凄まじい唸り声とともに掌が引っこむ。
尻をついたまま背中から槍を抜き取る。今度はどっちから来るだろう。クムゥの姿は繁り葉に遮られて見えない。唸り声は聞こえなかったが、真下では荒い鼻息が絶え間なく続き、獣の濃い臭いが立ち上ってくる。今度こそ右掌で左側からか。腰を浮かして下を覗こうとした時だ。
左肩に衝撃が走った。頬に血が飛んだ。
やられた。また右側からだ。狭い木の股で身をよじって体を反転させる。
目の前にクムゥの顔があった。この世に人間が生まれてくる前から生えていたといわれるピナイのヤムの老木の切り株ほどもある、大きく丸い顔だ。丸い顔の真ん中にそこだけオホカミィのものをつけたような三角の鼻面が伸びている。鼻面は上下に割れ、牙を剥き、よだれを垂らしていた。
やつは、木に登れるのだ。右掌の爪が幹にしっかり食いこんでいる。矢が刺さったままの左掌を振りまわしてきた。とっさに身を引く。クムゥの切り裂いた空気が風になって頬を打ちつけた。まともに食らったら、首がもげていただろう。
ウルクは帯に挿しこんでいた竹筒を手に取る。ひと口ぶんだけ水が入っている。そいつを口に含んだ。
左手で竹筒をクムゥに投げつける。クムゥが払いのけた瞬間を狙って、首を突き出し、口の中の水を小さな両目に吹きつける。
「グゴォゥフ」
矢を突きたてた時よりも大きく咆哮して、クムゥが滑り落ちた。
ウルクが吹きかけたのは、塩水だ。旅に出るとき、おふくろに強引に持たされた塩は、長旅になることを考えてほとんど使っていない。その全部をひと口分の水に溶かしておいたのだ。初めてのものに怯えるあの獣は、初めての痛みに衝撃を受けると考えて。思い知ったか、これが人間の道具だ。
一瞬、おふくろの顔が頭に浮かんだ。その顔は、どうだい、年寄りの言うことは聞くもんだろ、と言っているふうだった。わかったよ、おふくろ。新しい世界で見つけるだろう、珍しい食い物を持って帰ってやるよ。もし生きて帰れたら。
クムゥは吠えながら、自分の頭を幹に叩きつけている。いまのうちだ。
ウルクは針葉の幹の槍を投げるために右手を振りかぶる。だが、投げようとする寸前で手が止まってしまった。
大石にも倒れない相手にこれを投げたところで、どれほどの痛手を与えられるだろう。硬い毛皮と皮膚にやすやすと弾きかえされてしまう気がした。
考えられる術はひとつだけ。そう、獣と戦うただひとつのコツは、命を惜しまぬことだ。
ウルクは樹上で立ち上がり両足を開く。両手で槍を握りしめて、頭上高く掲げた。魚を銛で突く時と同じ体勢だ。ここから飛び降り、槍に自分の目方のすべてを乗せて突き刺すのだ。
「頼むぞ、針葉」
肩から流れる血が背中を伝っている。感じることを忘れていた痛みが襲ってきた。ぼろぼろの毛皮になったカァーの残骸が頭に浮かぶ。顔がなくなったシラグムの姿がそれに重なった。首尾よくいかなければ、俺もああなるのだ。ここで誰にも知られないまま。それでもウルクを駆り立てていたのは、岩壁の頂上から見た光景だ。生きてこの森を抜け出ることができれば、世界をこの目で見ることができる。そうしたら死んでもいい。それまでは死ねない。
ためらったのは、まばたき一回ぶんぐらいのものだった。
ウルクは槍を振りかざして、クムゥめがけて飛んだ。狙うのは首筋。