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「何だい、また文句を言うつもり? 無駄だし迷惑だよ、全く。忙しいんだから、今すぐ帰っとくれよ!」
 学校からそのまま自転車でやってきた私に、米沢さんは以前の強硬な態度を崩さないどころか、更に警戒を強めたようだった。しかし、今日の私は、この間の私とは違う。
「……米沢さん。無責任を承知で言います。ハナちゃんを、もっと大事にしてあげてください。もし、十分に世話ができないと言うんだったら、愛護団体の助けを借りるなりしてくれませんか? このままだと、ハナちゃんがかわいそうです。もう見過ごせません」
 自転車を降り、スタンドを静かに蹴り上げながら、私はなるべく感情を抑えた口ぶりで言う。いつもとは様子の違うそんな私の手を、しかしハナちゃんはいつものように呑気に舐めたりしていた。相変わらず、あばらは痛々しいくらいに浮き上がっている。激高した様子の米沢さんが、唾を撒き散らしながら叫ぶように言う。
「自分でも分かってるじゃないか、無責任だって。そうだよ、あんたが言うことは無責任! 私のことを責める資格なんて……」
「ないです。でも言わせてください。私、もうやめたんです。自分の中の矛盾とか、周りからの目線とか、そういうものに怯えて、言いたいことを言わないのは、もうやめたんです。だから言います、ハナちゃんをこれ以上不幸にするつもりなら、せめて他の人に譲ってくださいっ!」
 私の反論が終わるか終わらないかという瞬間、米沢さんが杖を放り投げ、空いた両手で私の肩に掴みかかろうとした。しかし、私は米沢さんの手を機敏に避け、パッと目に付いた壁のリードを手に取り、慣れた手つきでハナちゃんの首輪に取り付けた。そして私は、鎖から自由になったハナちゃんと一緒に、走り出した。どういうわけか米沢さんは、さっきまでついていた杖を手に取ることはなく、ものすごい速度で走り始めた。これまで、私の前でわざとらしく杖をついたり、手押し車を押したりしていたのは、もしかすると私に散歩をさせるための演技だったのだろうか? とにかく、米沢さんは陸上部の短距離走の選手みたいにブンブンと腕を振りながら追いかけてきて、私とハナちゃんは必死で逃げた。
 ただ、そこには不思議な爽やかさがあった。ハナちゃんはこれを愉快な追いかけっこ遊びか何かだと思っているのだろうし、私は息を勢いよく吐き出し、冬の冷たく澄んだ空気を肺に満たすたび、まるで少しずつ、新しい自分になれるような感覚があった。私は今、とんでもないワガママのために走っている! 相手の顔色なんて窺わず、理屈の整合性なんて考えず、とにかく私のありのままの望みが実現することを、まったく無責任に祈りながら走っている。

 お母さん。お祝い、何にしてもらうか決まったよ。ハナちゃんが幸せに暮らせるように、うちで一時的に預かるなり、誰か助けてくれる人を見つけるなりしてほしい。可能な限り、私も手伝うから。

 お姉ちゃん。やっぱり、あなたと向き合うとき、私はどうしても惨めな気持ちが湧いてくるのを止められない。でも、それでもお姉ちゃんのことが好き。ワガママだけど、許してほしい。きっと、ずっと好きだから。

「ヂグショー!」と叫び声を上げて、どうやら米沢さんが何かに躓き、ヨタヨタと体勢を崩したかと思うと、じきに転んだ。実際には頑丈な人だろうから、きっと骨とかは大丈夫だろう。私とハナちゃんは、まだ遠くに走れる。走りながら、私は顔をしかめ、中指を突き立て、ガラケーの内カメラで自撮りをする。この中指の意味は、退屈な田舎や、自分の気持ちを理解してくれない家族に向けたものではない。私自身に、今日これまでの私自身に向けたものだった。その意味は、私だけが知っていればいい。

《今日もつまんない一日でした。》
 その日も私は、興奮のうちにブログを更新した。あの写真を一緒に載せて。見たければ見ればいい。決めつけて誤解するならすればいい。私の滅茶苦茶な世界は、滅茶苦茶なまま持って行く。これは宣戦布告だ。世界に開いた日記帳で、私は世界に中指を立てた。


***


いきなりのDM、失礼します。
写真と投稿を拝見して、驚きました。信じてもらえるか分かりませんが、あの制服の女の子、私なんです。
私はそれほどネットに詳しくないので、あの画像が10年以上経った今でもネットで出回っているとは知らなかったのです。(無責任に広めた人には、思い当たる節があります……)
ただ、ハナちゃんが元気に暮らしていること、大変嬉しく思います。
母が保護犬活動をしている団体に繋いでくれたところまでは聞いていたのですが、その後は連絡が途絶えていて……ずっと心配していたんです。
もしよければ、撫でに行ってもいいでしょうか? ハナちゃん、私のこと覚えてるかな?
2023年8月4日 13:17

