その晩、神社に帰った俺は元の姿に戻った。おぼろ月が雲間から見え隠れしている。
 淡い光のなか、社の階段に腰をかけ、狐と俺は話し合った。
「ふうむ。殺されたいと思っているのに、なぜ逃げるのでしょう」
 狐はぱたぱたと尻尾を上下に振った。考えているときの奴の癖だ。
「てっきり、病気が苦しくて『もう殺してくれ!』と叫ぶ人間と一緒だと思ったのだが」
 俺も答えを探すように空をあおぐ。
「神社に来たときはそう思っていたのが、気が変わったのかな」
「そうだとしても、誉人の願いは神社で祈ったものだけが有効。変更はできません」
 狐は厳しく指摘する。誉人の願いにはルールがあるのだ。
「とにかく、神社では殺されたいと願ったのだから、何か理由があるはずだ。普通、人間はそんなことは言わない。殺されたくないというのなら分かるが」
「サヨコ殿のことをもっと調べる必要がありますね」
「そういえばサヨコには別居している娘がいるようだ」
 狐が耳をぴんと立てた。
「娘がいるのですか」
「ああ。サヨコの家に女の子と一緒に撮った写真があったんだ。ヘルパー派遣会社に戻ってサヨコの名簿を調べてみたら、家族欄に美衣奈みいなという娘の名があった。年齢は二十一歳。住所はサヨコとは別のところだ。別れたのか死んだのか分からんが、サヨコの夫の欄は空欄だった」
「それでは、私はその美衣奈の身辺を調べてまいりましょう。何か分かるかもしれません。稲荷神様はへるぱあとしてサヨコ殿の聞き込みを続けてくだされ」
「分かった。よろしく頼む」
 俺は狐に言い残し、社務所の奥にある神主の家に向かう。
 寝室に入ると、畳の上に敷いた布団の上で神主がいびきをかいていた。俺は枕元に正座して座り、その眉間に人差し指を当てる。
「お前は本殿の横にキンモクセイの木を植える」
 神主がう~んとうめいた。「きん、もく、せい」と口から言葉がこぼれ出る。
 人間が寝ているときに枕元でささやけば、俺のいう事を聞いてくれる。寝ているときだけ、というのが歯がゆいが、これが地神の限界だ。
 俺は立ち上がり、本殿へと戻った。明日にでも神主は木を植えるだろう。

「最初にひき肉をよく練っておくのがポイントなのよ」
 サヨコのアドバイスにしたがい、俺はボウルのなかの肉をつぶしながら練る。
「そうそう。あなたって、一度説明するとすぐわかっちゃうのね。筋がいいわ」
「気味のわるい感触だ」
 ヘルパーとしてサヨコの家を訪れて、今日で三度目だ。最初の日のことがあってしばらくは警戒されたが、今では俺の有能さにすっかり感心した様子だ。「お国の事を悪く言って申し訳なかった」とすら言われた。
 俺とサヨコはキッチンに並んで餃子を包んだ。ひき肉の感触は苦手だが、皮にひだを作るのはなかなか面白い。
「しかし、どうして餃子を? もうあまり食べられないではないか」
「いいじゃない。作るの楽しいし、余ったらイナリさん食べてくれるし」
 できたっ、とサヨコが調子よく手を叩いたとたん、膝から崩れるようにその場にしゃがみ込む。苦しそうだ。餃子を作ることさえ、今のサヨコには負担だ。
「おい、大丈夫か」
 俺はサヨコを支えて、ソファまで連れていく。目の前の本棚には娘の美衣奈と思われる写真、その向こうには陽が差し込む中庭が見える。しばらくして息を整え、サヨコは言った。
「今日はいいお天気。ねえ、散歩に連れっててよ」
「しかし」
 体調は大丈夫なのか。
「こんないい天気は生きているうちに何度あるか分からない。お願いだから」
 サヨコは俺を拝むようにする。こうされると俺としては弱い。車いすにサヨコを座らせて俺が押し、川沿いの土手まで一緒に出掛けた。
 その五分の間、サヨコはひとときも休まない。枯れ枝に咲く一輪の花を見つけ、クモの巣についた雫を賛美し、車の下からのぞく猫のしっぽを愛でた。雲のきれはし、風の一陣、塵芥でさえ、サヨコは宝物を見つけたように喜んだ。
 土手から川を望む場所で車いすを止める。川面に日光が反射している。
「なんてきれいなんだろ……」
 サヨコは言ったが、それほどの景色には見えない。
「ただの川だ」
「人は死にかけると、自分が生きている世界がどんだけ良いもんかって気が付くものなのさ。体調はつらいけど、今は毎日が幸せだよ」
「そうか。俺は毎日つまらないが」
「若くて健康だと、当たり前すぎて気が付かないのかもね。でも、あなたにもあるでしょ。好きなもの。楽しいこと」
 俺は地上で過ごした日々を振り返ってみる。人の願いを叶える。寝る。また叶える。寝る。
「とくには思いつかない」
「ああ、あれは? キンモクセイ」
「いい香りだった」
「それから、私の作った餃子も気に入ったじゃない」
「旨かった」
「それが積み重なって、人生の幸せになるんだから」
「そんなものか」
「そう。たまにね、好きなものを数えてみなさいな。いかに自分が幸せか気付けるから」
「わかった、やってみる」
 人間のやることはよくわからないが、サヨコの言う事なら聞いてもいいという気がする。なぜか分からない。明日をも知れぬ病を得ているというのに、ずいぶん楽しそうにしているからだろうか。
 帰り道、車いすを押しながらさりげなく俺は聞く。
「本棚の上の写真は、娘か」
「うん、そう。美衣奈っていうの。もうあの写真よりはずっと大人だけどね」
 やはりそうか。
「娘にも会いたいだろう。連れて行ってやろうか」
 サヨコはゆっくりと首を横に振る。
「会いたくない」
「娘だろう」
「むこうだって会いたくないと思ってる。どこに居るのかすら知らない」
「ヘルパー派遣会社の名簿に住所があったが」
「あれは、三年前の住所。あの子がふせっていう男と結婚していた時のね。どうしても書かなくちゃいけなかったから書いておいただけ」
「結婚していたというのは過去形だな。その伏野って男と離婚したのか?」
「それも分からない。でも、旦那とは別れたみたいだけど」
 空に暗雲がたれこめるようにサヨコの表情は沈んだ。
「おかしいと思うでしょ。親子なのに三年も音信不通。私はあの子に嫌われているから」
「娘はサヨコを嫌っている」
「そう。でも別に構わない。私だってあの子には散々苦労させられた」
 サヨコはそう自嘲気味に言うと、「疲れたから」と口を閉ざした。
 なにか娘との間に事情がありそうだった。

