目が覚めると、三年経っていた。
 むくりと起き上がり、大きな欠伸をひとつする。枕元の丸鏡で自分を映した。もしやと期待したが、三年前と寸分違わぬ。白い小袖。紫の袴。つるりとした少年の顔。
 俺はため息をついて立ち上がると、本殿の扉を開いた。
 といっても、人間たちには何事も起きていないように見えるだろう。
 まぶしい光が目を射る。視界が戻ると、大勢の人間たちが、こちらに向かい賽銭を投げて手を合わせる。向こうの社務所から、大吉をひいたらしい者の歓声が届く。
 何百年も変わらない風景。
 つまらぬ。
 俺はもうひとつ大きな欠伸をする。
「あやうく逃すところでしたぞ、いながみ様」
 声のする方を見ると、狐がこちらを睨んでいた。
「おい、鈴はどうした。本坪鈴ほんつぼすずは」
 いつも祈る前に人々が鳴らす、あれがない。
「ねぼすけ神様、いえ、稲荷神様がお休みの間に、世界中で新しいウィルスが蔓延したのです」
「ふむふむ。わかった」
 俺は神なので、一言聞けば大体は理解する。どうりで静かで寝過ごすわけだ。
 狐はふんと顔をそむけ、ふさふさした尻尾を左右にしきりに振った。どうやら機嫌が悪そうだ。
 俺は稲荷神だから、神の使いは狐と決まっている。こいつは、拝殿に立つ狛犬ならぬ狛狐である。人間たちには、ただの石像にしか見えていない。
「それでどうだ。そろそろか」
「すぐそばにいらっしゃいます」
 狐は参拝客に鼻を向けた。指さしの代わりらしい。
「あの、檜皮色の着物の女性。彼女が『ほまれ​人びと』です」
 この時代は檜皮色なんて言葉は使わない。ブラウンとか言うはずだ、確か。それに着物じゃなく、パーカーと呼ぶ。俺は優しいので、狐の語彙に関しては指摘しないでおく。
 俺は地面を蹴って、賽銭箱の上にふわりと座った。
 人間が投げる賽銭が、俺の身体を通過していく。
 耳をすませると、手を合わせた人間の心の声が聞こえてくる。
(お金がもっと……)
(結婚できますように……)
(……病が治って)
 つまらぬ。
 人の願いは、代わり映えしない。時代が変わっても大体同じだ。金、健康、成功、そのどれかだ。
 さすがに四百年も聞き続けていると飽きてくるというもの。
 いよいよ、女の番になる。年のころは、五十半ばというところか。顔色が悪い。
 女は千円札を取り出して賽銭箱に入れ手を合わす。ずいぶんと気前がいい。
(私は宝町二丁目三十六番地に住んでいるももサヨコといいます)
 俺は深く頷く。住所も名前も名乗るとは、いい願い方ではないか。人はたいていこれを省く。神ならどこの誰か分かると思っている。名乗らなければ知るものか。
(神様、どうかお願いします)
 百瀬サヨコは眉間にしわを寄せながら、真剣に願った。
(どうか、私が殺されますように)
 はて、と俺は腕組をする。
 初めてではないか。
 「殺されますように」という願いは?

 俺の棲みついているこの稲荷神社が創建されたのは、寛永二年、江戸の頃だ。
 今から、四百年ほど前のことになる。
 創建と言っても、地元の名主が豊作を祈って建てた、簡素な神社だった。当時は見渡すかぎり水田だった。江戸のはずれであったこの場所も、今や日本橋と見まごうばかりの繁栄ぶりだが。
 俺は時をおなじくして、天界からこの神社に遣わされた。
 天界を統べるのは、偉大な大神おおがみ様だ。
 あるとき、大神様に俺は呼ばれた。大神様のお姿はまばゆい光に包まれていた。いや、光そのものだった。
(子どもたちよ)
 大神様はこう呼びかけた。気が付けば、自分と同じ少年少女の顔をした神達が何十人も周りに集まっていた。
(おまえたちは神としてはまだ未熟。地上に降り、選ばれた誉人たちの願いを叶えてやりなさい。その是非を問わず、過不足なく。お前たちはその仕事を通して成長することだろう。そして使者を遣わせて私に知らせなさい。彼等がどんな願いをしたのか、どうしてそう願ったのか、願いを叶えてからどうなったのかを)
 神たちは頷いた。俺も真剣に耳をすませた。
(五十人の誉人の願いを叶えた暁には、天界に戻してやろう。その時はもう子供ではなく、私と同じ大人の姿をしているはずだ)
 早く大人になりたい、そして早く大神様に認められたいと、俺は思った。
(お前たちにはひとしく、同じ力をわけあたえる。一つは、地上の生き物すべてに姿を変えることができる力。もう一つは、人間の枕元に立てばその者をあやつることができる力)
