鳥の声が聞こえなくなった。
 虫の羽音が高まっている。
 木立の奥でかすかな音がした。
 ぱき。
 地面の小枝が踏み砕かれた音だ。
 葉擦れの音も聞こえてきた。小さな獣が草木をかき分ける音とはあきらかに違う。たくさんの葉がいちどきに大きく揺れる音。そして、音と音との間が長い。大きなものがゆっくりと近づいてくる音だ。
 現れるのは、さっきと同じ草藪からだろう。獣というのはそうしたものだ。
 ウルクは唇をすぼめて呼吸し、胸から躍り出そうな心の臓をなだめすかす。
 さっきから何度もそうしているように、自分の考えた方法がうまくいく光景を頭に描く。それが正しいのかどうかわからないまま。いつかシラグムが言っていた。どうすればお前ほど矢が当てられるようになるのだ、と皆に聞かれた時だ。
「矢を射る前に、矢が当たった光景を思い描くんだ。神は俺たちの頭の中まで覗けるからな。そうすれば願いが届く」
 ときおりちらつく自分がクムゥに食われる姿は、頭の外へ押しやった。待っていてくれシラグム。あいつの腹を引き裂いて、あんたの魂を外へ出してやるから。
 べき。
 また小枝を踏みしだく音。だいぶ近づいている。
 藪の奥で草木の梢が激しく揺れはじめた。ウルクは息を殺す前に、一度だけ大きく息を吸い、吐いた。
 現れたクムゥの真昼の陽の色の顔には、まだカァーの血がこびりついていた。乾いて薄黒くなっている。
 先ほどまでの余裕はないように見えた。用心深い足どりだった。付け根に矢が刺さったままの左足を引きずっている。効いてはいるようだ。黄黒蜂の針刺しぐらいには。
 羽虫に驚いて顔を左右に振っている。あれほどの体を持ちながら、意外に臆病な獣だ。だが、勇気なしは、じつは怖い。恐怖から逃れるために、ときに向こう見ずな行いに出る。いまのウルクと同じように。
 埋め戻しておいたカァーの残骸のある場所に近づいてくる。ウルクが小便をしたあたりにひとしきり鼻をひくつかせてから、また顔を戻す。地面を嗅ぐしぐさがさっきより執拗になっていた。
 ウルクにはクムゥの顔が真正面に見えていた。ヌペの樹上に身を潜めていた時より距離は近い。しかもクムゥの姿はどんどん大きくなっている。
 ウルクが身を潜めているのは、いくら周囲を見まわしても、気づかなかった場所だった。目に入らなかったのは、頭上にあったからだ。ウルクは、カァーを吊るし、クムゥが根もと近くに食い残しを埋めた老木の上にいる。
 太い枝が二股に分かれたつけ根だ。人一人がしゃがみこめる空間がある。脇枝にたっぷり繁った葉がウルクの姿を隠しているはずだ。カァーを吊るしていたのは、一方の太枝の先から下方に伸びた脇枝だから、ここの高さはウルクの背丈ふたつ分。クムゥの伸ばした前足が届いたとしても、太枝のどちらかの上に登ってしまえばいい。
 クムゥはカァーを掘り起こしはしなかった。匂いを嗅ぎながら周囲をぐるぐる歩きまわるだけだ。残りを食うためではなく、手に入れた肉を見張りに来たのだろうか。
 どっちでもいい。もっと近くへ来い。早く。俺の腕が疲れないうちに。
 ウルクは弓を構えてはいなかった。両手には石を抱きかかえていた。カァーの死骸を結び直す時に背が足りなくて踏み台にした、ウルクの顔よりずっと大きな石だ。
 抱えて登るのはむずかしい目方だった。背負って運ぶことも考えたが、矢筒にも入りきらない大きさだった。だから、カァーをぶらさげた蔓草の縄で結わえ、それを枝にかけて自分の目方を使って二股のつけ根まで引き上げた。
 早く来い。クムゥに頭上のウルクを気にとめる様子はなかった。
 やっぱりそうか。最初に現れた時になんとなく気づいた。陽の色のクムゥは、驚くほど鼻が利くが、目はあまり良くない。そして自分が他のどんな獣より大きいせいか、上方にはあまり関心を払わない。ウルクを見逃しているのではなく、カァーと同じ匂いをまとったウルクに気づいていないのだ。
 早く来い。真下まで。
 来なかった。クムゥはカァーを埋めた土の上にうずくまってしまった。
 もう日が西に傾いている。早くしてくれ。日が暮れたら、夜目の利かないウルクは分が悪い。いや、その前に、この重い石をいつまでも抱え続けることはできない。
 こちらからしかけるしかなさそうだ。かたわらに置いた矢筒に片手を伸ばして、割れた土の器のかけらを取り出す。そいつを下へ落とした。

 

「二千七百の夏と冬」(人食い羆VS縄文少年 激闘篇)は、全3回で連日公開予定