 サヨコの家から神社へと帰る途中、商店街に菓子屋をみつけた。
 道端にスナック菓子が山と積まれ、大音量の呼び込みを流している店だ。俺は吸い込まれるように入る。
 スナック菓子の棚に「かっぱえびせん」を見つける。最後の一袋だ。手を伸ばすと、反対側からも白い手が伸びてくる。
 俺はすばやく袋を掴み、相手も同時に掴んだ。袋を挟んで対峙する。相手は黒い長髪の少女だった。高校生らしく、ブレザーの制服を着ている。こちらに引っ張ればあちらも引っ張り、勝負がつかない。
「分けましょう」
 少女が言い、「分かった」と俺は返す。
 一緒にレジで金を払う。金は賽銭箱からもらっている。俺に願いをかけるときに投げている賽銭なのだから、神主も文句はあるまい。
 ふたりで土手まで黙々と一緒に歩く。川が見える斜面に腰かけると、彼女はおもむろに「かっぱえびせん」を開いた。ひとつかみ口に放り入れると、目を閉じて「おいしい」とつぶやく。あんまりにも旨そうに食べるので、俺は「いい、全部やる」と言った。
「いいの? やった」
「最近は供え物にかっぱえびせんが少ない」
「こっちからリクエストできないのが歯がゆいわよね」
 そう言いながら、頬張ってぼりぼりと音を鳴らす。
「男の姿ってことは、誉人は女なわけね」
「そっちは女だから、男の誉人か」
「まあね。でも私、元々弁財天だからね。女の姿の方が落ち着くってわけ」
 少女は艶然とほほ笑んだ。人間の男ならば見ほれるほどに美しい。
 弁財天神社は、稲荷神社と同じ町内にある。互いに誉人の願いを叶えるために日々奔走しているうちに、こうしてたまにすれ違う。誉人に会うタイミングも異なるので、数十年も会わないこともあれば、毎日のように出くわすこともある。
 会うたびに違う姿であるのに、「それ」と分かるのは、神の直感とでも言おうか。
「よく油揚げが供えてあるんだが、あれは狐の好物だ。俺の好物じゃない」
「いいじゃない。あたしなんて生卵だよ。昔ならいざ知らず、今はもっと美味しいものがたくさんあるのにさ」
「その怪我はどうした?」
「ああ、これ?」
 弁財天の右ひざ下は、包帯で巻かれている。
「今回の誉人は若い駅員で、ドラマみたいな恋愛がしたいって願いだったの。だから駅の階段でわざと落ちて、助けてもらった。別に痛くもないんだけど、じゃまくさい」
 人間の姿になれば、怪我もするし病気もする。しかし、本体は神なので、痛くもかゆくもない。それに自分の好きな時に治すことも可能だ。
「しかし、どうして大神様は、人間の願いを叶えよと仰るのだろうか」
 弁財天は片方の眉をぴくりと上げた。
「あなたって、本当に子どもね。そんなことも知らないの」
 子ども呼ばわりされて、俺はむっとした。
「何だ。そう言うからには、詳しいんだろうな」
「まあね」
 相手は胸を突き出した。
「つまり、大神様は悩んでおられるの。人間を生かすべきか、滅ぼすべきか。人間は欲が深い。自分たちの食べる以上にほかの種を殺して絶滅させようとする。その一方で、絶滅させまいと保護をする。常に矛盾している。人間同士もそう。いつもどこかで争い、互いに殺し合っている。それなのに誰もかれもが戦争反対と口にする」
「サヨコはしきりに花が、雲が、川が美しいとほめたたえるが、四百年前にくらべれば自然は減った。人間のせいだ。滅ぼすのがいいに決まっている」
 俺はさっきサヨコが感激していた川面を眺めた。昔もこの川は流れていたが、もっと澄んでいた。空気はうまかった。静かだった。
「そう簡単じゃないでしょ」
 弁財天はあきれた声を出す。
「文明を築けたのは人間だけ。その恩恵はほかの種ももらっている。この辺りは、昔は定期的に川が氾濫して手が付けられなかった。治水をして、土手を作ったのは人間。それから百年、氾濫は起きていない。自然に任せていれば、うまくサイクルが回るってわけでもない。人間がいなくても絶滅する種は出る」
「なるほどな。でも、誉人の願いを叶えることと何の関係が?」
「人間の欲の正体を見極めたいんだと思う」
 かみしめるように彼女は言った。
「それは善いものなのか、悪いものなのか。私たち神には人の心はうまく理解できない。どんなことを願い、どうしてそう願うのか、その情報を集めて判断したいんじゃないかしら」
 願いを叶えると、その顛末を狐から大神様へと報告することになっている。
 そういうことだったのかと腑に落ちる。
「まあ、俺たちができるのは誉人の願いを叶えてやることだけだが」
「そう。それも、完璧にね。今の誉人の願いは叶えてあげられそう?」
「実は何を願っているのかが判然としない」
「あなたってだめねえ」
 弁財天はかっぱえびせんを食べ終わり、指を一本一本なめている。俺のことを子ども呼ばわりしたけれども、その姿の方がよっぽど幼い。そう思うが黙っている。
「あなたは五十人目でしょ。せいぜい頑張って」
 少女は立ち上がってスカートの食べくずを払うと、土手沿いの道を歩いていった。数人の男子高生がそれを見て互いに小突きあっている。
 俺はしばらく光を跳ね返す川面を眺めた。
 きれいだ、と言えなくもない。

