月が中空に上っている。
 今宵は、満月だ。月明かりが参道を白く浮かび上がらせる。夜が深まるほどに、静けさは増し、鈴のような虫の音がひびく。
 俺は社殿の階段に腰かけて月を眺めた。狐が隣にひらりと来る。
「サヨコは手紙を読んでくれましたか」
「ああ。自分の知りたいことが書いてあったと言っていた」
「伏野の連絡先を書いておいたんです」
 狐は胸を張る。「仕事が早いでしょう?」
「サヨコは今日、さっそく伏野に電話をかけていた。俺はこっそり盗み聞きをしていたんだが、美衣奈がここにいるから、明日の午後一時に会いに来いと言っていた。夫婦の仲を取り持つようなふりをしてな。もちろんまるっきり嘘だ。伏野に自分を殺させようという魂胆だ」
「しかし、伏野は嘘をつかれていると知れば怒るでしょうが、殺したりするでしょうか」
「伏野の美衣奈に対する執着は異常だ。少し挑発すれば危害を加えてくると踏んだんだろう」
 狐は上機嫌で頷いた。
「まあ、伏野がサヨコを殺さないのでは、という心配は無用でしょう。今夜、稲荷神さまが伏野の夢枕に立ち、サヨコを殺すよう指示なさるでしょうから」
「そうするしかないな」
 俺の使命は、誉人の願いを叶えることだ。是非を問わず、過不足なく。
「少し早いですが、おめでとうございます」
 狐は頭を垂れた。
「明日はいよいよ、誉人五十人目の願いが叶いますね。これで稲荷神様も天上神の仲間入り」
「そうだな」
 四百年、願い続けてきたことが叶う。しかし、俺の心は浮き立たぬ。
「伏野がサヨコを殺しそこねないように、稲荷神様も明日はサヨコの家で控えていてくださいね」
「わかっている」
 俺は立ち上がり、稲荷神の姿のままで鳥居に向かい歩き出した。「いってらっしゃいませ」と狐が頭を垂れた。
 伏野のアパートに入ると、転がった酒瓶につまずかぬよう気を付けながら進む。壁に、美衣奈の写真が何十枚も貼ってある。そのすべてに、金色の画鋲が刺してある。
 伏野はだらしなく布団でいびきをかいていた。
 俺は枕元に正座して坐り、その額に指をあてた。
「お前は明日、百瀬サヨコを刺し殺す」
 外に出ると、夜の街は寝静まっている。神社に戻る前に、少し歩いて帰ろう。
 そうだ、サヨコは俺にこう言ったではないか。人間は歩くといい考えが浮かぶんだと。

 翌日の午後一時。
 伏野はサヨコの家にやってきた。
 荒々しくドアを開ける伏野とともに、俺は家の中に入る。
 強烈な煙草の匂いが玄関に満ちる。伏野の羽織っているジャンパーは、ベージュだったものが、今ではグレーに見えるほど薄汚れている。目は血走り、無精ひげが灰色の顔にまだらに散っていた。元の顔立ちは悪くないのだろうが、怒りと憎しみが無残にその面影を消し去っていた。
「ああ? なんだ、てんとう虫か」
 伏野はうるさそうに俺を手で払おうとする。慌てて俺ははばたく。神をはたき落そうとは、罰当たりなやつめ。
 サヨコには今日はヘルパーに来なくていいと言い含められていた。だが、てんとう虫の姿で来ないでくれとは言われていない。
「美衣奈、おい! どこにいるんだ」
 伏野はリビングダイニングに通じるドアを開けた。俺も一緒に入り、ソファの物陰に止まる。
 サヨコはリビングの真ん中に立っていた。向こうが透けそうなほど白い顔をしている。だがまなじりだけは決して、こちらを睨んでいた。
「おい、ばあさん。美衣奈はどこだ」
 伏野は声を張り上げた。
「ぎゃんぎゃん、うるさい男だね。聞こえてるよ」
 サヨコは顔にしわを寄せる。
「上か? 二階にいるのか」
 踵を返し、部屋から出て行こうとする伏野の背に、サヨコは冷たい声を投げた。
「いないよ、美衣奈は」
 振り返った伏野の目が、赤々と燃えている。
「騙しやがったな」
「あんたに比べれば、ましだろうよ。娘はあんたといれば幸せになれると思って付いて行ったのに、殴られてめちゃくちゃにされてさ」
「言えよ。知ってるんだろ、どこにいるか」
「知ってても言うもんか」
 伏野はジャンパーの懐から飛び出しナイフを出した。柄から刃を出すと、そこにサヨコの姿が映った。
「言わねえと、ぶっ殺すぞ」
「やれるもんなら、やってみな」
 挑発するように、サヨコは体をのけぞらせた。
「あんたなんて、口だけだろ、どうせ」
 サヨコはくるりと伏野に向かって背を向ける。
 俺は息をのんだ。
 隙だらけだ。
 いや、隙を作っているんだ。わざと。
「自分に自信がないから、暴力で従わせようとする、サイテーの人間がやる……」
 サヨコの言葉を、伏野のわあとも、おおとも聞こえる咆哮が消した。同時に、サヨコの背に向かいナイフを振りかぶる。
