テレワークのおかげで、パワハラの告発が増えているのだと、知人が言っていた。次の朝、会社に行って顔を合わせないと思うと、普段は言わずにのみ込んでいたことを、吐き出せるらしい。
私たちは、案外、顔の圧力に弱いのかもしれない。話の内容より、押しの強さとか声の大きさとかがものをいう世の中なのだろう。ネットの会議になってから、若い人が発言するようになったという話も出てきて、どうしてだろうねぇと私たちは首をひねった。誰も話さないと、普段しゃべらない人も口を開かざるを得ないんじゃないですかと言う。会議室にいさえすれば、何も言わなくても参加したことになるが、ネットの場合、そうはゆかないのだろう。
存在感がないと言われている人も、そこにいれば私たちは知らず知らずのうちに、その人の何かを感じ取っているのかもしれない。
昔、テレビゲームのパチンコにハマった。液晶に映る弾かれる玉を見ているだけなのだが、それでも玉数が減ったり増えたりするのが楽しくて、一日に何時間もやっていた。そんなとき、そうだ、久しぶりに本物のパチンコをやってみようと店に入ったのだが、私は本物の鉄の玉が弾かれてゆく様子を見て、ひどく心が揺さぶられた。どう表現すればいいのだろう。そこに玉が「ある」という感じが半端ないのだ。玉のぶつかる音や、手に伝わる振動は、テレビゲームに慣れてしまった私には、乱暴でスマートでないのだが、それが楽しかった。
「ある」というのは何だろうと思う。アニメの登場人物のフィギュアを手に入れたい気持ちはとてもよくわかる。さわりたいのはもちろんあるが、自分の元に確かに「ある」と納得したいのだ。
三次元は、まだ私たちのものだ。ビロードのような手ざわりの葉っぱも、錆びた鉄の扉も、つるつるのデパートの床も、匂いや手ざわりでそこにあるものと信じることができる。しかし、このまま、人工知能(AI)の能力が向上してゆくと、それさえも人工的につくり出してゆくだろう。そのとき、私たちは「ある」ということに確信を持てなくなってしまうかもしれない。自分のことさえ、「ある」と確信を持てなくなってしまったらどうしよう。確かなものがないまま、人はどうやって生きてゆくのだろう。
ある日、私のところに誰かがやってきて、あなたの人生は全部作り物でしたよ、と告げられたら、それはショックだが、だからといって、自分の過ごしてきた時間のすべてがなかったことだとは思えないだろう。
人生にかかわった人、すべてがお金で雇われた人であったとしても、あるいは人間ではなくロボットだったとしても、私が見ていた長い長い夢であったとしても、緊張の後のほっと空気がゆるんだ感じとか、怒りをぶちまけて受け止めてもらった手応えとか、本当にあったこととして、私の中にいつまでも残ってゆくはずだ。
街なかで「いやぁ、久しぶり」と声を上げている人を見た。コロナで長く会えなかったのだ。きっと、互いに、遠くで姿を見つけたとき、「あ、いた」と心が浮き立ったことだろう。
ダンナと一緒に暮らし始めたころ、朝起きて、隣でまだ眠っている彼を見つけたとき、不思議な気持ちと嬉しさで、思わず「あ、おった!」と叫んでしまった。
会えなくなった人がいる。それでも無性に会いたいと思うのは、頭の中だけではどうしても処理しきれないものがあるからだろう。理屈だけでは、自分を納得させることができない何かだ。
会いたいというのは、その人が、「いる」ということを、ただ感じたいだけなのだ。私もあなたも、分け隔てなく、そう思ったり思われたりしている。
会いたいと思うのは、無事にいてほしいという、祈りみたいなものなのだろう。