 その夜、俺と狐は神社の境内で今日の成果を話し合った。
 俺の成果は、美衣奈は三年前に伏野という男と結婚したが、今はどこに居るかサヨコは知らないということ。男との間には、何か事情がありそうということだ。
 狐は有力な情報を持って帰ってきた。
「ヘルパー派遣会社の名簿の住所に行ってみたところ、伏野は引っ越していました。ですが大家が移転先を控えていて、それを盗み見て伏野のアパートに行くことができたんです。こっそり中に入って様子を見てきました」
 狐は人の目には見えないのでそういう芸当ができる。
「どういう加減だ」
「ひどい有様で。ふすまは破れ放題、酒瓶やら食べたもののゴミやらが散乱し、とても人の住むところとは思えない部屋でした。そこにひげ面の男が一人、寝転んでいました。逃げ出したいくらいでしたよ。さらに異常なのは、壁一面にひとりの女の写真ばかり何十枚も貼ってあるのです」
「アイドルか何かの」
 狐は首を横に振る。そして一枚の写真をくわえて差し出した。
 本棚の写真より少し大人びたが、美衣奈に違いなかった。頬のあたりが破けている。
「これはサヨコの娘だ」
「さらにおかしなことに、写真の顔の部分には画鋲が刺してあるのです。一枚残らず。それをはがしたので、こうして写真が破けてしまったというわけで」
「画鋲……。おまえ、どういう時に人間はそういうことをすると思う?」
「まあ、恨みがあるときでしょう」
 俺は顎に手を当てて考える。母親のサヨコは、娘に嫌われている。その娘は、夫を嫌い、そして嫌われている。
「どういうことだ」
「お互いもう少し調べましょう。今日はもう遅いですから、明日」
 狐は眠そうにしている。奴は獣なので、すぐに眠りたがる。
「わかった。また明日、サヨコの家に行ってくる」
 狐が本殿の上で身を丸めて眠ると、俺はその横で月を眺めた。
 本殿の脇には、神主が植えたキンモクセイが闇夜の中でも芳しい香りを放っている。
「キンモクセイ」
 俺はつぶやく。好きなものを数えてみなさいよ、というサヨコの声が思い出された。
「大神様。かっぱえびせん。餃子。川のきらめき」
 そうか。なるほど、そうか。
 俺は善きものにかこまれているのか。

 

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