 まさにその刃先が届こうとした時。
 玄関で、チャイムが鳴った。
 伏野が手を止めた。サヨコが振り返り、顔をこわばらせた。
 インターホンから声が流れる。
「お母さん?」
 インターホンの画面に映っているのは、美衣奈だった。
「私。美衣奈。いないの?」
 心の中で舌打ちする。確かに、母親に会いに行ってやれと助言したのは俺だ。しかしタイミングが悪すぎる。
 伏野がナイフを右手に持ったまま、ゆっくりと玄関に向かう。
「やめてっ」
 サヨコが伏野の足に取りついた。次の瞬間、サヨコは突き飛ばされ、リビングの床に転がっていた。伏野が床を踏み鳴らしながら、リビングのドアから出ていく。その風圧で俺はソファから転がり落ち、そのまま「ヘルパー稲荷」の姿に変わった。
 俺も慌てて廊下に走り出る。目に映ったのは、仁王立ちした伏野の背と、その向こう側で玄関ドアにへばりつくようにしてこちらを向いて立つ美衣奈の姿だった。
「なん、で」
 か細い声が喉からこぼれた。
 美衣奈は体が震え、ドアに寄りかからなければ崩れ落ちそうだ。まるで動けない。
「言っただろ。俺はお前をどこまでも追いかけるって。許さねえ。絶対許さねえ。俺から逃げたらどうなるか、思い知らせてやる!」
 伏野がナイフを振り上げて大股で美衣奈に近づいた。
 まずい。
 俺は伏野に駆け寄ろうとした。
 と、俺の脇を疾風が通った。サヨコだった。
 伏野と美衣奈の間にすばやくその身を滑り込ませる。
 勢いのついた伏野は、そのままサヨコの腹にナイフを深々と刺した。血が噴き出て、伏野のジャンパーが赤く染まる。美衣奈の甲高い悲鳴が響いた。
 俺は伏野の右腕に蹴りをくらわせ、ナイフを蹴り飛ばした。続いて左腕を奴の顎の下から突き出す。どうと音を立てて後ろ向きに伏野が倒れる。
「お母さん! いやああ」
 美衣奈は倒れたサヨコを膝に抱くようにして叫んだ。サヨコは片手を美衣奈の頬にのばす。
「これでいいのよ」
 俺は伏野に馬乗りになり、何発か顔を殴りつけた。奴が意識朦朧となったところで、美衣奈に向かって叫ぶ。
「救急車! 警察!」
 美衣奈は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、鞄から携帯電話を取り出し電話をかけた。
 俺は玄関にあったビニール紐で伏野の腕と足を縛り上げる。その間にも、サヨコの血が玄関に広がっていく。
 しばらくして、救急車のサイレンが近づいてきた。

 それからは混乱の極みだった。
 救急車にサヨコと美衣奈が乗って行った後、到着した警官に伏野は逮捕され、連行されていった。刑事が二人現場検証にやってきた。一人は若く、一人は年配の男だ。俺はサヨコの病状が心配で立ち寄ったところに事件に出くわしたことにする。まさかてんとう虫になってソファの陰に隠れていたとは言えない。
 刑事たちは美衣奈に話を聞くため、その足で病院に向かった。俺も一緒だ。
 サヨコは集中治療室に入っており、待合所に美衣奈が座っていた。
 だが、話ができる状態ではなかった。顔は真っ青で、ぶるぶると震えている。刑事たちはあきらめ、また後日来ると言って帰った。俺を見ると美衣奈はすがりついてきた。
「イナリさん、どうしよう!? お母さんが死んじゃったら。私のせい、私の……」
「あんたのせいじゃない、大丈夫だ」
 俺は美衣奈の肩をさすってやった。人間はこうして相手を励ます。
 サヨコは生死の淵をさまよい、二日が経った。
 美衣奈はサヨコに付き添い、帰ろうとしなかった。待合所で座ったまま一睡もしない。俺は毎日病院に通い、美衣奈と交代でサヨコに付き添うことにした。
 担当の若い女性看護師は、俺たちの事を娘夫婦とでも思っているようだった。
「待合所は寒いでしょう。これ、よかったら使ってください」
 そう言ってピンク色の毛布を貸してくれた。
 狐は尻尾を左右にぱたぱたと気ぜわしく動かして文句を言った。
「いったい、何をしているんです? 誉人の願いとはまったく関係がないことを」
「俺がいなければあの娘は倒れてしまう」
「このままサヨコが死ななければ、願いを叶えたことにはなりませんぞ。どうなさるおつもりで」
「大丈夫だ。俺は伏野にサヨコを刺し殺せと唱えたのだから」
 翌日、その時がきた。
 昼頃のことだ。俺と美衣奈は集中治療室の前にいた。急に医師や看護師の出入りが激しくなる。美衣奈が心配そうに腰を浮かせた。治療室は、いくつもの個室がある。
「まさか、お母さんじゃないよね?」