 大神様にくらべれば、小さな力だった。天候を左右することも、一瞬で場所を移動することもできない。俺は少しだけがっかりした。
(さあ、行きなさい。励むように)
 俺はどうしてそんなことをするのか聞きたかったが、大神様は風が吹き抜けるように去ってしまった。
 それから四百年の時が経った。
 誉人達はどう選ばれているのか、年も男女も見た目もばらばらだった。裕福なものも、そうでないものもいた。危険思想の持ち主も、博愛主義の人物もいる。現れる頻度も決まってはいない。人間の考えることはよくわからず、その願いを叶えるのは俺にとって難しいことだらけだった。とにかく彼らの願いを、俺は叶え続けてきた。
 一緒に天界から降りてきた仲間は、次々と五十人の願いを叶え、天界へと戻っていった。気が付けば、数えるほどの神しかもう地上には残っていない。
 俺としては、とても焦っていた。
 百瀬サヨコは、待望の五十人目の『誉人』だ。
 つまり彼女の願いを叶えれば、俺はこの退屈な地上から抜け出せるのだ。

『誉人』が来て、七日後の朝。
 神主が境内を掃除している。簡素だった神社も敷地を増やし、今ではなかなか立派である。社殿の横に神主の家もある。この八代目の神主は、嫁もとらぬうちに髪が禿げ上がってしまい、いまだに独り身だ。
 俺は朝日を浴びて輝く社殿の階段に腰かけている。
「稲荷神様」
 狐が隣にやってくる。
「手はずは分かっておいでですね。百瀬サヨコは、末期のがんを患っており、余命わずかです。病院での治療はのぞめず、また本人の希望もあって、定期的に痛みをやわらげる治療を受けながら自宅で過ごしています」
 狐は俺のように人の姿にはなれぬが、人の目にはうつらないから、調査活動には長けている。病院や役所のパソコンを盗み見るくらいならお手の物だ。
「分かっている。それで、俺がヘルパーになる」
「以前からサヨコは『へるぱあ』を希望していましたが、人手が足りず、奉仕を受けられずにいました。稲荷神様を待ちわびているはずです」
 俺は人間の姿になり、ヘルパーの派遣会社に登録をした。ちゃんと履歴書も書き、面接にも赴いたのだからなかなかのものだ。
「もちろん、へるぱあになることが目的ではないですよ」
「そこで誉人の願いを叶えるための詳細を調べるのだろう」
「くれぐれも正体がばれぬように。人の心が読めるのは、この境内だけですからね」
「分かってるって。もう行くぞ俺は」
 狐は仕事ができるが、俺のことを子ども扱いする。きっと落ちこぼれ神だとでも思っているのだろう。
 鳥居を抜けると同時に、それまで着物姿の少年だった俺は、大人の男になる。今風のジーンズとシャツを着た、若い男である。
 鳥居の前で、母親に手を引かれた五歳くらいの男児と目が合う。
「ママ、この人、なんにもない場所から急に出てきた!」
 男児は母親の服の裾を引っ張って大声を出す。
「何言ってるの」
「本当だよ。鳥居には誰もいなかったのに、煙みたいに出てきたんだ。おばけだよ!」
 母親はちらりとこちらを見る。俺は感じよく微笑んで見せる。相手はぱっと顔を赤らめた。
「ごめんなさい、うちの子が失礼を……」
「鳥居のなかが暗いので見間違えたのであろう。こちらこそ驚かせて申し訳ない」
 母親は顔を赤らめたまま、子供を引っ張っていった。子供はまだ不満げに自分の正当性を訴えている。俺はやはりこの姿で良かったと思う。俺の顔は、今どきの美男子にしてある。百瀬サヨコは女だ。女が誉人の場合は若い男に、男ならその逆が一番油断するという事を、俺は四百年の間に学んだ。
 三年ぶりに鳥居の外を歩く。街はそれほど変わっていない。小さな商店街があり、肉屋の店主がコロッケを揚げている。八百屋が店先に大根を並べている。サラリーマンや自転車に乗った学生が、そこを行きかう。
 商店街を抜けると、静かな住宅街だ。百瀬サヨコの家は、その外れにあった。
 形ばかりの門と、庭木が何本か植わった庭、朽ちかけた縁台。青い瓦屋根の、二階建て一軒家。その裏手に、小さな蔵が見えた。最近では珍しい、切妻の屋根を載せた簡素な板張りの蔵だ。なかなか悪くない家構えだが、ずいぶん古びている。
