友人たちからお花をいただいた。花屋で私の人となりを説明して、花束をつくってもらったのだという。あまり見たことのない、おおぶりの紫や黄色の花がぎっしり詰まっていて豪華だった。へぇ、私ってこんな感じなのかとびっくりした。
OLをしているとき、後輩から「先輩はマイナーだから」と言われて、戸惑ったことがある。当然のようにそう言われてしまうと、自分でも、そうなんだろうとOL時代を過ごしてきた。しかし、よく考えると、テニス部やスキー部、アートフラワー部、着物着付け部、編み物部の部長をさせられ、会社のイベントには何かしら引っ張り出されてきた私が、何でマイナーなんだと納得がゆかない。
花束をくれたのは、高校の美術部で一緒だった友人たちなのだが、彼女たちは私が美術部の部長だったことを、誰一人覚えていなくて愕然としたことがある。けっこう苦労したのになあと思う。
高校三年のとき、誰もやりたくない文化祭委員を押しつけられたことも、誰も覚えていないだろう。クラスのみんなはてんでバラバラで、言うこともめちゃくちゃで、多数決でなんとか屋台に決まった。焼きトウモロコシとタコ焼きとジュースを売ることになった。そう決まったものの、まともに調理できる生徒などおらず、当時はまだカセットコンロなどなく、結局、七輪で焼くことになり、当日はあちこちで「わっ焦げた」と大騒ぎだった。それだけでも大変だったのに、誰かが売り上げをごまかして、クラスで打ち上げパーティーをやろうと言い出したので、私は裏帳簿も作成しなければならなかった。
もう一人の文化祭委員である男子は、見事に何もしてくれなかったが、打ち上げの会場として自宅の庭を開放してくれた。そこは驚くほど広く、芝生が敷きつめられていて、みんなのテンションは上がった。何を食べて、どんなゲームをしたのかまったく覚えていない。そこで中心になっていたのは私ではないからだ。トウモロコシやタコ焼きを焼いていた子たちでもなかった。文化祭の間中、これという仕事もせず、わいわい騒いでいた子たちだった。そのとき、私はなんだか割り切れないものを感じた。
しかし、脚本家というテレビの裏方の仕事をするようになると、少し考えが変わった。テレビの中は、わいわい言っている人たちばかりが集まっている場所で、それもひとつの才能だとわかったからである。無責任なことを言っているように見えるタレントでも、それを続けるのは並大抵のことではない。そういうのを見ていると、つくづく、人には役割というものがあるのだなあと思う。
OLのとき、後輩に言われたとおり、私はマイナーだったのだろう。化粧もせず、髪もぼさぼさで他のOLに合わせることは、ある時から諦めていたからである。人に合わせて、数をたくさん取るのがメジャーだとするなら、私は圧倒的にマイナーだ。しかし、メジャーになるということに、あまり魅力を感じない。そんなことより、まわりがうまく回っていくことの方が、はるかに大事だと思うようになった。と言うと、負け惜しみだと言われるだろうか。
ダンナいわく、私たちは「マイジャー」であるらしい。脚本家は裏方の仕事だが、ドラマの終わりに流れるクレジットタイトルは、けっこういい場所に名前があったりする。マイナーに見せかけたメジャーなのだそうだ。
私が友人たちからもらった花束は、ドラマの収録が終わった女優さんがもらうような、バラやらカサブランカやらが入ったようなものではなかった。名前の知らない花ばかりだったが、どれも存在感があって、長く咲き続けた。そうか、こんな花束みたいであれ、と言われているのかと思う。私らしさというのは、こちらができることだけをやり続けていると、外から決めてくれるものらしい。
エッセイ・コラム
木皿食堂4 毎日がこれっきり
あらすじ
ダンナと一緒に暮らし始めたとき、朝起きて、隣でまだ眠っている彼を見つけたとき、不思議な気持ちと嬉しさで、思わず「あ、おった!」と叫んでしまった。(中略)会いたいというのは、その人が「いる」ということを、ただ感じたいだけなのだ。私もあなたも、分け隔てなく、そう思ったり思われたりしている──。名脚本家が、ささやかな日常に見いだす幸せのカタチを綴ったエッセイ。
私らしい花束
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