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 冬休みが明けた学校では、みんな数週間ぶりの再会を賑やかに喜び合っていた。
「マジで年越しライブ以外の時間はず~っと勉強してた!」
「初詣は無理やり連れてかれたけど、怖くておみくじ引けなかったよね~」
 ただ、会話の端々や、それらが積み重なって形成される教室の空気には、明らかに緊張感がにじんでいた。あと二週間後にはセンター試験が、その後は私立の一般入試を控えているのだから当たり前だ。私の仲良しグループの美佳みかは名大を、ひろは同志社をそれぞれ第一志望にしていたし、どちらも模試の結果は余裕のA判定という感じでもないようだったから、きっと彼女らは冬休みの間、誰かと違ってコタツで無為な時間を過ごすことはほとんどなかったのだろう。
 その日は始業式とセンター試験当日に向けた過ごし方なんかのレクチャーがあって、午後からは自習になった。今日から自由登校ということらしく、塾や自宅で勉強したい人は学校に来なくていいし、「学校のほうが集中できる」という奇特な人は、自分のクラスや友達のいるクラスで自由に自習しても構わないということになった。美佳も千尋も、駅前の東進衛星予備校に行くそうで、お弁当を食べたら荷物をさっさと片付けてしまった。「マジだるすぎ」「ほんとにそれ」とボヤきつつ、きっとこれから一緒に塾へ向かうのだろう、横並びで自転車に乗る二人の後ろ姿は、やけに眩しく見えた。
「あ、あのっ。好美ちゃん、私のこと覚えてる? 中1のとき同じクラスだった……あっ、あと、実は私も、指定校で明治行くんだけどっ……」
 次に会うのがいつになるかも分からない二人と、別れる手前の交差点で名残惜しく話していたら、自転車に跨った女の子が突然声をかけてきた。久々すぎて、一瞬名前を思い出せなかったが――うえさんだ。彼女とは小中高いずれも同じ学校だったが、同じクラスになったのは一度きりだったし、特に部活や交友関係が被ってもいなかった。そして何より、彼女と私はそれほど仲良くなかった。彼女のことが嫌いというわけではなく、ただただ、彼女のことが好きか嫌いか判定できるほど、私は彼女と接する機会がなかったのだ。そんな上田さんにいきなり話しかけられても、私はどんな話をすればいいものか分からないし、そして何より、今は美佳と千尋と話したかった。現に、二人はこの状況に困惑しているようだったし、大事な時期にある受験生たちを寒空の下に放置し続けることは忍びなかった。
「……覚えてるよ。でも、ごめんね。今はこの二人と話してるから」
 私は素直にそう断って、上田さんが立ち去ってくれることを期待した。しかし彼女はまごまごと周りを見回し、そのまま立ち止まっていた。どうも、私が言った婉曲表現をそのまま受け取ったようで、彼女は私が二人と話し終わるのを待つつもりのようだった。
「上田さん。好美は人にあまり強く言えない性格だから代わりに言うけど、もう今日は帰って、ってことだからね? 話したいことがあるのかもしれないけど、先に話してたのは私たちだし、好美にも、いつ誰と話すかを決める権利があるから。分かった?」
 戸惑う私の代わりに、やや強すぎるくらいの口調で上田さんにそう言ったのは美佳だった。普段は気さくで面倒見のいい性格だが、クラスの女子に男子がちょっかいを出したときなんかには、彼女が今のようにピシリと物申すのがいつものことだった。
「そ、そうなんだ。ごめんね、私、あんまり、こういうの得意じゃなくて」
 ようやく私の思いが通じたのか、あるいは単に美佳の強硬な態度に腰が引けたのか、上田さんはものすごいスピードの立ち漕ぎでどこかへ去っていった。「ごめんね、いつも」と私が謝ると「別に好美は悪くないから!」と美佳は怒るように返してくるものだから、私は恐縮しきりだった。どうも、美佳と千尋はどちらも上田さんと同じクラスになったことが何度かあるらしい。
「私、上田さんのこと苦手。私だけじゃないと思うけど。ちょっと距離感がおかしいって言うか、自分の世界? の押し付けがちょっと強すぎるって言うか……あの子、あんまり友達いないし、それに腐女子らしいよ。何か、変なブログ書いてるって聞くし」
 苦々しい表情の千尋が、上田さんが去っていったほうを見ながら言う。ブログ、という単語を聞いて、私は瞼のあたりがピクリとしたが、平静を装ったまま二人と解散した。

