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 ゴミ出しをしてから、みづきはゆかりを起こすために二階に上がり、姉妹の部屋に直行する。あくびが止まらない。本当は自分だって妹ぐらい寝ていたかったけれども、この家で妹を起こせるのは自分だけなので我慢する。
 妹は、古い目覚まし時計の耳障りなピピピという音の中で、あとちょっと、あともう五分、と言いながら、布団を被ろうとする。
「起きてよ。頼むよ」
「今日は学校休む……」
「だめだよ。一回ずる休みしたらもうどんどんやっちゃうんだって」
 そんなことないよ、一回だけ、とゆかりは口答えする。みづきは、今日じゃなくてもいいでしょ、もっとしんどい日が来るかも、と話を引き延ばしながら、不意に大きなあくびがこみ上げてくるのを感じる。顎の付け根がひきつって、頭が痛くなるような大きなあくびだった。それを見て妹は笑い出す。おねえちゃん顔おもしろい、と言う。みづきは少し頭にくるけれども、それでゆかりが起きてくれるんなら何回でも大あくびをする、と思う。
 ゆかりは顔がかわいくて、自分は普通だ。だからゆかりに顔のことを言われるとみづきは傷つく。でも今は仕方ない。
「じゃあ今度一回休ませてくれる?」
「いいよ」
 そううなずくと、ゆかりはやっと起き上がる。みづきはほっとする。ゆかりは、トイレ、と言いながら、パジャマのまま部屋を出ていく。みづきはその隙に、洗濯物を取り込みに行く。ベランダはおばあちゃんの部屋にあって、おばあちゃんはまだ寝ている。カーテンを開けると、やめてよ! とおばあちゃんは怒る。みづきは、がまんしてね、とガラス戸を開けながら、バカ娘! というおばあちゃんの悪態を聞く。
「わたしはおばあちゃんの孫で娘じゃない」
「どっちでもいい」
 みづきは、機嫌の悪いおばあちゃんが何を言おうと気にしないようにして、洗濯物を取り込む。妹のシャツも自分のシャツも、まだ完全には乾いていないけれども仕方がない。自分の給食のエプロンもすこし湿っているような気がする。宿題をしていて、洗濯をするのが遅かったからかもしれない。
 洗濯機が、洗濯物を放り込んで「自動」というボタンを押して洗剤を入れたら洗濯をしてくれることに気付いて以来、みづきは自分と妹の洗濯をしている。お母さんが洗濯をしてくれるのを待っていても、数日続けてするときもあれば、二週間以上溜め込んでいる時もあるからいつ洗ってくれるかが読めないし、おばあちゃんは何も言わずに自分の服を洗ってしまうからだ。自分と妹は、二着ずつしか制服のシャツを持っていないので、頻繁ひんぱんに洗わないといけないのだが、それはお母さんとおばあちゃんの生活スタイルには合わないようだ。「運が良ければ」お母さんが洗濯するときに一緒にしてもらえる、のでは足りない。学校で「くさい」と言われるのはもういやだった。
 姉妹の部屋に戻って、トイレから帰ってきた妹に、タンクトップと制服のシャツと、カーテンレールにかけていたスカートを渡してやる。
「シャツ、まだつめたい……」
「うるさいなあ」
 みづきは、口調に気をつけながらもそうやって反論してしまう。妹には悪いと思うけれども、これが精一杯なのだ。ゆかりは、言い争いになると面倒だと感じるのか、それとも少しはこっちの働きを評価していてくれるのか、仕方ないなー、と言いながら着替えを始める。みづきも寝間着のハーフパンツとTシャツから制服に着替え、ランドセルを持って、早く降りておいでね、とゆかりに声をかけて部屋を出る。
 朝ごはんは、トーストとスクランブルエッグにする。昨日の夜は、それにウィンナーを足して食べた。
「ウィンナーないの?」
「昨日二人で全部食べたし」
 二階から降りてきた妹が不満そうにするので、みづきはそう答える。今日の朝の分を残しておくべきだったかもしれないけれども、昨日の夜は二人ともおなかがいていた。仕方がなかった。お母さんからもらったお金を日割りすると、昨日はウィンナーを一袋買い足すのが限度だった。次はいつもらえるかわからない。
 お母さんは、家にいない時は機嫌が良くて、いる時は機嫌が悪い。家にいない時は好きな人がいて、いる時は好きな人に嫌われている時か好きな人がいない時だ。だからみづきは複雑だった。お母さんに家にいてほしいけれども、機嫌が悪いのはいやだし、でも、いない時はもちろん寂しい。好きな人がいる時は、姉妹よりその人にごはんを作ってあげたいらしくて、家にはいない。「好きな人ができたかもしれない」とうれしそうにみづきに話してくるお母さんは、まるでクラスの女の子みたいな表情をしている。そして家を空ける。会社にはその好きな人の家から通って、家にはときどき帰ってきてみづきにお金を渡していく。それが足りなくなったことは今までないけれども、残り少なくて不安になることはしょっちゅうある。
 お母さんはすぐ男の人を好きになるけれども、あまりもてないということがみづきにはうすうすわかってきている。お母さんは地味な顔立ちをしていて、身なりもそんなに女らしくないのに、すぐに恋に落ちる。機嫌が良くなる。そしてずっとその気分を続かせたいと思うのか、姉妹の元を離れて相手の男の人の世話を焼きにいく。世話さえ焼いたら自分を好きになってくれると思い込んでいるみたいに。男の人の洗濯物を持って帰ってくることもある。気分が乗らない時は、みづきにその洗濯を頼んで干させることもある。
「ごはんが食べたいね」
「今食べてるよ」
「そうじゃなくて、お米」
 マーガリンをつけたトーストをかじりながら、みづきはごはんのことを考える。給食はパンが多くて、ごはんが出るのは週に二回だ。月曜日と水曜日。ごはんをたくのはトーストを焼くより難しそうだ。炊飯器を使うのはわかるのだが、使い方を訊こうにも、お母さんはみづきと顔を合わせると自分の話ばかりするからたずねることができない。お母さんの話が終わった後に、炊飯器の説明書はどこ? と訊くと、なぜか怒り出した。おばあちゃんは、もうごはんは自分で作らなくて、近所のスーパーでお惣菜を、自分の分だけ買ってくる。余ったものを姉妹にくれることはあるけれども、あてにはできない。
「おねえちゃんさ、知ってる?」
「何を?」
「とーぼーはん」そう言ってゆかりは、トーストの残りを水で飲み込む。「学校で先生に言われた」
「言われたね。昨日のホームルームで」
大谷おおたにさんのうちの近所の人なんだって」
 ゆかりは得意げにみづきの顔をのぞき込んでくる。大谷さんはゆかりの友達の一人だ。ちょっと怒りっぽい子で、ゆかりとはくっついたり離れたり、またくっついたりしている。
「へえ、どんな人? 美人なの?」
「それはわかんないけど……」
 ゆかりは言葉に詰まって、それをごまかすように食器を流しに置きに行く。洗うのはみづきの役目だが、とにかく使った食器は流しに持って行ってと毎日頼むとやってくれるようになった。みづきは、何事も根気が大事だ、と担任の山口やまぐち先生が言うようなことを思った。ゆかりが三年生になったら、自分の食器は自分で洗ってもらうようにしようとみづきは考えている。
「その人、どこに逃げていくのかな?」
「それもわかんない……」
「わたしも連れていってくれないかな」
 不意の言葉が口をつくのを、みづきは感じた。言葉にするまで、一度も頭によぎったことがないようなことを自分が言うのは、不思議な体験だった。

 

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