 インターホンでヘルパーだと名乗ると「どうぞ」とサヨコらしき女が答えた。庭に入ると、橙色の花をつけた木からいい匂いが立った。どうにも心の浮き立つような、いい香りだ。俺は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 玄関を入ると右手がリビングで、その奥にキッチンがつながっていた。
 ソファに横になっている女がいる。サヨコだった。ブランケットを何枚かかけている。少し起き上がって「あんた、名前は?」と聞いてくる。
「稲荷と申す」
 サヨコはちょっと小首をかしげた。
「何だかへんなしゃべりかたね」
 いかん。このままでは怪しまれる。
「すいません、日本語むずかしくて」
「ああ、海外の人ね。じゃあ、さっそくだけど一階の風呂場の掃除、それから洗濯と……」
「分かった」
 サヨコは体力が落ちていて、日常の家事も困難だ。そのような状態でありながら、神社に参拝に来たのは誉めてやろう。俺はてきぱきと掃除洗濯をこなしてサヨコのもとに戻った。サヨコは起き上がって家じゅうを見て回り、驚いた顔になる。
「ぴかぴかだわ。あんた神?」
 俺は答えに窮する。まさかばれたのか。
「神ではない、断じて」
「ばかね、冗談よ」
 冗談か。
「ほかに何かして欲しいことはあるか」
「じゃあ、餃子を焼いてくれる? もう作ってからだいぶ経つから、食べてしまわなきゃ」
「ぎょうざ? とはなんだ」
「お国では餃子を食べないか。冷凍庫を開けて」
 言われた通りに冷凍庫の引き出しを開ける。カチカチに凍った白い塊が透明な袋にたくさん入ってる。
「……こんなにたくさん、蚕が」
「気持ち悪いこと言わないでよ。それが餃子。焼き方はね……」
 俺はサヨコの言う通りに調理にとりかかる。分厚い鉄鍋で餃子がじゅうじゅうと焼けると、あたりに香ばしい匂いが満ちる。
 サヨコが寝ているソファの傍にある、ソファテーブルに餃子を運ぶ。餃子は三十個以上ある。それなのにサヨコは一口食べただけで箸を置く。
「食欲ないわ」
「残りはどうするんだ」
「あんた、食べてよ」
 俺は恐る恐る、その蚕様の食い物を口に運ぶ。皮はつるつるして、噛むとじゅわっと肉汁が出た。それが野菜のみずみずしさとまざりあう。これは。
「旨い」
「よかった。餃子作りにはけっこう自信あるのよ」
 俺はどんどん口に詰め込む。人間ではないので、食べなくても腹も減らず何の支障もない。ないのだが、旨いものは食べたい。
 皿はあっという間に空になる。若い人は食べるわね、と言いながらサヨコが薄く笑った。俺はおやと思った。泣いているようなさみしい笑顔だった。
「ところで、玄関のところでいい香りがした。あれは何だ」
「キンモクセイのこと? 甘くていい香りでしょ。気に入ったんなら、しばらくこの家に来る楽しみができたね」
「キンモクセイか」
 人間の世界にも、天界と似た香りを持つ木があるのだな。俺は餃子を茶で流し込むと、本題を切り出した。
「ほかにして欲しいことはないか」
「今日はもう大丈夫よ」
「いや、そんなことはなかろう。よく考えてみてくれ」
「本当にないって」
 俺は台所に行き、包丁を持ってきてサヨコに見せた。
「これを見たら思い出さないか」
 室内に差し込む光が包丁で跳ね返り、サヨコの顔を明るく照らす。彼女は首を傾げた。
「これで腹をぶすっと刺してほしいんだろう」
 相手はぽかんと口を開けたが、やがてさざ波のように顔に怖れが広がった。
「ひ、人殺し!」
 サヨコがソファからずり落ちた。腰がくだけてしまったのか立ち上がれない様子である。
 おかしい。殺してくれと願ったのに、逃げようとしているではないか。俺はとりあえず、台所のシンクの下に包丁をしまった。サヨコの元に戻ると、おどけた調子で言った。
「ああ、驚かしてしまった。ちょっと刺激的な冗談です。国で今、はやってて」
「差別はしない主義だけど、あんたの国、ちょっとおかしいよ? だいたい……」
 サヨコは興奮したのか、咳込んで止まらなくなった。息遣いが荒い。願いを叶えてやる前に死ぬのではないかと俺は気が気ではない。背中をさすってやる。
 サヨコが片手を宙に伸ばした。その表情が切実で、俺はなんとなくその方向に目を向ける。そこには腰高ほどの本棚があり、上に写真立てが置いてある。緊張した面持ちの制服姿の女子中学生に、少し若いサヨコが寄り添っている写真だった。

 

「神様、どうか私が殺されますように」は全5回で連日公開予定