翌朝、病室にやってきたサヨコの担当医は、ベッドの上に半身を起こしたサヨコを見て呆然と立ちすくんだ。その後自分の誤診を平謝りに謝ったが、病室を出た後の後ろ姿を見ると、しきりに首を傾げている。
 当たり前だが、サヨコは刺された時のことを全く覚えていなかった。三日前に眠り、気が付いたらここにいたと本人は主張する。これは強いショックで、部分的に記憶がなくなる「かいせい健忘けんぼう」だと診断された。
 不可思議な出来事には名前をつけないと不安な種族のようである。自分たちの理解を超えると、管理できなくて怖いのだろう。
 サヨコは不思議そうに、自分の腹に何重にも巻かれた包帯をなぜた。俺があらかじめ、弁財天と同じように腹に巻いておいたのだ。
 サヨコは集中治療室から高度治療もできる病棟へと移った。息を吹き返したとはいえ、周囲からみれば刺し傷を負った重症患者であることに変わりはない。実際、末期がんを患うサヨコはひどく弱っている。美衣奈がサヨコに付き添い、俺もついていった。サヨコと話がしたかったからだ。
 美衣奈はベッドに横たわっているサヨコの手を取って言った。
「お母さん、ごめんなさい。ずっと会いに行かず、連絡もしないで」
「いいんだ。あたしの方こそ、悪かったよ。あんたの話をもっとよく聞けばよかった。自分の考えばかり押し付けずに」
 美衣奈は黙って首を横に振った。
「私のこと認めさせたいとか、意地を張ってた。でもお母さんが自分を守ろうとしてくれたことに比べたら、それってなんて小さい事なんだろうって」
 美衣奈が涙ぐむと、サヨコはおどけて言った。
「せっかく死にかけてんだから、有効活用したいと思っただけよ」
「何それ」
 美衣奈が泣き笑いの表情になる。
「一人の方が気楽だなんて、思い込もうとしていた時期もあった。でもね、美衣奈の顔を見たら、すごく嬉しかった。世の中のどんなことよりも嬉しかった。会いに来てくれてありがとう」
 サヨコが美衣奈の頭にそっと手をのせた。
 俺は離れた場所でそれを見ていた。つまらぬ意地の張り合いで、大切なことを見失う。やはり、人間は愚かだ。しかし、それを悔い改める賢さもある。
 大神様が人間をどうするのか悩まれるのももっともかもしれない。
 医師が診察にやってきたが、縫合跡を固定する時期らしく、包帯は取らなかったので、刺し傷がないことはバレずに済んだ。
 夜の間は美衣奈を別室の患者家族用ベッドで休ませ、俺がサヨコに付き添った。夜中、サヨコが目を覚ます。
「起きたのか」
「ああ、イナリさん。悪いわ、家族でもないのに付き添ってもらっちゃって」
「いいんだ。俺がそうしたい。サヨコは好きなものリストに入っているからな」
「イナリさんって面白い人だねえ」
 サヨコが笑った。その声には力がない。
「早く病院から出て、また好きなものを探しに行こう」
「イナリさん。私、もうすぐ死ぬみたい。何だか分かるんだ」
「そんなこと言うな。俺がせっかく」
 せっかく助けてやったのに、という言葉を飲み込む。
「本当にありがとう。死ぬ前にあなたみたいな人と出会えたなんて、神様に感謝しなくちゃ」
「そうするといい」
「それでね、最後にひとつだけ、頼まれてくれない」
 いたずらっぽい目でサヨコがこちらを見た。
 その翌日、サヨコは息を引き取った。「生き返り」からたったの二日後だった。
 人の生き死には、神ですらどうしようもない。

「危うかったですが五十人目の誉人の願いも叶えました。これで私のお勤めも最後」
 狐は上機嫌でしっぽを振った。
 俺は神社の本殿で、長い巻物に筆で今回の誉人の顛末を書いた。もちろん、弁財天が偽サヨコを演じていたことは秘密だ。狐は口でその巻物をくわえた。
「これを大神様のもとへ。頼んだぞ」
 狐は頷き、神木のうろの中へと消えた。そこは使者だけが通ることができる、天界への通り道だ。俺も通ることはできない。
 がらんとしたサヨコの家で、俺は美衣奈と待ち合わせをした。
