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 たぶん今日パートから帰って、最後の荷物をいったん庭に出したら、倉庫が完全にからになると思う、と博子ひろこは夫の朗喜あきよしに言った。朗喜は、そっか、とうなずいて、昨日の残りの炊き込みご飯を口に入れる。具材は息子の博喜ひろきの好きなこんにゃくと人参と油揚げだった。
 博喜はまだ寝ている。博子がパートに出かける九時半にいつも起きる。
「ずっと話し合ってたことなんだけどさ」
「うん。カメラね」
 この一か月半ほどの間、博子と朗喜の間でずっと議論になっていることを、二人は話し始める。顔を合わせるたびに、博喜の話をして、雑談をして、最後にカメラの話をするという三部構成で話している気がする。
「やっぱり買わないでおきたいと思う」
「そうね」
「信頼したいんだよ。ただの心情的なものかもしれないけど」
 朗喜はそう言ってうつむき、味噌汁のお椀を手に取って口を付ける。の入ったあか出汁だしの味噌汁だった。
「心配ではあるけれども」
「できるだけ頻繁に様子を見に行くしかないよね」
 君には負担をかけるかもしれないけど、と朗喜はすまなそうに言って、茶碗の炊き込みご飯をすべて口に入れる。博子は、軽く無言で何度かうなずき、パートの休憩時間には帰ってくるようにする、と小さい声で言う。
「僕が仕事から帰ったら、定期的に見に行くようにするし、夜中も一度起きて様子を見に行けばいいだろう」
 朗喜は、博子に話しかけるのではなく、自分自身に言い聞かせるように行動の予定を作っていく。博子は、朗喜が見ているか見ていないかは考えずに、ただうなずく。
「エアコンの性能はいいよね、自分たちの部屋の方にほしいぐらい」
 買わないものの話で気まずくなったので、買ったものの話をする。博子の言葉に、朗喜は軽い笑い声をたてる。
「外からかける錠を、今日買ってくるよ。ダイヤル錠でいいよね」
「うん」
 博子はうなずく。カメラとは違って購入は決定しているが、どちらが買ってくるのか長い間決めかねていたものを、朗喜が引き受けるという。博子と朗喜は、日々少しずつ庭にある倉庫を改造して、快適に過ごせるようにということには奔走ほんそうしてきたけれども、閉じ込めのためのツールにはほぼ手を出せずにいた。口の端には上るものの、そんなことよりも博喜が穏やかに過ごせることを考えていたかった。
 二か月分の土日を利用して、博子と朗喜は倉庫の四方の壁に、厚い低反発素材のシートを貼った。夏にすごく暑いかもしれないと躊躇ちゆうちよしたけれども、お店の人によると断熱効果もあり、外があまりにも暑い場合は熱気を部屋の中に入れないので良いという。博子と朗喜は、寒さも暑さもいとも簡単に迎え入れてしまうこの古い家よりも、これを貼った倉庫の方がもしかしたら快適かもしれない、と話して笑い合った。先週は大きなテレビを買った。それで当面は、今まで録り溜めた海外の旅番組を観ていてもらう。専用のアンテナも可能なら取り付ける。国内だと場所の名前を覚えて勝手に行ってしまったりするから、できるだけ遠いところを取り扱った番組を観せるようにしている。
 二階で、どすん、という音がした。博喜が壁にぶつかる音だった。博喜は眠っている時に不快さを感じると、壁にぶつかってそれを解消しようとする。ベッドを部屋の真ん中に置いてみたものの、博喜は壁にぶつかることに何かのこだわりがあるらしく、一人でベッドを移動させてしまった。力が強いのだ。博子はもちろん、朗喜よりもすでに十センチ以上背が高いし体重も重い。おそらくこれからも大きくなるだろう。
 博子は身長一五三センチ、朗喜は一六一センチと小柄で、二人の両親はともに平均的な体格なのだが、博子の父方の祖父は背が高かった。朗喜の母方の祖母も、大正生まれにしては長身でがっしりしていたのだという。博子は祖父が好きだったし、朗喜も田舎で祖母が歓待してくれるのがとても楽しかったと話してくれたことがある。博喜の大きさは、彼らの遺伝子を受け継いだものなのかもしれない。
 博子が相続したこの古い家は大きいので、博喜には充分なはずだけれども、私たちが小さくて力が及ばないのだ、と博子はときどき思うことがある。それは何か、現実よりはおとぎ話のような感触を持った夢想だった。大きな人間の赤ん坊を育てる小人の夫婦のようだと、自分たちについて思うことがある。けれども、どれだけの速度で自分たちより大きくなっていくとしても、博喜は自分たちの子供なのだ。まだ十二歳の。
