価値が大きく下がってしまったのだ。天然の60ミリのオスを採ることは、素人には10年はかかる難易度だが、店頭に80ミリ以上の飼育個体が並ぶ中では見向きもされないのが現実だ。
 さて、やっと本題に入ろう。本書は今の時代に、人生を懸けて天然個体を探している男たちの物語である。
「そんな価値のなくなったものに人生懸けてどうするの?」
 確かに、高層ビルのオフィスフロアをスーツ姿で闊歩かっぽする若者にとっては、彼らは“時代遅れの男たち”に映るかもしれない。だが、世間の価値基準に揺れることなく、自分の好きなことを貫ける大人が、今の時代にどれだけいるのか? 彼らの言葉に耳を傾けてくれ。
「この日本にはまだ人間が踏み入れたことのない自然林が多く残されている。その中でひっそりと生き抜いているオオクワガタの姿を、自分の目で確かめたい」
 ロマンチックすぎて笑止と言われそうな気もするが、男たちを突き動かすのは、子どもの頃からのオオクワガタへの憧れと冒険心である。焦がれども、焦がれども、出会うことができなかった想いは、永遠に冷めない恋心になった。その気持ちは、もはや飢えといってもいい。夜、まぶたを閉じると遠い山の中で、大木のウロから顔を出すオオクワガタの姿が浮かぶ。そうなると明日が仕事であろうと、衝動を抑えることができない。
「ちょっと山に行ってくる」
 妻にそう言い残して、愛車にキーを差し込む。どんな辺境だろうと、途中に何が待ち構えていようと躊躇ためらいはない。中央道、東北道、関越道をひた走りながら、今夜会えるかもしれない相手に想いを馳せる。妻には「本当に虫なの?」と浮気を疑われながら。
 彼らが山での実体験で得た知識、観察眼、思考には、驚きの連続だった。読者はどんな図鑑にも、学術書にも書かれていない、オオクワガタの秘密に直面することを約束しよう。「たかが虫」という認識が、大きく変わっていくはずである。
「日本が世界からとり残されつつある時代に、なんで虫採り?」と言わないでくれ。行き詰まるときこそ、忘れてはいけない情熱があるのではないか。しばし、筆者と一緒に愛すべきドアホウたちの背中を追いかけてほしい。

 

 

目次

 

2──序

 

9──第一章 森のケモノ

45──第二章 山梨最強の男

 

67──対談 「情熱昆虫少年」養老孟司(解剖学者)× インフィニティー・ブラック  菊池愛騎(キクリン)

 

91──第三章 孤高のフロンティア精神

119──第四章 INFINITY∞BLACKの遺伝子を受け継ぐ男

143──第五章 INFINITY∞BLACKの知恵袋と生き字引

 

179──鼎談 「今もトキメキが止まらない!」たえたそ(昆虫系YouTuber/シンガーソングライター)× インフィニティー・ブラック 菊池愛騎(キクリン)/松島幸次(虫オタ)

 

203──第六章 役者の道と虫の道

227──第七章 ラスボス登場

 

258──あとがき

 

第一章

 

森のケモノ

 

菊池愛騎(きくち・あいき)
愛称・キクリン。1984年生まれ、東京都出身。インフィニティー・ブラックを代表する採集人。2024年からチームの二代目リーダーになった。「モンキー・キクリン」と呼ばれるように木登りを得意とする。観察力・行動力・嗅覚のバランスに優れ、オオクワガタの生態への考察も深い。もともと一つのことを極めようとする性格で、憧れから始めたオオクワガタ採集に人生を懸けてのめり込むことになる。

 

真冬の東北へクワガタ採り

 

 キクリンの背中は遠くなり、ブナ林の奥に見えなくなった。必死でついていこうとするのだが、深い雪が行く手を阻む。息が上がって、一歩一歩が重い。原生林で一人ぼっちになると、なんとも心細いものだ。こんなところで遭難したら、誰にも見つけてもらえないだろうなあ……。

洒落しゃれになんねえ」
 雪山に入るので用心していたつもりが、ズッポリと胸まで埋まってしまった。頭と腕だけでジタバタしている様子を、ブナの大木たちが無言で見下ろしている。人間が調子に乗ってこんなところまで来るからだと思っているのだろうか。森の住人たちから見れば、実に間抜けな奴に映っているに違いない。
 先を行くオオクワガタ採集人を追って、山の斜面を登っているときだった。彼の足跡を追いながら、大きく迂回しているところで焦りから直進しようとした。山を知り尽くしている男が、なぜそこを避けたかを考えずに──。
 雪がふんわりと膨らんだ上を通ろうとしたとき、足が抵抗なく沈んだ。ストンと落下する感覚。瞬間的に腕を広げてなんとか止まったが、頭まで吸い込まれそうな勢いだった。ブナの自然林に積もった雪は、深いところでは2メートルを超える。その下に大きな倒木があると、周囲に空洞になった部分ができて、人間の体重が乗ると落ちてしまうのだ。
 両腕で体を持ち上げようとするのだが、下の方の雪が重さで締まってきてなかなか抜けない。背中からリュックを外し、中からおのを取り出した。手に持って伸ばし、倒木の折れ残った部分に食い込ませる。力を込めて引くと、大根を抜くような感覚で脱出できた。

 

「オオクワガタに人生を懸けた男たち」は全3回で連日公開予定