 リビングに大きなテーブルを持ち込んだ。その上に、餃子の材料を並べる。温かな日差しがたっぷりと差し込んで部屋は明るい。
「ひき肉をよく練っておくのがポイントなんだ。ああ、キャベツの切り方はそうじゃない。もっと大きめにしないと、食感が残らない」
 俺はきびきびと美衣奈に教える。
「分かってるけど、できないの」
 美衣奈は手と顔を刻んだ野菜まみれにしながら、ふくれっつらになる。
 サヨコの最期の願いは、美衣奈に餃子のレシピを伝えてほしい、ということだった。
「ねえ、今日作った餃子は冷凍しておこう。最後にお母さんが作ってくれた餃子が冷凍庫にあるんでしょ。それを焼いて食べよう」
 美衣奈がそう提案し、焼いた餃子を一緒に食べた。美衣奈は一口食べて箸を置く。
「どうした。まずいのか」
「逆だよ。すごく美味しい。お母さんの作る餃子が一番好き。お母さん、こんなに手間をかけて作ってくれていたんだね。知らなかったよ」
 美衣奈が涙ぐんだ。
「よかったな」
「え?」
「お互い、相手は会いたくないんだろうと思ったまま別れなくて、よかったな」
「……うん」
 それから俺たちは、餃子を全部平らげた。
 狐が巻物をくわえて帰ってきた。その巻物は大神様からのお返事に違いなかった。
 いよいよ、俺が天界に戻るお許しを得るのだと、本殿に正座する。狐はうやうやしく巻物を床に広げると、大神様からのお返事を読み上げた。
「このたびの誉人の願い、まことに奇妙なものながら、人間の機微を学ぶことができる貴重な事象であった。稲荷神の働き、褒めてつかわす」
 俺は頷きながら拝聴する。続けて読もうとする狐の顔が少し曇った。
「しかしながら、人間が一度死んで生き返るのは人の世の理に背くことなり。何らかの不自然が働いていることは自明。よって、願いを叶えたとは言い難く……」
 狐はさらに険しい顔になり、声が震えた。
「より修業が必要と考える。よって、稲荷神にはさらに五十名の誉人の願いを叶えることを命ず」
 読み終わった途端、狐が俺を睨んだ。
「私を騙したのですね。なんですか、不自然って」
「それは、弁財天が……。かっぱえびせんをあげたら、やってくれるって」
 ウウッと獣の声で狐はうめき、俺の腕にかみついた。狐にかまれると、けっこう痛い。
 俺が美衣奈に再会したのは、それから五年ほど経ってからだった。
 二年ばかり寝過ごした後、本殿から出た。日差しがまぶしく、空は青く晴れ上がっている。ちょうど三歳くらいの女の子が賽銭を入れるところだった。
 その顔に見覚えがある気がして眺めていると、後ろから両親らしき男女が近づいてくる。
「二回お礼して、二回拍手して、最後に一回礼をするんだよ」
 そう母親が言う。女の子は真剣にやろうとしたが、三回お礼をして一回拍手し、最後の礼は忘れている。
 ほほ笑んだ母親の顔を見て、俺は美衣奈だと気が付いた。あどけなさは消え、大人っぽくなったが確かに美衣奈だった。
 横にいる男は、伏野ではない。当然だ。あの男は、殺人の罪でまだ刑務所にいる。
 サヨコの亡くなった日の夜、俺は担当医の枕元に立ち、「百瀬サヨコの死因は刺し傷による他殺であると死亡診断書に記入せよ。裁判でも同様の証言をするように」と唱えていた。担当医はその通りに行動し、伏野には無期懲役が言い渡された。
 美衣奈の夫は、彼女より少し年上の青年だった。優しそうな目で妻と子どもを見つめている。この男なら、サヨコの娘を守ってくれるだろう。
 美衣奈が手を合わせてこちらに祈った。俺は耳を澄ませる。
(神様、こんな幸せをくださってありがとうございます)
 ただ、それだけだった。
 早くも飽きてしまった子どもは、「ママ、はやく帰ってぎょうざ作ろう?」と母親の手を引いた。「はいはい」と幸せそうな顔で美衣奈が笑った。
 家族の後ろ姿を見送っていると、甘い香りがした。振り向くと、本殿の脇でキンモクセイの木に橙色の花がいちめんに咲いている。
 また秋が巡って来たのか、と俺は思った。

(了)