 しかし、しばらく後に担当の若い看護師が俺たちを呼びに来た。
 病室にはぐったりと青い顔のサヨコが横たわっている。その脇に立った中年の医師もまた、沈んだ面持ちだった。
「さきほど、心肺停止に。最善は尽くしましたが残念ながら」
「……うそ」
 美衣奈からため息ほどに小さな声がでた。
 医師が瞳孔や脈を取り、臨終の時間を告げる。
 美衣奈がサヨコにすがりつくようにして、崩れ落ち、すすり泣く。担当の看護師が、一礼をして出て行こうとするのを、俺は引き留めた。
「すまないが、一時間ほどこのままにしてもらえないだろうか。美衣奈は母親に三年ぶりに会ったんだ。お別れの時間を取りたい」
 若い看護師は悲痛な面持ちになる。
「分かりました。申し訳ないですが、私はじきに交代の時間です。代わりの看護師に引き継いでおきます」
 俺はそれを聞くと、急いで病院からタクシーに乗りサヨコの家に向かった。
 サヨコの家は封鎖されていたが、もう人影はない。タクシーを待たせたまま、敷地の中に入った。門に張られたロープをくぐり、俺は母屋の裏にある蔵に向かう。
 蔵の真ん中に、布団が敷いてあるのが見えた。小さな窓から、ほこりっぽい陽の光がさしている。
 俺は、布団で眠っているサヨコを見下ろした。
 陽の光を浴びて、すやすやと彼女は眠り込んでいた。
 伏野の家で「明日、百瀬サヨコを刺し殺すように」と告げた後、俺はサヨコの家に向かったのだ。一階の寝室で眠っているサヨコの枕元に立つと、こう唱えた。
「三日三晩、眠り続けなさい」
 家の中は警察が入って来るのでまずいと思い、サヨコを布団ごと蔵に移したのだ。本物のサヨコは、ずっとここに居た。
 俺はサヨコを抱え、タクシーに乗り込んだ。
「病院に戻ってくれ」
「具合が悪いんですか、その人。救急車じゃなくていいんですか」
 運転手が怪訝そうに聞く。
「大丈夫だ。ただ眠り続けるという病だから」
 病院に着くと、運転手に運賃とチップをはずむ。眠り続けるサヨコを車いすに乗せ、マスクと帽子を目深につける。最後に病院で借りたピンクの毛布を体にかける。これで本人とは分からない。
 タクシーが行ってしまうと、俺はサヨコの親切な担当看護師の顔と服装に化けた。すると本物が私服で病院内から出てくる。ぎょっとして顔を伏せた。気がつかれなかったようだ。
 俺は車いすを押してサヨコの病室まで上った。車いすに乗ったサヨコを病室の外の見えにくい場所に隠す。美衣奈はまだベッドの脇で呆然としていた。俺はその背中に声をかける。
「百瀬さん。イナリさんという方が呼んでますよ」
「え? こんな時に。後にしてもらえますか」
「でも緊急だそうで。食堂でお待ちです」
 美衣奈はしぶしぶ立ち上がり、病室を出ていく。入れ替わりに俺は病室に車いすを運び込み、ドアを閉めた。
 ベッドの上のサヨコに、俺は声をかけた。「おい、もういいぞ」。
 偽サヨコはぱっちりと目を開け、起き上がってのびをした。
「ああ、もう疲れた。刺されるのだって、多少は痛いんだからね。それに心肺停止させるなんて、人間の体でやるのはしんどいんだから。まったく」
 弁財天は不服そうに訴えた。もう姿は変わっている。黒髪のおかっぱ頭、白い小袖に赤い袴。あどけない少女の顔だが、この世のものとは思えぬ美しさだ。これが弁財天の本来の姿。
「しかし、サヨコの真似がすこぶる上手かったな。伏野を挑発するところは、本物と思い込んでしまうほどだった」
「私はいつでも完璧だからね。美衣奈が家に来たときは焦ったけど」
「刺された後、これでいいの、とか言ってたな」
「サヨコの話を聞いて、そういうこと言いそうだったから。私はあなたより人間のプロフェッショナルだからね。まあ、これでかっぱえびせんの貸しはちゃらってことで」
「悪いんだが、時間がないんでそこどいてくれ」
「はいはい。まったく人使い? 神使い? が荒いんだから」
 弁財天はつかつかと窓に近づくと勢いよく開け、そこから身を乗り出した。手品のように白鳩へと変わり、そのまま空へと飛んで行く。
 俺は車いすからサヨコを下ろし、ベッドに横たえた。サヨコはまったく起きない。しかし、今日の晩で三晩めだから、明日の朝には目を覚ますはずだ。
 俺は看護師姿からヘルパー稲荷へと戻る。
 病室のドアが開き、美衣奈が驚いた顔で入ってきた。
「イナリさん、探してたんだよ。いったいどこに……」
「大変だ!」
 それを遮って俺は叫んだ。
「サヨコが息を吹き返した!」

 

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