 病院にはたくさん行ったけれども、いくつか疑いのある診断名がついていくだけで、どうしたらよいのかは具体的にはわからないままだった。学校の先生に伝え、家ではストレスがかかりすぎない生活をさせるぐらいしか、博子と朗喜にはできなかったのだが、博喜は怠け者ではなく、勉強は嫌がらないし家事の手伝いもする子なので、何がストレスかというのが見えにくく、自宅では、混乱させることや強い禁止やほのめかしをせず、できる範囲でやりたいことをやらせる、という曖昧あいまいな対策しかとれなかった。
 家では気を配っていても、学校では、ときどき言葉が出なくなってしまうことや、何かを考えているときにひどく右腕を動かしてしまうことなどについて、集団でからかってくる子の数人を博喜が叩くというようなことはまれに起こった。またあんなことがあったらと思うと気が気でなくなって、博子と朗喜はなんとかして博喜を平均的な子供にする方法を見つけたいと病院に連れて行くのだが、やがて博喜は医者にられるのをいやがるようになり、病院に行くという雰囲気を察知すると、どこかへ逃げ出してしまうようになった。逃げ出すたびに博喜は遠くへ行き、先々月は三つ離れた県で見つかった。小遣いを少しずつ貯めて、いざという時に遠くに行けるように準備していたらしい。放浪癖と言ってもいい博喜の度重なる遁走とんそうに、博子は、クラスメイトを叩いたということと同じぐらいか、それ以上の恐怖を覚えた。博喜がいなくなるたびに博子は、呼吸が詰まって動悸が激しくなり、頭の中が硬直して手足が冷たく動きにくくなるのを感じる。死の危険すらよぎることもある。
 賢い子だよな、と朗喜は、保護された先から帰る特急の車窓の田園風景を眺めながら、疲れたように言った。僕がこの子の年の時はそんな知恵はなかった。博子は、私も、と答えた。博喜は、小さい頃から持っているガーゼのタオルケットを頭から被って眠っていた。
 どこかの施設に入所させることはできないかとネットで探したけれども、目星をつけた施設の評判を隅々まで読むと、あまりに問題を起こすと身体的な拘束をするかもしれないと書いてあった。それはどうしてもかわいそうで、だったらもう、家にずっといてもらっても大差ないのではないか、と夫婦のどちらかが言い出した。家は古くなってきていて、玄関からいくらでも出ていけてしまうから、数年前に改修した倉庫にずっといてもらう。外から鍵をかけて。トイレも空調もつけて、できるだけのことはする。もし大丈夫そうなら、親子三人で毎晩散歩をしよう。母親と父親でしっかりと息子の腕をつかんで。その生活に慣れたらもう少し遠出して、親子三人で旅行にだって行けるようになるかもしれない。その時も、母親と父親でしっかり息子の腕をつかんで。
 ひどいことだと思う。でも博喜が不意にどこか遠いところに行ってしまって、そこで何かあったらと思うと血が凍るような思いがする。
 朗喜の父方の祖父は、家族のけんかで家出をして行方不明になり、一か月後に亡くなっているところを発見されたという。それまでも、よく数日姿を消すことがあった。博子の母方の祖母は、とても変わった人だった。記憶力が良くて、博子が訪ねた時に言ったことや着ていた服をすべて覚えていて、一緒にいて楽しかったが、神経質で内にこもるところがあって、同居していた母の姉はときどき手を焼いていたそうだ。
 彼らにもきっと善良なところはあっただろうし、私たちしか知らないかもしれないけれども、博喜は思いやりのあるいい子だ。庭で雨の中をっていた脚が一本とれた蜘蛛を軒下に移してやったり、災害があったら小遣いでパンを買えるだけ買ってきて、これを被災地に送ってほしいと言った。同い年の子供のカカオ農園での児童労働のニュースを観てふさぎ込んでいたこともあった。チョコレートを食べたくなくなる、と博喜はつぶやいた後、でも食べないと働いたお金すらもらえなくなる? と続けた。そうかもしれないね、と朗喜はうなずいて、博喜が大きくなったらそういう人を助けてあげてくれ、と言った。博子も心の底からそうなるといいとその時は願った。
 けれども私たちは、それとは逆の方向に動いているのかもしれない、と博子は思いながら、自分の食事を片付けて食器を流しに持って行く。博喜を閉じ込めておくための夫婦の共同作業は、袋小路に迷い込んでどうしたらよいかわからなくなっている二人にある種の結束とやりがいを与えていたけれども、本当は料理の味すらもわからなくさせている。
「そういえばね、このへんに逃亡犯が来ているらしいよ。職場のお客さんが教えてくれた」
「ああ、パート先でもなんかそういうこと言ってたような」
 話しながら、二人ともほとんど興味がないんだろうな、と博子は思う。
「博喜には知らせない方がいいよね」
「うん。よけいな刺激になるかも」
 博子がうなずくと、じゃあ出かけるよ、と朗喜はごちそうさまをして、食卓の脚に立てかけた通勤用のショルダーバッグを肩から掛け、部屋の隅にまとまっていたゴミ袋を拾い上げた。