 その日も、家に自転車とバッグを置いたらすぐにハナちゃんのところへ歩いて向かい、リードを付けて散歩に行った。今頃、美佳と千尋は必死に机に食らいついているんだろうか? 3年前、受験を目前に控えた姉がそうだったように──そう思うと、急に胸がつんと痛くなった。
 当初、第一志望は早稲田だった。別にほかの大学にはない唯一絶対の魅力をあの大学に見出したわけではなく、単に進路指導室の壁に貼ってあった河合塾の偏差値ランキングを眺めてみたら、私立では早稲田が一番偏差値が高いと知ったからという、それだけの理由だった。その隣には、国公立大学のランキングも貼ってあったが、そっちは見なかった。高1の時点で早くも数学に躓いた私にとって、国公立という選択肢は存在しなかったのだ。
 嘘をついた。本当に行きたかったのは名大医学部だった。それは単純な理由によるもので、お姉ちゃんがそこに通っていたからだった。彼女の合格が判明したときの親族一同の喜びようは大変なものだったし、何よりお姉ちゃんと、彼女の苛烈な受験勉強を支えたお母さんが抱き合い、静かに涙を流している光景は、おそらくは永遠に消えてくれないくらいに、私の記憶に鮮明すぎるほどに刻み込まれてしまっている。
 お母さんが私のために泣いてくれたことは一度もなかったと、そのとき気付いた。生まれつきの引っ込み思案な性格に加え、周りの顔色を窺いすぎて自分の意見を素直に言えないことが多かった。それはもしかすると、お姉ちゃんほどの価値のない自分が、せめて周りに迷惑をかけないようにという、自分に対する呪いみたいなもののせいだったのかもしれない。だから私は、お母さんを困らせたこともなかったし、一方でお母さんが泣いて喜ぶほどの成果を出したこともなかった。もちろん、お母さんが私を愛していないなんてことはないだろう。ただ、期待の大きさという点では、明らかに私よりもお姉ちゃんのほうが大きかったはずだ。学校だけでなく、習い事なんかもお姉ちゃんと同じものばかりやっていたが、あらゆる場で彼女は私よりもうまくやった。そして、それは大学受験という場でも同じだったし、そこで見せつけられた、それぞれが18年間積み上げてきた人生の点数の差みたいなものに、私の自尊心は完全に破壊されてしまったような気がする。
 私は受験から逃げた。どれだけ青チャートを解いても数学はできるようにならず、それで名大医学部は諦めて早稲田を目指したはずだったのに、そっちはそっちで模試の結果はいつまで経ってもC判定かせいぜいB判定で、このまま頑張ったところで合格できるかは怪しかった。そんなとき、担任から明治の指定校推薦を受けないかと言われて、私はその話に飛びついてしまった。
 つまり私は、自分で自分に期待することをやめてしまったのだ。そのうえ、それをお姉ちゃんやお母さんのせいにしてしまっていた。悪意なく私を上回り続ける姉と、仕方のない慈悲のようにそれでも私を肯定してくれる母──家という最も身近で、そして最も狭い世界の中で私は、非致死性の惨めったらしさを常に感じていたし、秋のうちに早々に進路が決まり、受験から一抜けしてしまったせいで、最近は学校でちょっとした孤独まで感じることになっていた。

《今日もつまんない一日でした。》
 その一言と、あとはその日撮った一枚の適当な写真を載せるだけのブログを去年の11月から始めたのは、きっとそんな現実から目を逸らすためだったのだろう。アメブロなんかではなく、なるべく利用者の少ないマイナーなサービスを使っていたから、今となってはその詳細を思い出すことはできない。別に誰かに読まれるためでも、誰かと馴れ合うためでもないそのブログの閲覧数はほとんどゼロに等しかったし、たまに1とか2とかのアクセスがあっても、コメントがつくことはなかった。だから、そのブログはこの田舎町から、そしてこの狭い家から外に開かれた窓であると同時に、私のきわめて個人的な日記帳でもあるという倒錯性を有していた。
 初期設定のままの適当な名前のそのブログに投稿された写真は、いずれもガラケーの貧弱なカメラで撮られたもので、そのまま私が見ている世界だった。美佳と千尋とクラスで食べたお弁当。自由登校のせいで誰もいない廊下。洗濯されてベランダに干されているアザラシのぬいぐるみ。ハナちゃん。ハナちゃんと歩く畦道。ハナちゃんが拾ったテニスボール。冬の夕暮れ。ハナちゃん。ハナちゃん……私の世界は次第に、私とハナちゃんだけのものになりつつあった。
 あと2か月もすればこの街を去ると理解していながら、惜別の気持ちみたいなものも、あるいは東京に対する期待感みたいなものも、ほんの少しも湧かないことに驚いていた。私は別に、上京物語にありがちな田舎に対するコンプレックスも憎悪も特に持っていなかったし、何人かの仲のいい友達もいた。そして、18年過ごしたこの田舎町と対比されるべき東京に対して、そもそも解像度の高いイメージを持つことができていなかった。東京はせいぜいドラマやめざましテレビの中にしか存在しない世界で、この春からそこで生活し、おそらくはその後も東京の会社に就職して、転勤なんかもあるだろうが基本的にはそこで生活し続けるのだろうという事実に、私は確かな実感を持つことができていなかった。だから、私は地元から出ていくことに対しても、また東京で新しい生活を始めることに対しても、何ら特別な気持ちを持っていなかったのだ。
「ハナちゃん、東京ってどんなとこだと思う?」
 ハナちゃんは言葉を知らないし、もちろん東京のことなんか知らないから、私の問いかけに対して、いつかそうしたように、チラリと私の顔を見ただけで、弾むように畦道を歩き続けることを止めなかった。ハナちゃんは最近、明らかに痩せてきている。元からほっそりとした子だったが、最近はあばらがうっすらと浮き出るまでになっていた。米沢さんは、ちゃんとハナちゃんを世話しているのだろうか?
「大丈夫大丈夫、そんなに簡単に死にゃせんよ」
 その日、ハナちゃんを米沢さんちまで連れて戻ったとき、ちょうど玄関先で出くわした米沢さんは私の遠回しな質問に対して、そう言って明るく笑った。そこには、十分に世話をしていないことに対する罪悪感も、そもそも私から責められているという感覚すらも存在していないようだった。米沢さんは「お散歩連れて行ってもらえてよかったね~」と、いかにも愛情たっぷりな様子でハナちゃんをワシワシと撫でていたし、ハナちゃんもまた、気持ちよさそうにそれを受け入れていた。どこか、私だけがその親密な関係から除け者にされているような感覚――私はなぜか、お姉ちゃんの合格発表の日のことを思い出していた。

 

「#ネットミームと私」は全4回で連日公開予定