「ハナちゃん」
 幡ヶ谷の低層マンションの、西向きの大きな窓のある部屋の夕暮れ。ハナちゃんは好美さんのほうへヨタヨタと歩いて近付いたかと思うと、恐る恐る差し出された彼女の右手をペロリと舐めた。好美さんは、お涙頂戴の動物番組みたいにハナちゃんの名前を叫びながら泣き崩れることはなく、ハナちゃんもまた、衰えを忘れたかのように跳ね回ることはなく、鮮烈なオレンジ色の光が容赦なく差し込む部屋で、ひとりと一匹は、顔や体のあちこちにくっきりとした影の断片を纏いながら、静かに見つめ合い、時折体を触れ合わせていた。

「今思えば、完全に若気の至りですよ、あんなブログ。大学に進学して数年が経ったころ、暇つぶしにまとめサイトを見ていたら、あの画像が出てきて、血の気が引きました。制服のせいで学校までは特定されたけど、顔が写っていなかったおかげで私の名前が出ることは今のところないようで、それだけは幸いでした」
 ダイニングテーブルで、私が出した水出しのアイスコーヒーを飲みながら好美さんが苦笑する。いつもは私の足元でそうしているように、ハナちゃんは好美さんの足元で腹ばいになって眠っている。決して派手には見えなかったあの再会のセレモニーも、老犬にとっては大仕事だったのかもしれない。それを察してか、好美さんは座ったまま体を無理に屈め、「疲れちゃったね、ごめんね」と言いながら、またハナちゃんを優しく撫でる。
 それから私は、好美さんとハナちゃんの物語を聞かせてもらった。地元のこと。お姉ちゃんとお母さんのこと。上田さんと米沢さんのこと。ブログのこと。そして近況のこと。大学進学を機に上京した彼女は、そのまま東京で就職し、今でも飯田橋の通信系の会社で働いているのだという。保護犬活動をしている団体をいくつか経て、最終的に我が家にやってきたハナちゃんの過去にまつわる空白が、好美さんのおかげでひとつ埋まった。そこには小さな不幸が含まれていたけど、こうして私が愛する存在をかつて愛した人がいて、その人がこうして、私の目の前でハナちゃんを愛おしそうに撫でてくれている――ハナちゃんは人間の言葉が喋れないし、私にハナちゃんの気持ちを推察する力はないけど、ハナちゃんはきっと今、死ぬほど幸せなんじゃないだろうか?
「私には分かりません。ハナちゃん、もう私のことなんて忘れちゃってるかもしれないし、ずっと会いに来なかったこと、ちょっと恨んでるかも。でも、それでいいんです。分からないことは、分からないままにしておいてもいいと、今でも思うから」
  好美さんは、感情の読めない表情でポツリと呟く。その口調はどこか寂しげでもあった。
「……好美さんが会いに来てくれて、ハナちゃんは嬉しいと思います。自分勝手な決めつけかもしれないけど、私は何だか、そんな気がします」
 私が呑気な口調で素直な感想を漏らすと、好美さんは「そうですね、そうだと嬉しいです」と笑ってくれた。

 1時間ほどして、好美さんは「もし差し支えなければ、また遊びに来させてください」と言い残して帰っていった。そうしてまた、部屋には私とハナちゃんだけの時間が戻った。ハナちゃんは相変わらず、好美さんが座っていたダイニングチェアの足元あたりに寝そべって、静かに寝息を立てている。ハナちゃんの過去が分かったところで、ハナちゃんとお喋りができるようになるわけでもない。たとえハナちゃんが突然に言葉を喋り始めたとしても、それが本心かどうか見分ける術を私は持たないかもしれない。現に、好美さんがどんな気持ちでハナちゃんを撫でていたのか、本当にまた遊びに来てくれるつもりなのか、私には最後まで分からないままだ。
 当時書いていたブログは全部消したそうだが、ひとたび出回ったネットミームが消えることはなく、そうである以上、あの画像はきっと、見る人の世界の形に応じて、好き勝手に解釈されてゆくのだろう。好美さんのハナちゃんに対する感情だって同じかもしれない。もちろんそこには再会の喜びが多分に含まれるんだろうけど、一方で悲しみへの予感みたいなものも混じっているのかもしれない。ハナちゃんは、今のところ大きな病気はないけど、もうあと何年生きられるか分からない。あの画像の中のハナちゃんと比べると、ツヤツヤと光っていた毛並みはすっかり色が抜け、飛び跳ねるように走る元気は失われた。もしかすると、好美さんは思い出の中にいるハナちゃんを、あの頃のままにしておきたかったかもしれない。でも――
「ハナちゃん、好美さんが来てくれて嬉しかった?」
 そう訊いたとき、ハナちゃんは気だるそうに顔を持ち上げると、そのまま私のほうをじっと見つめた。私はそれを「うん」という返事だと勝手に解釈した。世界は分からないことばかりで、私たちはいつも不安を抱えている。その解消のために、私たちは誰かのことを決めつけ、そして傷付けたりもする。でも、決めつけることは不幸しか生まない、ということはないと思う。好美さんとの幸せな思い出が、ごはんの時間やトイレの場所を忘れつつあるハナちゃんの頭の中に、小さなひとかけらだったとしても、確かに存在すると、私は祈るように決めつける。だからこそ私は、その美しいかけらが少しでも長くハナちゃんの中に存在し続けられるよう、この子のことを最期の瞬間まで大事に愛し続けようと思う。

 

(了)